たとえば背後で物音がして、それがなんの音かわからないと気がかりだ。なにかが落ちたのか、風が吹いたのか、それとも誰かがひそんでいるのか。原因をさぐっても見当たらないとき、人間はしばしば、ショキショキという音に「あずきあらい」、ベトベトという音に「べとべとさん」など、未知の生命を見出してきた。
自分のなかの既知のシステムからはみでる現象に遭遇すると、人はたびたびそこに生命的なものを発見し、対象との交信回路をさぐっていく。そこで変わるのは対象そのものではないようだ。単なる音が未知の生物として場に立ち現れなおすのは、音そのものの変化というより、遭遇により変わってしまうこちらの知覚のほうではないか[1]。Sound Around 002は、そのような知覚の変化の瞬間が生じつづける場であった。
音が音楽に変わるとき
「ヴィイイイイイイン」とモーターが鳴りつづけている。本イベントのホストである小林椋、時里充によるユニット「正直」は、モーターと養生テープをつかって音楽をうみだす。機械音を立てながら自動回転するモーターに、ピンク、ブルー、グリーン、パープルなどのテープが着々と巻きとられていくと、先ほどの音が「ブ・イイイイイイン」に変わる。巻きとられたテープがだんだんと厚みを増し、ある極を越えると芯がつっかえ、「ダダッダ・ブ・イイイイン……ダダッダ・ブ・イイイイン」へと変わる。そこへさらに、あらたなテープが加わったり、ひっぱられたりずらされたり、テープの先が別の器具にからまったりすると、音は「ギーギーギー・ビィイイイン」「キーーーーーーー・ダン」「ビッビッビッビッビッ」などとうつり変わっていく。擬音語で示すためらいを越え考えてみたいのは、音が音楽に変わる瞬間がここにあるように感じるからだ。
くりひろげられる一連の現象に、こちらの知覚はうろたえる。モーターとテープがつくる展開に、先ほどまで環境音だった音が突如「音楽」として耳に届く。いったいなにが起こっているのか。その違和は、耳に聞こえるものと、そこからすこし遅れて聞きとられていくものの差から生じているようだ。モーターの稼働音と巻き取られるテープの音ははじめ、「回る動き―回る音」、「落ちる動き―落ちる音」と、その物理的因果が明快なため、とりたてて注意を向けなければ意識にのぼってこず、耳に入るものと、聞きとられたものに差はない。ところが、それが既知からはみでて予想外の動きや音をしはじめたとき、そこにギャップが生じてこちらの知覚は動揺する。受けとりと、聞きとりの差を埋めようとして、音は現象をさぐる手がかりへと変わり、先ほどの擬音が生命の有するリズムのようにこちらに聞こえだす。目の前で動くモーターとテープがうみだす音は、そのようなこちらの知覚の変化によって、生態的なリズムを有した存在として現れなおすのだ。それまで気づかなかった音が浮上し、音が音楽へ変わる瞬間だ。
テープはふいに切れる、終わる、自重で落下したり転がったりする。モーターとテープがうみだす音楽は予測不能なタイミングでうつり変わったり終わったりする。その変化はたやすい理解をはばみ、音は理解可能な機械音へと戻ることなく、未知のまま音楽として場に生じつづける。それはまるで、「ショキショキ」が「あずきあらい」という名前にアイデンティファイされることなく、その手前で、生命のようでいながらも名指すことのできない状態としてありつづけているかのようだ。
その動的な様子は正直のパフォーマンスにも現れる。音楽を、楽器の演奏として捉える見方からはいささか戸惑うだろう正直の手法は、楽器といういわば静的な対象に動きを与えるスタイルとはちがう。「ジーーーーーーーーー」と動きつづけるモーターにテープをひっかけ、すこしずらしたり、ぐいっと引き伸ばしたり、もうひと巻き加えたり。すでにそれ自体がリズムを有する、動的な対象へ働きかけていくかれらのふるまいは、きわめて抑制的だ。それは、あるキーを押すことで指定する音が鳴ることとは遠い。ちょっとした関与で、予想もしない音楽が時間差で生まれていく様子は、生物が周囲の環境にあわせて自身の動きを変えていく様を思わせる。動きが即、音へと直結するのではない。蟻の通り道に物を置くことで道筋が変わったり、水流に物を置いて流れの形が変わったり、動きにつらなる展開こそが音色へ転じるかのようにして、正直は、自生する音と音の関与の模様を、音楽として空間にうみだしている。
乱反射する凸凹な場所
音に生態的なリズムやパターンを見出すことで、音楽として聞こえていく。そのように変わっていく知覚は、だんだんと目の前の現象——モーターとテープの関わりから、その周囲へとひろがっていく。それにより焦点化されるのは、この音がうまれる凸凹な空間と、その空間に含まれている人間の、音楽をとらえる知覚自体である。
Sound Around 002の特徴は、あらゆるものを動的な存在として設計している点であり、それは鑑賞者にもあてはまる。連続した二日間の開催時間は両日とも半日ほどと長く、自由に入出場が可能だ。鑑賞経路を示されたり、鑑賞すべき「作品」に誘導されたりすることもなく、「入場者」と呼んだほうが違和感はない。ロームシアター京都地下、小型体育館のような空間に入れば、そこに置かれる大小さまざまな物の多くが、自動で動きつづけていたり、可動式であったりすることがわかり、つねになにかが動く音がどこかから聞こえてきている。たとえばコンサート会場のような、演奏する動的な存在と、視聴する静的な存在に分かれる場所とはちがい、会場内は個々に動きつづけるものたちであふれ、そこに入っていく鑑賞者もまた空間内を行き来する動的な存在として想定される[2]。パフォーマンスに足を留めたり、気になるものに近寄ったり、階段をのぼったり、腰掛けたり。鑑賞者の動きは、前述の正直のパフォーマンス——動いているものが周囲の変化によって自身の動きを変えていく様と重なりあうかのようだ。
空間内をめぐってみると、一角に遊具のようなものがある。
𡈽方大による、この巨大かせくり器は、工事現場で見かけるようなカラフルなポールで出来ており、束状の糸をほどく「かせくり器」本来の用途と同様に、糸の代わりにテープを巻きとっていく動的なしかけを持つ。次いで、岩のように点在する可動式の客席をよけて進んでいくと、カラフルな雑貨、雑誌の切り抜き、レトロなおもちゃや古雑誌が集積した作業場に行きあたる。THE COPY TRAVELERSの面々(加納俊輔、迫鉄平、上田良)が活動する一角だ。作業台での切ったり貼ったりの一部始終が、頭上のカメラをとおして、横の壁一面にプロジェクション中継される。壁面映像は片隅のノートPCに流れるランダムな映像や、プロジェクターの前を行き来する鑑賞者の影と無作為に重なりあい、そのシュールでキッチュなビジュアルは、この空間全体を遊び場的な雰囲気にしている。
なにかが常にランダムに動いているこの空間には、すべてを見渡せる視点はない。それは高みから見下ろしても同様で、空間のまんなかにそびえる工事現場を思わせる巨大やぐらに上がってみても、やぐらの床下や階段脇に生息する生物のように稼働する機械やモニターをはじめとして、局所的な視点でないと発見できないもので満ちている。空間内に点在するさまざまなものたちの動きは、方向性をもった波のようなものではなく、昆虫か海辺生物らが様々にうごめくようなミクロな動きで占められており、それはたとえば視覚の反射としてあちこちに現れる。たとえばこんなふうに。
空間をめぐると不思議な現象に遭遇する。ぱっと角を曲がると、自分の横顔とはちあわせるのだ。⁉となって見回してみれば、見えた横顔はモニター内の映像であり、脇で自動運転するカメラが自分を通過していったことに気づく。モニターがどこを捉えているのか、カメラの向く先を目で追えば、そこには鏡張りの壁面がある。先ほどまで人間を映していたカメラが、今度は鏡に反射した人間の像を、モニター内にいわば三重の像として投影しているのだった。思いがけない場所にひそむモニター、カメラと壁面鏡とがつくりだす、無限に視点が反射していくこのようなしかけは、会場内のあちこちにある。THE COPY TRAVELERSの壁面プロジェクションと壁面ミラーのつくりだす大きな反射とあわさって、視線の拡散は乱反射のような様相を呈し、空間のありようが浮かびあがるのだ。
光の乱反射とは、物体の凸凹によっておこる現象だ。視点がひとところに留まらずに推移していくビジュアル効果や、音が音楽へと立ち上がっていく前述の正直のパフォーマンス、鑑賞者を動的に捉える会場設計は、乱反射的な状況をうみだす凸凹とした場所の姿をうきぼりにする。その乱反射的な感覚は、開場時間中、シームレスにおこなわれるパフォーマンスやレクチャーにもつながっている。前述した正直のパフォーマンスのほか、石若駿によるパーカッションは、ドラムを軸にさまざまな小物を用いながらおこなわれ、二日目にはドラムにテープが巻きついたりしながら、正直と共奏をした。ほかにも、美学研究者の金子智太郎による、ロボット演奏や自動演奏など、生成される音楽をめぐるレクチャー。神村恵と高嶋晋一によるユニット「前後」による、カフェオレを飲むこと/コーヒーと牛乳を別々に飲むことのちがいや、石/テープで石を包んだもの/テープをまるめたもののちがいを考えてみるなどの、知覚と認識のずれをやりとりするパフォーマンス。会場設計を担当した佐々木文美による解説ツアー。物流倉庫にあるようなカゴ台車に収まり、空間内を押されながら移動するのは詩人の山田亮太で、場に生起することを元に言葉をPCに打ちつづけている。演奏、レクチャー、パフォーマンスと多岐にわたる内容は、意識をひとところに集中させることがない。
音のビオトープ
このような聴覚だけにおさまらず、視覚や身体感覚のふくまれた複合的な体験からあきらかになるのは、ここで体験する知覚が、自分の居る場所や己の身体に依存しているということだ。例に出した冒頭の擬音語は、知覚する人間の居る場所に依拠する。鑑賞者の位置によって、近いものは大きく聞こえ、遠方は小さく、ほかの音が混ざれば異なる音へと変わってしまう。今、そのようにその者に聞こえ、見え、感じられるのは、その人間がその場所に居るということによってそうなっているのだ。この場所で生じる体験としての音楽は、知覚する人間の身体と、その人間がいる場所抜きには成り立たないものである。そのことをより強調するのは、場所が持つ記録性だろう。開催する二日間のあいだにリセットはない。一日目の跡は二日目に残る。山田亮太の詩はA4用紙になってところどころに置かれ、使用済みテープの塊は増えていき、前後のパフォーマンス記録はホワイトボードに残り、かせくり器にはどんどんとテープが巻き付けられていく……このような出来事が、場所に記録されながら環境を変え、空間に居るものたちへと影響を与えていくのだ。
この場所をどんなふうに表すことができるだろう。動くものたちの乱反射的な関係によって立ち現れる鑑賞体験は、まるでビオトープのなかにいるかのようだった。ビオトープとは、bio(生命)と、topos(場所)からなる言葉で、生物群集の生息空間、有機的に結びついた動物群の生息空間などの意味で用いられる[3]。この場所からうまれる音楽は、固定された「作品」の提示ではなく、音が音楽になるという動的な状態こそを「作品」としてつくりあげる実践としておこなわれている。そのようにとらえれば、今回のテーマとして掲げられた「即興/変化」は、通常思い浮かべるものとはちがった趣をもつ。なぜなら、ここでは人であれ物であれ即興者のポテンシャルが焦点化されるというよりも、即興的な動きの絡み合う模様が音楽として生起しつづけ、それを担保している場所の造形こそが浮かびあがってくるからだ。それは「ビオトープづくり」が、あくまで環境設定で、そこにどんな生物が棲みつきどんな動きを展開するかを規定するものではないこととも重なる[4]。そのような場所は器のような中身と分離されたものではなく、出演者、展示物、パフォーマンス、そして訪れた鑑賞者をふくめたものたちによって成る一時的に生起した場所である。本イベントでの「即興」が浮かび上がらせるのは、そのような音楽がうまれる動的な場所の造形だ。なにが聞こえ、なにが見えるか、そしてなにを音楽と感じ、アートだと思うのか。鑑賞者もその一部として可視化されるこの場所で、その足掛かりは対象自体ではなく、それにたいする人間の知覚のほうにあるのではないか。本イベントは、その人間の知覚の動き——聴覚に限らない複合的な知覚の動きにフォーカスし、問いかけてくる場であった。