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#公演評#演劇#ロームシアター京都×京都芸術センター U35創造支援プログラム“KIPPU”#2024年度

KIPPU プロトテアトル『ザ・パレスサイド』公演評

乾いた社会に投げかける瑞々しい問い

文:梅山いつき
2024.12.29 UP

 赤ちゃんの日常は発見と探究の連続だ。泣くだけだったのが、次第に泣き声を自分のからだが発する音声として意識しはじめ、なんとなく、あー、うーと出し続けているうちに高低、強弱がつけられることを発見していく。気に入った音は繰り返し出し続け、周囲がこたえれば大喜びする。こうして世界と共振しながら人は在るのだと思い知らされる光景だ。
 生まれて5ヶ月になったばかりのわが子は、まだ「いないいないばあ」をしても喜ばない。なぜなら、目の前から対象物や人が見えなくなっても、そこに存在し続けると認識する能力をまだ獲得していないからだ。それは「物の永続性」というらしい。わたしたち大人はこの世から物はそう簡単になくならないことを知っている。だから、一瞬にして物が消える手品を見ると、そこにはトリックがあると即座に理解した上で、それが見破れないと感嘆する。ところがまだ産まれて数ヶ月の赤ちゃんはそう認識しない。そのうちに「いないいないばあ」をすると喜ぶようになるのは、この単純な遊びを支える認知能力を獲得し、一度見えなくなった顔が隠された向こう側にあることを予測できるようになるからだ。
 物の永続性はわたしたちの基本的な認知能力で、日常生活の中で特段意識することはないが、「いないいないばあ」や、手品のように物の永続性をうまく利用した手遊びや芸は探せば色々と出てきそうだ。そして演劇もまた同様にこの認知能力に支えられて成り立つ表現なのではないだろうか。人はそう簡単に消えてなくならない。いきなり姿形が変わることもない。だから一旦退場した俳優が思いがけない場所からあらわれたり、瞬く間に扮装を変えて出てきたりする演出が劇的効果を持つのだろう。また、上演中、同じ役を別の俳優が演じても、一人の役を複数人で演じる演出なのだと特に説明されなくとも理解することができる。

写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)

 プロトテアトルの『ザ・パレスサイド』は一つの役を2名以上の俳優が演じることを想定して書かれた作品だ。舞台は寂れたビジネスホテル、ザ・パレスサイドの一室である。「ホテルは一度入れば出ていかなければいけない」という台詞が印象的に響く。だからこそ、再び歩き出すためにここで足を休めようとやって来た客。だからこそ、一時の休息、安息の場所として客を迎えたいと考えているホテリエ。本作の登場人物はこの2人だけだが(舞台上に登場しない声だけの人物もいる)、それを6名の出演者が演じる。なぜ2名以上で演じさせようというのだろうか。
 予約なしでやって来た行きずりの旅人。この突然やって来た客がなにか訳ありであるように、ホテルもどこか曰く付きのようだ。たった一人でホテルを切り盛りするホテリエは慇懃無礼なほど丁寧だが、宿泊約款には厳格で、一々読み上げようとするなど、どこか風変わりなところがある。客からの問い合わせを見越して部屋にやってきたり、退室したと思ったらすぐにフロントから電話をかけてきたりと、満室のホテルを一人でまわしているとはとても思えないほど機敏、というか神出鬼没でやや不気味でもある。そのうちに全く容姿の異なる別のホテリエがやってくる。しかし、本人は客に向かってさっきまで応対していたホテリエと同一人物だと主張する。続いてまた別のホテリエが今度は部屋に飾られた絵を外して顔をのぞかせる。
 このように、本作では複数の俳優が一人のホテリエを演じており、客の目にはそれが全くの別人に見えていることも示される。一体なにがこの部屋では起こっているのだろうか。訝しがる客を尻目に、ホテリエはとあるホテルにまつわる昔話を語りはじめる。昔、ある街に立派なホテルがあった。街にはいつかそのホテルに勤めることを夢見る一人の子どもがいた。ところが、あまりに立派すぎて街にそぐわないとみなされると、ホテルは地味でこぢんまりとしたものに改装されてしまう。子どもは目標を失い、なにをするにも希望が持てなくなってしまったが、そんな時も癒してくれたのはホテルだった。この子どもは語り手のホテリエのようでもあるし、違うようでもある。ホテルという一時の休息の地を愛し、多くの宿泊客を迎え続けてきた数多のホテリエたちの記憶の集積。ホテリエが複数の姿をしているのは、過去、このホテルに勤めたホテリエたちの記憶が入れ替わり立ち替わり顔をのぞかせたからなのだろうか。

写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)

 本作は能の形式にも似た、旅人が旅の途中で異空間に立ち入り、亡霊ともとれるような不思議な人物から昔話を聞かされるという物語構造をとっている。能の多くはワキである旅人の僧などの旅から物語がはじまる。旅人が名所旧跡を訪れると、ある人物(シテ)があらわれ、その土地にまつわる物語を語って聞かせる。実はその人物は物語の重要人物で、劇の後半になると亡霊や精霊などの霊的な本来の姿をあらわし、最後、その霊魂は成仏する。
 では、本作のホテリエも昔話を旅人に語って聞かせることで本懐を遂げるのだろうか。舞台はそうすんなりとは進んではいかない。客もまた途中から姿形が変わっていく、すなわち、複数の俳優が演じていくからだ。旅人である客がとあるビジネスホテルで体験した不思議な物語を見せられていると思いきや、客もまた一体何者なのか、存在が不安定に揺れているのである。客は時折、スマートフォンに自分の声を録音し、再生しては自分を落ち着かせようとしている。自分が支離滅裂なことを言っていないか後で確認するために録音しているらしい。なにがそこまで客を不安に駆り立てているのかについては、仕事から逃げてきたということ以外に、劇中詳らかにされることはない。ホテルの部屋の窓からは壁だけが見えていて、景色を遮断するかのようにどこまでも続いている。その壁を見ながら客はこうつぶやく。

────この窓の向こうの、壁の向こうではいったいどんなことが行われているんだろう。昨日までのままだろうか。一枚隔てただけでもわからないのに二枚隔てられるともうわからない。わからないままでいたい自分もいる気がする。わかりたい自分もいる気がする。本当の私はどちらなのだろう。こんな顔だった気がするが、皮を一枚めくれば違う自分がいる気もする。さらにもう一枚めくれば本当の姿になるのかしら────。重ねていくのか捲れていくのか。どちらの方が簡単だろう。どちらの方が生きやすいのだろう。

 「本当の私」とは一体どのような姿であって、どうすれば確かめられるのか。一つの役を複数人で演じるという、演出としてはごくシンプルな手法は、こうして作・演出のF.O.ペレイラ宏一朗が紡ぐ詩的な台詞と響き合って、控えめに、だが、壮大な問いを投げかける。そもそも、わたしたちはなにをもって、「わたしがわたしである」と自身の存在を確かめているのだろうか。本作が投げかけるのは存在をめぐる根源的な問いである。
 それも大袈裟な身振りで問いかけてくるのではなく、あくまでも静かに、ささやかに畳みかけてくる。その控えめさは見るものに日常の風景を喚起させる。例えばコンビニのレジで店員の顔を見ずに会計を済ませてしまうこと。本作の舞台でもあるホテルもそうだが、そこを利用する側と受け入れる側、どちらも互いを客と店員という型に当てはめて機械的に処理している。そんな光景は日常どこにでもあふれているだろう。
 流れるように日常の光景をやり過ごしているのに対して、劇場という空間において観客はじっくりと舞台上の人物を見つめ、その人物がなにを考え、どんな人生を紡いできたのかに想いを馳せることになる。『ザ・パレスサイド』の舞台はこじんまりとしたつくりで、まるで劇場の暗がりにポツンと浮かぶ孤島のようだ。そこに立つ6名の出演者が演じているのは一体何者なのか。出演者たちの飾り気のないさっぱりとした佇まいは、劇終盤の一言に説得力を与えている。それはホテリエがポツリと客に言う「どう見えるかは重要ではありません。どう在るかです」という台詞だ。どう在るか?それが一体どのような状態を指すのかは語られることはないが、そう言われた客は予定より早くチェックアウトすると晴々とした様子でホテルをあとにし、幕となる。

写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)

 プロトテアトルの座付作家であるF.O.ペレイラ宏一朗は、本作をあらわすにあたって、ホテルという場所の匿名性を活かし、「自己が喪失していく感覚を描けないか」と考えたとし、次のように語っている。

情報社会が発展するなかで、個人が平均化されていく感覚があります。一方で、多様性という言葉もよく社会のなかで使われます。多様というからには本来もっと凸凹しているものだと思いますが、現実は逆に、尖った部分をフラットに均されていく感じがあって。そんなじわじわと支配されていく状況を「自己の喪失」として描けないかと考えています。1

 2人の登場人物を6名の俳優が演じている光景は、表面的な乾いた関係のなかでアイデンティティ・クライシスに陥ってしまった人間が、どれが本当の自分の顔なのかわからなくなってしまった様を描いているかのようだ。「どう見えるかは重要ではありません。どう在るかです」という台詞には、なにを自分とするかは本人だけが決められることなのだという、作者の社会に対する静かな抵抗が込められているのかもしれない。
 2013年に結成されたプロトテアトル。10年ちょっとのキャリアを重ねてきた劇団には瑞々しさと成熟のどちらをも兼ね備えたバランスのよさを感じる。やわらかに、でも、骨太なテーマに挑戦しながら、これからどう熟成していくのか、劇団の今後の活動から目が離せない。

1 F.O. ペレイラ宏一朗インタビュー それぞれの景色が映しだされる「借景」的な演劇体験「多様性社会」のなかでの個性の喪失を描く新作『ザ・パレスサイド』、「SPIN-OFF」https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/prototheatre_interview/

  • 梅山いつき Itsuki Umeyama

    演劇研究者。東奔西走して劇場をめぐる放浪評論家。1981年新潟県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学演劇博物館で小劇場演劇の作家や水族館劇場等、野外劇に関する企画展を手がけ、現在、近畿大学准教授。アングラ演劇をめぐる研究や、野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。著書に『佐藤信と「運動」の演劇』(作品社、第26回AICT演劇評論賞受賞)、『アングラ演劇論』(作品社、第18回AICT演劇評論賞受賞)、『60年代演劇再考』(岡室美奈子との共編著、水声社)など。

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