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ディミトリス・パパイオアヌー《TRANSVERSE ORIENTATION》公演評

ポストヒューマンの時代における倫理と美学

文:保坂健二朗(滋賀県立美術館ディレクター(館長))
2022.11.1 UP

 ディミトリス・パパイオアヌーの《TRANSVERSE ORIENTATION》(以下、TOと略)は、断片的なシーンの集積によって成り立っている。それらを紡ぐ明確なストーリーはない。一方、パパイオアヌーの出自が絵画の制作にあるからか、TOのシーンには、美術作品を参照して設定や構図をつくりあげたと思しきものがいくつもあり、それは解釈の鍵として重要であるように見える。
 たとえば、プレスでもよく使われている、立っている女性の腹部から、べったりとした不透明の液体とともに赤子が産まれるシーン。これは、構図としてはボッティチェルリの《ヴィーナスの誕生》やアングルの《泉》を、内容としては、マシュー・バーニーの作品を想起させる。その直後の、太った女性が出てくるシーンは、《ヴィレンドルフのヴィーナス》とそれをめぐるFacebookによる検閲と謝罪のエピソード(*注1)を補助線にすれば、美の基準をめぐる興味深い解釈が生まれるだろう。また、これまたよくプレスで使われている輪(円)の出てくるシーンは、脚立(△)と折りたたみベッド(□)と輪(○)が存在している以上、パパイオアヌー版の禅画(○□△)として解釈することが可能だ。

©Julian Mommert

 と、本当にいくつもあるのだが、当然ながら、ここで全てを取り上げ仔細に語ることはできない。だから、このレビューでは、あくまでも冒頭のシーン(牛が出てくるまで)と、最後のシーン(女性が沈んでいった後)に限った上で、TOとはなんであったかを考えてみたい。結論を先に言ってしまえば、少なくとも私にとってTOとは、ポストヒューマンについて真摯に語らなければならなくなった時代における、その倫理と美学を考えるための、身体を含むインスタレーションの集積、であった。

モノリスとしての蛍光灯

©Julian Mommert

 TOは薄明かりの部屋から始まる。正面には、ほぼ舞台の幅いっぱいの壁がある。下手側の上方には蛍光灯があり、点灯している。上手側には人が一人通れるくらいの小さな扉がある。グレゴール・シュナイダーのインスタレーションのような、陰鬱な雰囲気が全体に漂っている。
 扉から、ひとりの黒い人が登場する。彼は一直線に開いた状態の脚立を運び込み、それを床にそっと置く(が、置き方が悪いので、すぐにがちゃんと倒れる)。別の黒い人が扉から入ってきて、脚立にすりすりと近寄っていく。彼もまた脚立の使い方を知らないようだ。さらに、扉から、あるいは舞台袖から、黒い人がわらわらと集まってきて、脚立の周りに集まり、無言であれこれ話し合う。誰も脚立の使い方を知らない。
 おもむろに、蛍光灯が明滅し始める。すると黒い人たちは、脚立そっちのけで蛍光灯の下に駆け寄り、半ば興奮状態のようになる。しばらくすると、その中のひとりが脚立へと戻り、それを折って立てて、昇り始める。そして頂部で一人立つ。雄叫びことあげないものの、感動しているのだろう。明滅を続けている蛍光灯は、まるでともに喜んでいるかのようだ。残りの者たちはと言えば、ついに使い方のわかった脚立が気になったのだろう、そのもとへと駆け寄り、次から次へと昇っては降りを繰り返す。脚立の新しい、遊戯としての使い方の誕生である。その背後で、蛍光灯は、壊れたもののように明滅を続けている。
 この一連のふるまいは、どうしたって、映画《2001年宇宙の旅》のあの有名なシーンを思い出させる。モノリスに出会った猿たちが、そこここに散らばっている骨が道具(あるいは武器)としても使えることに気づき、やがて暴力そして闘争に目覚めていくあのシーンだ。TOの蛍光灯は、モノリスとして、黒い人たちに啓示を与え、言祝ぎもしたものの、やがてその重要性を無視される。先のシーンの後、もうひとつの脚立が運び込まれて、いとも簡単に明滅を直されてしまうのである。蛍光灯の神秘性はもはや忘却の彼方へと去った。脚立が胚胎していたはずの遊戯性も忘れ去られ、道具性だけが残った。

黒いポストヒューマンたち

©Julian Mommert

 ところで、この、上から下まで黒づくめの彼らは、そもそも「人」なのだろうか。
 プロポーションは頭一つ分だけ背が高く、動きはサイレント映画のようにぎこちない。その一方で、上から下まで黒づくめで、身長以外の個体差がなく画一的である。
 彼らはきっと、ポストヒューマンなんだろう。いつの時代かはわからないけれども、この地球で、脚立の使い方がもはやわからなくなってしまったぐらいの遠い未来に属する、人間以後の人間。
 実はTOは、生誕をモチーフにしたシーンが多い。ギリシャ神話をインスピレーション源に持つシーンがあっても、そこで描かれるのは暴力や殺害ではなくて、生誕だ。おそらくパパイオアヌーの関心は、舞台芸術という、生身の人体を使うジャンルにおいて、今われわれが、そろそろ生まれるのではないかと感じているポストヒューマンの美学を問うことにある(ちなみに、最近邦訳の出たクリストフ・メンケの『力 美的人間学の根本概念』(2022、人文書院)が示すように、美学とは、人間と主体と美の関係をめぐる議論にほかならない)。だからこそTOは、ポストヒューマンによるモノリス=蛍光灯との出会いから始めなければならなかった。

印象としての動き

 今さっき、黒いポストヒューマンたちの動きがサイレント映画のようにぎこちないといった。ここは少し確認しておく必要がある。
 チャップリンがあのように見える最大の理由は、現在の私達が見ている映画とは、一秒あたりの静止画の枚数=フレームレート(fps)が異なるからだ。現在の一般的な映画が24fpsであるのに対して、当時の映画は16.6fpsだった。そのため、なめらかさが印象としては生じず、かくかく動いているように見える。この「見え」を、パパイオアヌーは、冒頭に登場するポストヒューマンの動きとして振り付けた。
 時間と動きの関係の脱構築はコンテンポラリーダンスの十八番だが、早送り的に動かす、逆回しにするなど、いわば時間を可塑的なものと捉えた上で、身体に負荷を与えていた。TOは違う。パパイオアヌーは、時間の流れを変えようとはしない。動きとは、見る側の視覚による印象(認識)にほかならないと軽やかに捉え直し、ユーモアたっぷりのシーンで、時間と動きの関係について改めて問いかけるのである。

ミノタウロス

 あるシーンでは、下手から上手に向けてゆったりと動く牛の下に、男がいて、と同時に、動き続ける牛の腹から、女性がゆっくりと生まれてくる。
 このふたりが、その後、舞台上で「融合」する。胸から下は男、胸から上は女の存在として。彼/彼女/彼らの動きはぎこちなく、後ろに下がっていき、壁にぶつかる。無理矢理生まれたポストヒューマンは、やはり脆弱なのだろう。ただ、後のシーンで出てくる、別の融合した存在は、滑らかに動いていた。それはきっと一種の進化だろう。その進化を望ましいとするかどうかは、意見がわかれるに違いない。
 ともあれ、牛を起点とする誕生と融合のシーンが、ギリシャ神話をなぞっているのは明らかである。その神話では、パシパエと呼ばれる女性がポセイドンによって呪いをかけられ、雄牛に性的な魅力を感じるようになってしまうのだが、彼女は、発明家につくらせた、中が空洞の実物大の牛の像の中に入り、その結果、半分が人で半分が牛の赤子、すなわちミノタウロスが生まれるのだ。この神話をポストヒューマンの物語として再解釈することの可能性が、TOでは示唆されている。
 ちなみに、パブロ・ピカソやジャクソン・ポロックなど、ミノタウロスの神話を手掛けたアーティストは少なくないが、そのほとんどが、暴力に関する物語としてそれを描いてきた。そんな中、女性の胸を目に、腕を角に見立てたマン・レイの作品は、TOに出てくるポストヒューマンとの近接性を持っていることをここでは指摘しておきたい。

©Julian Mommert

ロマン主義の失墜

 最後のシーンは、見る者を驚かせずにはおかない。太った女性と入れ替わるようにして出てきた女性が、舞台中央の壁寄りの場所において、地面にゆっくりとすいこまれていってしまうのだが、その直後、男達がわらわらと出てきて、地面=床を、解体し始めるのだ。
 解体した床のパーツが積み上げられた様子は、切り立った岩あるいは氷山に見えなくもない。そこに裸の男が身を置く。彼の視線の先には、壁をホリゾントとして表されている薄明がある。一方、剥がれた床の下からは、プールのような水盤が姿を表していて、そこにはなぜか、モップを手にした男が立っている。
 薄明を遠くに見やる人物はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画を、砕かれた人工の地面はハンス・ハーケの代表作《ゲルマニア》を思いださせるだろう。この《ゲルマニア》は、廃墟に人を佇ませ、時間や空間の隔たりを看取させることで人間に崇高の感情を抱かせるという点で、フリードリヒの作品の根底にあるロマン主義的精神と通底している。ならば、TOもロマン主義的と言えるのだろうか。
 答えは、YESでありNOである。パパイオアヌーは、美や崇高を成立させようとする同時に、その印象なり感情なりが完全には成立しないように、いわば妨げの要素を組み込むのだから。
 最後のシーンでも、モップを手に持ち水を拭き取るという、終わるはずもない営みを続ける男を介在させることで、観客が、遠くを見やる裸の男に感情移入することを許さない。
 しかも、裸の男は最終的に壁へと向い、扉から出ていってしまう。そうすることで、それまで彼が見ていた薄明は、山の向こうに見える景色なんかではなく、照明によりつくられていた人工的な映像にほかならないことを、しかもその事実を、他ならぬ彼自身が元々は知っていたことを、観客に再確認させる。そしてその瞬間、観客もまた、我に還る。舞台が暗転するよりも前に、現実世界に引き戻され、モップの男とともに取り残される。そして暗転。通常であれば、この闇の訪れで現実に戻れるはずなのだが、すでに現実には戻ってきている。となると、いったい今私がいるここはどこなのか……ポストヒューマンは、この世界のうちに、いつ生まれるのか。あるいは、もうすでに生まれてしまっているのか……。

©Julian Mommert

1: 2017年1月、Facebook上にイタリアのアーティストでありアクティヴィストである人物によって投稿された「ウィレンドルフのビーナス(Venus of Willendorf)」の画像が、同サイトによる検閲を受け、ポルノグラフィックであるとして削除された。その後、この像を所蔵しているオーストリアのウィーン自然史博物館による公式の批判等を受け、同社は「間違いだった」と謝罪し、この像はヌードの規制の例外に相当するとして、画像を復活させた。

  • 保坂健二朗 Kenjiro Hosaka

    滋賀県立美術館(SMoA) ディレクター(館長)
    1976年生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。2000年より20年まで東京国立近代美術館(MOMAT)に勤務。2021年1月より現職。企画した主な展覧会に「フランシス・ベーコン展」(2013年、MOMAT)、「Logical Emotion: Contemporary Art from Japan」(ハウス・コンストルクティヴ他、2014-15年)、「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」(MOMAT、2016年)、「日本の家 1945年以降の建築とくらし」(MAXXI国立21世紀美術館およびMOMAT、2016-17年)、「人間の才能 生みだすことと生きること」(SMoA、2022年)など。

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