「よく張り付いて、きれいに剥がれる」養生テープ
Sound Around002とは、「ジャンルや固定観念にとらわれない「音楽」を軸とした表現活動を行うアーティストによるパフォーマンスのシリーズ」である。今回はモーターと養生テープを使用したサウンドパフォーマンスを行う「正直」がホスト・アーティストとなり、「即興/変化」をテーマにコラボレーションが行われた。
会場に入ると、ポリエチレンの黄緑色、ピンク、水色の養生テープで彩られている。どこからどこまでが作品なのか、来場者が触っていいものなのか、いけないものなのかはわからない。中央にやぐらが立っていて、その中にはインストーラー𡈽方大が作業をしているが、それが設営作業なのか、パフォーマンスなのかはわからない。車つきの檻の中に詩人の山田亮太が何やら遠巻きに観察しながら文字を書いている。誰かが「動かそうか?」と声をかけると、「いや、今はここでいい」と応答していた。THE COPY TRAVELERSは何やらひたすら生産し、スクリーンにその生産物を投影し続けている。おもむろに金子智太郎がやぐらの階段に座ってレクチャーを始める。どちらが舞台で客席かということはなく、「車座になって聞いてほしい」という。そんな境界のなさによって、観客はいつの間にかその宇宙の一員として引き込まれていくのだった。
「音楽とは何か」を突きつける
今回の公演を「現代アート」や「パフォーマンス」として鑑賞する観客も当然いるだろう。しかし、冒頭でも述べたとおり、この公演は「音楽」の公演を標榜しているということだ。彼ら(「正直」)が、モーターと養生テープを使用した「演奏」によって、我々に「音楽とは何か」ということを突きつけているのだとしたら、私は真摯にそれを「音楽」として受け止めてみよう。私は以下3つの点から考察してみたい。彼らのパフォーマンスにおける①楽器の発音原理②媒体としての役割③演奏家と楽器の関係性についてである。
1 楽器の発音原理
このパフォーマンスの発音体は養生テープであり、テープに張力が加わって、その密着面が剥がされた時、あるいはちぎれた時に発せられた音を鑑賞者は聴くことになる。言うまでもなく、養生テープは、本来工事や塗装作業に使用されるものであり、音を出すための道具ではない。人間は、これまで何かを叩いたり擦ったり吹いたりして空気を振動させて、音を奏でてきた。かつて、エーリッヒ・フォン・ホルンボステルとクルト・ザックスは楽器を「発音源」によって分類したが、養生テープは「楽器」として一体どこに分類されるだろうか。これまでの音楽史上、人間は何かを剥がしたり、ちぎったりすることで音を出して、それを楽器と呼んできたことがあっただろうか? また、このパフォーマンスでは、一度使用された養生テープは音が鳴らされたと同時に、発音源としての再利用は不可能としているようだ。リードや弦など消耗品を必要とする楽器は多々あるが、音を鳴らしたと同時にその役割を終える楽器はどのように位置付けられるだろうか? 「正直」のパフォーマンスの緊張感は、新品のテープを無駄遣いする背徳感と無関係ではないだろう。
2 媒体としての役割
テープはテープでも、養生テープは音を記録する媒体とはならない。2018年にリリースされたカセットテープ『KB』は、カセットテープと養生テープの非対称性を提示した作品だった言えるだろう。磁気テープを引き合いに出すことで、養生テープの非可逆性が浮き彫りにされる。磁気テープは繰り返し再生されることが想定される一方、①で述べたように、養生テープは音を鳴らしたと同時にそのテープ自体使い物にならなくなっていく。しかし、この一回性の音楽は、カセット・テープとしてパッケージ化されることによって、反復して再生される新たな「音楽」となるアリバイを強固にすることとなった。
3 演奏家と楽器の関係性
彼らのパフォーマンスにおいて、人間・テープ・モーターの三者の関係性は揺れている。時に、モーターに人間の全体重をかけ、張力を目一杯使って破裂音が奏でられる。このように、モーターと養生テープを完全にコントロールしようとしている場面もある。しかし、ある時点から見放され、モーターと養生テープの行く末はas it is(成すがまま)にされる。この微妙な三者の関係性こそが「正直」の「養生テープ&モーター演奏家」としてのスキルといえよう。
養生テープを使用する限り、それには使い始めがあり、終わりがある。「ドラマ」や「物語性」があるとすればそこだろう。1本1本のテープが、人間とモーターの力の拮抗によって巻き取られ、それが終わるまでがひとつの生命体の動きとなる。モーターがテープを巻き取り切ったあとにコロンと床に落ちた芯は、新たに空間に解き放たれたオブジェと化す。オブジェ化したテープの残骸は、ゴミなのか作品なのかカテゴライズされぬまま空間に放置される。
コラボレーターたちとの「弱粘着主義的世界」
しかし、モーターと人間とテープの間にこのように十分な隙がある分、この養生テープが紡ぎ出す「物語」への他のアーティストや観客の介入の許容は広い。パフォーマンスユニット「前後」、詩人の山田亮太、美術家ユニットTHE COPY TRAVELLERS、インストーラー𡈽方大、研究者金子智太郎らコラボレーターとは、傷つけ合わない、跡に残らない「養生テープ的な弱粘着主義的世界」が展開された。また、観客も空気を読みながらそこに介入するでもしないでもなく立ち会っていたのだった。
そんな中、2日目、今回のコラボレーターの中で最も「音楽的な」音楽家である石若駿が、ジャズ・ドラマーの仕方で、音響的な物質を用いて、相手との対話を求めるかのように、その空間と時間にアプローチしたのが鮮烈に印象に残った。
「音響」と「物質」の境界をなし崩しにすること
それでは、この「公演」がなぜ「音楽」でなければならなかったのか? 彼ら(「正直」)が我々に提示しているのは「音響」と「物質」の境界をなし崩しにすることなのではなかろうか?
これが一時的な「音楽」への標榜であるのなら、彼らの養生テープへの「物質的モチベーション」と「音響的モチベーション」の一致としてのアイディアのひとつの提示にすぎないだろう。彼らはこれからどのように「音楽」として発展させていくヴィジョンを持っているのだろうか? あるいは、もし「音楽」としてこれ以上「発展」させるつもりがないのであれば、この「音楽」をどのように人間の営みの中で持続させ、コミュニケーションを継続していくつもりなのだろうか? 養生テープが、貼って剥がせる弱粘着性の発音体として、一過性であるという生まれ持った性質を持つ限り、その持続可能性との矛盾は存在し続けるだろう。それでも今回彼らが我々に「音楽とは何か」と突きつけた問題は大きいし、その作品やパフォーマンスを通して、今後も我々に問うてもらえることを期待したい。