「枚方で、一番心地よい場所を目指す。枚方ホールへぜひお越しください」。劇場に向かう京阪電車の中で、こんなアナウンスが流れていた。なんだかラグジュアリーホテルの宣伝文句のようだな。「ホール」と「モール」を聞き間違えた私は、そんなことを思いながら、劇場へ向かった。
本作は、入れ子状になった「ホテルの照明装置」を駆使し、「一時的に人が集まり、去っていく場所」「非日常性」という、ホテル/劇場の同質性をまさに重ね合わせる構造によって、メタ演劇をクリアに浮かび上がらせる作品だ。
舞台空間には、平均的なビジネスホテルの一室が再現されている。正面奥には、廊下へ続くドア。下手側には、クローゼット、机と椅子、金庫が配置され、上手側には、ユニットバスの空間とベッドがある。キャリーケースを引いた宿泊客とともに、アメニティ交換やカードキーなどの細かな規則を口頭で説明するため、ホテルのスタッフも部屋に入ってくる(「携帯電話など音や光の出る電子機器は電源からお切りください」という「上演の前説」も混入し、冒頭ですでにホテル/劇場の境界の揺らぎが示唆される)。「ホテルの在中スタッフは私一人だけ」と説明されるにもかかわらず、「客への過剰な配慮とおもてなし精神」を発揮するスタッフは、たびたび部屋に顔を出し、宿泊客を次第にいらだたせていく。やたらと多い規約の説明、錆びついて開かない窓、窓の外の視界を塞ぐ壁についての説明。頼んでいないのに、食事も部屋まで運ばれるが、機内食の軽食レベルのボリュームだ。
宿泊客は、(禁じられている)スマートフォンに内省的なモノローグを吹き込み、このホテルに辿りつくまで歩き続けた長い道のりと、人生の歩みがメタフォリカルに重ねられる。だが、飛び込んだホテルは「一時の休息の場所」とはほど遠く、疲弊した精神をさらに混乱させる事態が起きる。「一人しかいないホテルのスタッフ」が、男性の俳優から女性の俳優に入れ替わるのだ。一時的な精神の混乱で、別人に見えてしまうのか。だが、「お客様の体調不良」を心配するスタッフの介入頻度も上がり続け、宿泊客が横たわるベッドの頭上に掛けられた絵画の額縁から顔を出すなど、「ありえない事態」が加速していく。もはや「正面のドア」からではなく、変幻自在に部屋=舞台に登場し、登場のたびに3人目、4人目、5人目の俳優にどんどん入れ替わっていくスタッフ。(ホテルの規約に従い)金庫に入れたはずのスマートフォンが拳銃に変わり、示唆される自殺願望。同僚たちを死に追いやった過酷な労働状況の回想。
そして、嘔吐と混乱の一夜が明けると、宿泊客自身も、男性の俳優から(前半でスタッフを演じていた)女性の俳優に入れ替わってしまう。前日にスマートフォンに吹き込んだ声を再生しても、彼女自身の声に入れ替わっている。さらに、宿泊客も3人目、4人目の俳優に交替し続け、ホテルのスタッフを演じる俳優も入れ替わるが、もはや異常事態が恒常化しており、互いが「別人に入れ替わった」ことをまったく気にせずに、両者の会話は進んでいく。
「役」と俳優を非固定的で交換可能なものとして扱う態度は、演劇における無意識的な前提条件を実験的に問い直す。同時に、「代替可能な労働環境」も本作のテーマとして浮上する。「従業員」を固有の顔と人格を持った個人として認識しない態度は、雇用者側の論理であり、客側の心理でもあるからだ。「お客様に誠心誠意尽くすことが生きがい」と語るホテルのスタッフと、「よくそんなに働けますね」と皮肉を言い、使い捨て労働者であることに疲れきった宿泊客との対立が露になっていく。
そして、地震のような衝撃と停電がホテルを襲う。天井灯、ベッドサイドの灯り、テーブルライト、ユニットバス内の照明が明滅を繰り返す。「相手の顔が見えない」暗闇と、目に見える輪郭を変え続ける複数の光源の交替。まさに光の明滅のように、複雑な交替劇を繰り広げる宿泊客とスタッフは、「自分は何者なのか」「なぜ働くのか」について深い会話を交わす。そして「なぜホテルの在中スタッフが一人なのか」という理由は、スタッフ自身の寓話的な人生譚として語られる。街のシンボルだった宮殿のように立派なホテルで働くために生まれてきたような人物だったが、立派すぎて街にそぐわないからとホテルが地味に建て替えられた結果、経営破綻して忘れ去られてしまった。だから、その隣に、「自分一人で事足りる、自分の手が届く範囲ですべてができる場所」を建てて、ホテルの名前を引き継いだのだと。自分が他人であり、他人が自分の映し鏡でもあるような精神の空間で、「分裂した自己との内的対話」を通して、「何のために生きるのか」を見つめ直し、「壁に閉ざされた牢獄のようなホテル」が「魂の再生のための場所」となる…。冒頭の宿泊客とホテルのスタッフを演じていた俳優が最終的に逆転し、シーンに応じて宿泊客/スタッフを演じていた俳優たちがキャリーケースを引き、廊下を旅立っていくラストシーンは清々しい。
ここで、「光」「光源の複数性」の観点から、本作をメタ演劇としてさらに掘り下げたい。宿泊客は、しばしばポケットから白く輝く球体を取り出して眺めながら、「光」についてのモノローグを繰り広げる。太陽のように明るい光に憧れるが、まぶしすぎて、光自身はよく見えない。光源が変わると、ものの輪郭や見え方も変わる。光はまた、影も生み出す。私が実見したプロトテアトルの過去作品『X X』(2020)と『レディカンヴァセイション(リライト)』(2022)においても、「光」というライトモチーフが根底にあった。『X X』では、夜明けから夕暮れまでの「一日の光の推移」を反復する照明とともに、光/闇の両義性について示唆されていた。また、『レディカンヴァセイション(リライト)』は、崩壊したビルに生き埋めになった設定の下、「暗闇の中での会話劇」だった。ただし、両作とも、役と俳優が固定化されている点では、「普通の会話劇」に留まる。
一方、本作では、「2つの役を6人の俳優が交替して演じていく」仕掛けと、「ホテルの室内の複数の灯り」を「照明装置」と重ねることで、ホテル/劇場が重なり合うメタ演劇性が前景化した。「光」「灯り」がキーワードであることは、冒頭からすでに示されている。電球が切れて真っ暗な廊下を歩いてくる宿泊客とスタッフ。部屋に入った途端に、「節電のための人感センサー」で明るく照らされる室内。中盤、廊下の電球はスタッフに取替えられるが、「働く場所や自分自身の人生は、他者と交換可能なのか」という問いの変奏でもある。そして上述のように、終盤では、「ホテルの複数の室内灯」が代わるがわる明滅し、入れ替わり続ける俳優を異なる光と影で照らし出す。照明の当たり方が変わると、人物の見え方も変容する。それは、一人の人間の多面性を照らし出すと同時に、演出の常套手段でもあることを改めて意識させる。
さらにここには、「一人の人間の多面性」にとどまらず、ジェンダーの固定化に対する問い直しも読み込めるだろう。本作では、「ホテルマン」と発言した客に対して、その言葉のもつ男性中心性や性差の固定化をホテルのスタッフが指摘し、「ホテリエ」と訂正するシーンが(演じる俳優のジェンダーを変えて)反復される。多くの演劇では、俳優と役柄の固定と同時に「役のジェンダー」も(無意識的なジェンダー規範に従って)固定化されている。本作の前半では、ホテリエも客も男性が演じるが、両者を演じる俳優がどんどん入れ替わることで、役柄のジェンダーが次第に曖昧化し、分離可能なものとなっていく。だが、それは「演出上のトリッキーな仕掛け」にとどまらず、ジェンダーそれ自体への問いをはらんでいるのではないか。私たちは普段、道ですれ違う他人や車内で隣り合った他人について、服装、髪型や髪の長さ、メイクやアクセサリの有無、仕草などの表面的な視覚情報を元に、ジェンダーの判定を無意識的に下している。だが、光(視線)の当たり方が変われば、見え方も変わるように、女/男に見えたとしても、そのように見えているだけかもしれず、ジェンダー自体が常に曖昧さや恣意性をはらんでいるのだ。
また、「人工的な照明」は、別の角度からホテル/劇場の同質性を照らし出す。ラストシーンで、宿泊客(たち)は太陽の光が照らす「外の世界」へ出て行くが、ホテルと(重ねられた)劇場を照らすのは、あくまで人工的な照明だ。「ホテルの窓の外をふさぐ(見えない)壁」は「第四の壁」の謂いであり、ホテルも劇場も、休息や娯楽を求めて日常からひととき解放されるために人々が集まってくる、非日常の空間でもある。それは解放や休息であると同時に、「チェックアウトまでの滞在時間(=上演時間)」が決められた拘束でもある。ホテルも劇場も、いつかは立ち去らねばならないが、(街にとって、あるいは生にとって)必要な場所である。清々しさと希望が込められたラストだった。