作曲(composition)とは何だろうか——そのような問いに迫る音楽イベント「Sound Around 003」が、2023年6月24日から25日にかけてロームシアター京都ノースホールで開催された。テーマはそのものずばり「作曲」である。メイン・アーティストはソロからバンド、オーケストラまで様々なプロジェクトで活躍する音楽家/作曲家の日野浩志郎。他に、ダムタイプへの参加でも知られるアーティスト/プログラマーの古舘健、ヴィブラフォン/マリンバ奏者の藤田正嘉、打楽器奏者の谷口かんな、太鼓奏者の前田剛史がコラボレーション・アーティストとして名を連ね、音響をエンジニアでもある西川文章が担当、両日とも1時間弱にわたって打楽器とエレクトロニクスからなる新作コンサート・ピース「Phase Transition」を披露した。
途轍もない音響体験だった。客席を半円形にぐるりと取り囲むように配置されたヴィブラフォン、和太鼓、マリンバ、ボンゴ、コンガ、ウッドブロック等々の打楽器から発せられる音に加え、リアルタイムで加工されたサウンドやエレクトロニクス・ノイズが複数のスピーカーから響き、立体的に空間を彫刻する。
バウンドする打音がロールとなって増殖し地獄の呻き声を思わせるおどろおどろしい喧騒を生む幕開けから、おおよそ10分ほど経過するたびに情景はなだらかにグラデーションを描くように、しかし大きく様相を変えて変化していく。ストイックでマシニックな痙攣的ビートもあればヴィブラフォンとシンバルの弓奏が形作るアンビエントな揺らぎもあり、さらに終盤ではモジュラーシンセと地鳴りのような和太鼓が火花を散らし合う。目眩く展開は挑戦的であると同時に、すこぶる快楽的な愉しさにも溢れていた。
■「手を離すこと」への挑戦
本稿では中心人物の日野浩志郎とメンバーの一人でありオペレーター的役割も担った古舘健へ二日目の終演後に行った取材をもとに、この驚くべき音響体験をもたらしたコンポジションの制作プロセスを振り返る。制作が始まったのは2022年10月頃だった。あらかじめ曲を用意してそれに見合うメンバーを集めたのではなく、まずは日野が自身のプロジェクト「GEIST」でも共同作業を行う古舘、および予てコラボレーションを望んでいたという藤田正嘉に声をかけ、そこから次第に打楽器とエレクトロニクスの作品という構想が生まれていき、前田剛史、谷口かんなも引き入れていった。日野は「どういう曲を作ろうというよりかは、この人たちと何ができるだろうという形で、まずは誘いました」と話すが、そこには「作曲で決め切らないこと」が一つのテーマとしてあったという。
「僕は作曲の時にめっちゃ決めてしまうんですよ。けど、それって余地がないというか。それで今回は練習して精度を上げていくようなものではない音楽を作りたいと思ってました。あと、タイトルのSound Aroundという言葉から色々考えたんです。つまり音が周辺にある……ただ、それを基盤にしてしまうと、GEISTやFUJI|||||||||||TAさんとコラボしたINTERDIFFUSION A tribute to Yoshi Wadaでやっていることと被ってしまう。どうにか違う切り口でやる意味を見つけなければいけないと思った時に、もう自分がコンポーザーみたいなものから離れてしまおう、と。
一応コンポーザーでもあるけれど、自分は手を離して、その周りにいる、自分が集めた人たちの中で何が起きるのかを、一歩引いて外から眺めてみる。あまり口出ししないことをなるべく今回は頑張ろうと思いました。自分の手法をある程度持っているから、どうしても僕は自分で決めたくなってしまうけど、一回我慢する。作曲の種としてきっかけになるフレーズを作っても、そこから何が生まれるのかはあくまでも見守る。みんなで育てていき、ある程度育ってから意見を言うというスタンスをとっていました。メンバーを集めた時点で、これでどうなるか、まずは手を離す。それが僕の中では主なテーマでありチャレンジングな部分でした」(日野浩志郎)
■ヤニス・クセナキスという仮テーマ
バンド編成でありながらサックスやギターをパーカッシヴに扱い、一糸乱れぬ合奏でミニマルかつ変則的なリズムを叩き出すgoatのように、日野が手がけるコンポジションは緻密な構築美を一つの特徴としている。そうした音の管理から手を離すこと——とはいえそこにあるのはジョン・ケージ流の「あるがまま」の美学ではなく、集団で作曲していくことの可能性への賭けだろう。実際、「Phase Transition」にはgoatやGEISTを連想させる日野ならではの作家性も刻まれていた。そして実は当初、背景に置かれていたのはヤニス・クセナキスだったそうだ。古舘はこう明かす。
「最終的にそこまで強くなくなりましたが、今回はクセナキスが仮テーマとしてありました。作曲とは何かを考えていく中でなぜクセナキスを想起したかというと、日野くんのこれまでの活動では、やっぱり、打楽器的な要素がとても多い。goatにしても太鼓芸能集団・鼓童とのコラボレーションにしても、どちらもすごくパーカッシヴだし、わりとグリッドがはっきりしている。それに対してクセナキスの場合は、もうちょっとグリッドがゆがむというか、伸びたり縮んだりするような、一定のグリッドとは違う何かがあります。なのでクセナキスをテーマにしたら、日野くんのこれまでの作曲にさらに複雑性が加えられるのではないか、と。あと日野くんは以前からエゴに拠らない作曲に興味があると言っていたから、クセナキスのように数式を使うとか、コンピュータを使うとか、そういうことが一つのキーワードになるんじゃないかと思いました」(古舘健)
クセナキスという仮テーマは最終的にメインのモチーフにこそならなかったものの、序盤のロールが重なり合っていくシーンにはアイデアとして活かされたようだ。
「最初のシーンは、構造と運動という意味では、クセナキスからのアイデアが強かったです。ロールで一つの塊みたいなものができていって、それがいくつか重なっていく。点から始まって、だんだん線状になり、どんどんレイヤーが増えていくんですね。それが全体で運動する。構造をどういうふうに捉えるか、そしてそれがどういうふうに動いていくかをデザインしました」(古舘健)
点から線になり塊となって音群が運動する——そうしたクセナキスから着想を得たアプローチがある一方で、作品タイトルでもある「相転移(Phase Transition)」、つまり個体・液体・気体・プラズマと移り変わる変化はコンポジション全体のバックグラウンドを成していた。日野によれば制作は「ネタをそれぞれのメンバーがたくさん作り、録音して聴き直して、それをもとに古舘さんが一度構成を考える。それらを土台に並べてみて育てていった」という。会場入りしてから「相転移」を下敷きに素材を並べることでコンポジション全体の構造が見えてきたと古舘は説明する。
「スタティックでソリッドな状態から、少し流動的なリキッド的状態になって、そこから蒸気になって上がっていき、最後はプラズマ的な状態になる。そうしたことが作曲の下敷きとしてありました。それで素材を並べていたら、ぼんやりとストーリーが見えていった。それを叩き台にしてやってみようということで、本番の4日前から会場入りして最終的な形に辿り着けました。
その過程で図らずも作曲ということをすごい実感したんですよ。何かのアイデアがあって演奏してもらう時に、そのアイデアを演奏者にどういうふうに伝えたらいいのか……これこそが作曲だ、譜面を書くことだ、と。図形を書くと伝わりやすいのであれば図形を書いたらいいし、テキストで書いて伝わるのであればテキストでいい。どちらにしろ、自分が思い描いている何かをなるべく正確に伝えることが作曲だな、と」(古舘健)
■「作曲」とどのように向き合うか
イベントのテーマでもある「作曲(composition)」とは、辞書的には「曲を作ること/作られた曲」を意味する。あるいは作曲・演奏・聴取と音楽の営みを三段階に分けた場合の最初のものである。西洋近代音楽の成立過程で作曲は「書くこと(≒記譜)」と強く結びつき、そして個人による表現という意味合いも帯びていった。だが非西洋音楽の様々な実践を眺めてみるならば、あるいは複製技術やデジタル技術が前提となり、加えてAI技術が劇的な進歩を遂げつつある現代にあっては、こうした定義に収まり切らない「作曲」が数多あることは言うまでもない。「Phase Transition」の制作プロセスではこの途方もないテーマとどのように向き合ったのだろうか。古舘が語る。
「作曲とは何かという話はミーティングでもたくさん議論しました。たとえば図形楽譜というものがある。その楽譜の中で、作曲者が演奏者にどういう指示をどういうふうに出すために、そうした特殊な形態を取ったのか。または図形楽譜で作曲者が決めようとした部分と演奏者に委ねようとした部分はどう分かれているのか。そういうふうに、ある種メタ的に作曲みたいなものについてずっと考えていたんです。
そういうことを考えていく中で、個人的には、作曲とは何かを議論したところで、作曲家それぞれで表現したいことも違うし、音楽によって表現される内容も違ってくる。楽譜の書き方一つとっても、たとえば図形楽譜の基本となるフォーマットは存在しなくて、それぞれが何かしら考えて図形楽譜を作っている。そこにどれぐらい演奏者の自由度があるのかということも、作曲者ないし曲によってそれぞれ違う。作曲者がアイデアをどうやって演奏者に伝えるのか、みんなそれぞれに悩んで、一生懸命考えて取り組んでいる。そうすると、作曲とは何かみたいな一般論を考えても仕方がないなと、途中で気づいたんですね。
僕らは今回、作り方として、バンドみたいにメンバーと一緒に共同制作しているけれども、その時にみんなで見ている何かしらのヴィジョンをどういうふうにリアライズできるのかということが、もはや作曲なんだなと」(古舘健)
このように実現すべきヴィジョンをあらかじめメンバー間で共有した上でリアライズすることに「インプロとは違う手応えを感じた」とも古舘は言う。また、即興が主体となるその場限りのセッションとの違いを出すにあたって、今回のプロジェクトで日野は「構造をどう見せるか」に工夫を凝らしたそうだ。
「決め事のないセッションみたいなものとの違いをどう作るかという点で、コンポジションの構造をどう見せるかはすごく考えました。たとえば藤田正嘉さんのマリンバのソロ演奏はわりと即興でやるようにお任せしていたんです。メロディーについても何も言わなかった。けれど、その前後の流れをどうするかとかは決めていました。
終盤で前田剛史さんが和太鼓を思い切り叩くところも、『こんな雰囲気にしてほしい』とイメージだけ伝えましたが、叩く内容そのものは任せていた。ただ、演奏の順序に決まり事みたいなものはあって、ケンガリが入ったら和太鼓は太いバチに変える、そこから僕がサージ・シンセでリズムを出し始める、とか、和太鼓がきっかけでケンガリからボンゴに移っていく、とか。そういうのを整理して構造を作っていきました。
このメンバーだからこそできることをやりたいけど、セッションじゃなくて、あくまでも構造を見せる。再演可能ですからね、今回の作品は。その中で、僕自身の役割としては、やっぱり、最終的に音楽が良くないと何も始まらないというか。音楽が良くなかったら『ここがすごいんですよ』と後で説明してもダサいじゃないですか。だから、僕はそこを音楽家として担保しなきゃいけないという責任がめちゃくちゃ強かった」(日野浩志郎)
ところで西洋近代音楽の観点から言うならば、作曲・演奏・聴取と分かれた音楽の営みのうち、最も地位が高いものが作曲である。真の音楽は書かれた作曲に宿り、演奏はあくまでもそれを再現するための手段であって、聴取に至っては受動的な着地点に過ぎない。もちろん、こうしたヒエラルキーが特殊な時代的文化的価値観に基づいたものであることは、非アカデミックなポピュラー音楽をどれか一つ思い浮かべるだけでもわかるだろう。アカデミックな音楽においても20世紀半ば以降は作曲の権威を弱める/聴取の創造性を積極的に認めるといった批判的試みが為されてきた。だが取り立てて批判的試みを掲げるわけでもない西洋近代音楽ないしその延長線上にあるアカデミックな音楽であっても、実際のところ、現場では必ずしも作曲至上主義的な前提に立っているわけではないようだ。
「いわゆるアカデミックな作曲に関して、今はすごくフラットな目線で見られるようになりました。そのきっかけの一つとしては、谷口かんなさんと話をしたのが大きかった。谷口さんは現代音楽の作曲家が書いた曲の初演をよく演奏しているんですね。彼女によれば、初演する時に結局はバンドみたいなことをやっていると。作曲者が演奏者に譜面を渡して『こんなふうにお願いします』と説明するんですが、それで実際に弾いた演奏者から直接意見をもらって、作曲者が軌道修正しつつやるということが日常的に行われている、と。それを聞いて、アカデミックな作曲に対して抱いていたヒエラルキーのようなものに対する印象がずいぶん変わりました」(古舘健)
日野もやはりアカデミックな作曲に対する印象が変わったそうで「あれはびっくりした」と話していた。こうした作曲に対するフラットな見方が集団間で共有されたことも、作曲とは何かという一般論から、どのような曲をどのように作るかという具体的実践に進んでいくことを後押ししたのだろう。
■音楽をヴァージョンアップする
最後に日野の作曲スタンスについてあらためて触れておきたい。今回のイベントでは誰か一人が個人的行為として作曲するのではなく、それどころか中心人物の日野が「手を離すこと」を出発点に、集団的に曲作りが行われていった。そして新作コンサート・ピース「Phase Transition」が生み出された。こうした制作プロセスの中で日野は「新しさ」をどのように捉えていたのだろうか。彼はこう主張する。
「基本的に、何か新しいものを発見することに対して、僕はあまり重きを置いてないところがあります。それよりも、何かテーマが与えられた時に——もちろんテーマはずっと探し続けているんですが——そのテーマでどう遊べるかを試したい、そこから育てていっていい音楽を作ってみたい、という思いが強くある。
たとえばGEISTであれば、シュトックハウゼンやルシエといったリファレンスが色々とありますけど、パイオニアが何かを作ったとして、そのままになってしまっているようなことがたくさんあるなと思っていて。けれど、シュトックハウゼンなりルシエなりが作った構造を、今の視点からVer.2にすることもできるんじゃないか。そしたらもっと今の音楽と繋がりを持った面白いものができるんじゃないか、と思うことが色々とあって。だから、誰かが作ったものであっても、もう一回やってもいいという気持ちがあるんです。それを自分なりに解釈して、面白い音楽を作る」(日野浩志郎)
新しいものを発見することよりも、既存の音楽の構造を現代的にヴァージョンアップすることに創造性を見出すこと[1]。同様のスタンスは過去の作曲家に対してだけでなく、日野自身の活動にも向けられているように思う。というのも、実は「Phase Transition」は初日と二日目で構成に若干の違いがあったそうで、たとえば二日目ではシンバル弓奏のシーンで新たにサイン波が加えられていた。つまり初日が「Phase Transition Ver.1.1」だとしたら二日目は「Phase Transition Ver.1.2」なのである。それは初日が試作で二日目が完成形というわけではないだろう。むしろ完成形として固定することのない制作プロセスが継続していたからこそ、同じ作品が異なるヴァージョンへと結実したのではないか。もしも三日目の公演があればさらに変化していたことも予想し得る。いわば集団作曲のドキュメントが公演という形態で切り出されるようにして提示されたと言えばいいだろうか。
もちろん、作曲されたコンサート・ピースである以上、両日ともに披露されたパフォーマンスは同じ作品ではある。しかし継続する制作プロセスの中で再演された二日目は初日と異なる音響結果をもたらした。同じものを繰り返すことで異なる結果を生んでいく——そのように言い換えるなら、一見すると正反対のようでありながら、「即興/変化」をテーマとした前年度の「Sound Around 002」における「螺旋状の反復運動」[2]と実によく似た試みだったとも言える。「Phase Transition」もまた、再演されるたびに螺旋状の軌道を描いて異なる場所へと着地するのだ。そのことが可能だったのは取りも直さず、日野をはじめメンバーたちが「作曲」を「書くこと」への定着とせずに、音楽の現場においてつねに変化する動的なプロセスとして捉えていたからに他ならない。
※同メンバーで、2024年度 城崎国際アートセンター(KIAC)での新作・滞在制作が内定している。