介護の現場を舞台に
そこに現れる、もうひとつの「家族」
In the site of carework another shape of ‘family’ appears
パンフレットに記された、この短いコピーにだけ目を通して、ノースホールの客席に座る。タイトルの意味も、前もって調べたり考えたりしないことにした。階段上の客席に座って味気ない真っ黒な舞台を見下ろしていると、まず演出家の村川拓也さんが現れ、ここが介護福祉施設であるというシチュエーションの説明と、登場人物であるフィリピン出身の介護士、ジェッサ・ジョイ・アルセナスさんの紹介がなされた。
「今日は彼女と一緒に、介護の現場を再現してみたいと思います」
介護の現場ということは、ジェッサさんに介護「される」人がいるはずで、舞台の奥には、その人物、エトウさんの存在につながるベッドが置かれていた。なんと、始まる前に村川さんが客席に救いを求める。
「ひとつだけお願いがあります。エトウさんを担当する役者さんが足りません」
その呼びかけに応じ、手を挙げた女性がひとり、客席から舞台に上がった。ここで村川さんが勇気ある観客=即席エトウさんにつける演出は、(1)目を開けていること(2)首を上げていること(3)リラックスしてください、この3つだけ。つまり、ベッドに横たわる即席エトウさん本人を含む私たち観客が知り得るエトウさんの情報は、介護福祉施設の利用者で、女性であるということだけだ。
さて、挨拶を終えた村川さんと入れ違いに、ジェッサさんが自転車を押しながら現れて、カラカラと物語の歯車が回り始めた。自転車を停め、誰かに挨拶をして扉を開け、着替えて長い髪をひとつに結え、スニーカーを履き替える。舞台装置はベッド以外に何もないのだけれど、出勤のシーンだ。マイムでいくつかのルーチンワークを行いながら、ふと時計を見上げて、あっと小走りでエトウさんの元に駆けつけた。
「エトウさん、おはよう」
朝ごはん食べよう、と言いながら支度を始める。「いいばい、いいばい」「今から〇〇するけん」エトウさんに声をかけるジェッサさんの福岡弁がなんとも愛らしい。方言のもつ温度感が、彼女と観客の距離をグッと近づけるのに一役買っているに違いない。一方で、まだ何者か、私たちにはわからないままのエトウさん。
朝食を摂る、お風呂に入る、レクリエーションを楽しむ。話すのはジェッサさんだけなのに、ふたりの掛け合いみたいな形で、施設の1日がテンポよく、シームレスに進んでいく。一人は何も演じていないのに、ちゃんとふたりの1日が進行していくのが面白い。ジェッサさんがエトウさんに話しかけるときは、ひとつひとつ「今からこうするね」と伝えて動作する。そして、いちいち必ずマイクを使う。他の利用者さんや同僚に声掛けするときはマイクを持たない。このルールも次第にわかってきた。マイクは、つまり、エトウさんの耳。
「手ば、こうして(胸の前でクロスしてもらう)」「叩かないでね」
ジェッサさんがマイクを通して話しかけることばによって少しずつ、エトウさんに対するわたしたち観客の解像度が上がってくる。エトウさんは、ちょっとせっかちで、いつも少し不機嫌なのかもしれない。そして、どうやらほとんど車椅子に縛り付けられている状態らしい。胸がキューっとなった矢先、ジェッサさんの一人語りが始まった。
「みなさん、こんばんは。ジェッサ・ジョイ・アルセナスです。フィリピンから来ました」
故郷のフィリピンにはお風呂に入る習慣がないこと、子供の頃のおばあさんの家の思い出、島の記憶。2017年、そのおばあさんの生命が絶えるその時、そばにいられなかったこと。「あの時の自分が許せません」。自らも母であること、娘エリンの存在、女であること、そして静かな孤独が語られる。「フィリピン人の介護福祉士」という職業の現場からはうかがい知ることのできなかった、ジェッサ・ジョイ・アルセナスという一人の人間が、私たち観客の前に立ち現れた瞬間だった。
ジェッサさんが再び、エトウさんといる世界へ戻ったとき、あんなにアクティブだったエトウさんはすっかり様子が変わっていた。「えらい痩せたな、辛かろう」。優しい言葉の中に、幾重もの寂しさが募る。どうやら身体がずいぶん弱っているようだ。彼女はもう、ジェッサさんを叩かないーー。
◎
終演後、一緒に観劇していた介護の現場で働くみなさんたち数人が演出家の村川拓也さんを囲んで、フランクに対話をする時間が設けられた。
「自分が新人の頃の介護を見てる気がした」
「外国人就労者の心細さは、私たちには理解できてない」
「フィクションとは感じられず、まるで自分の体験を見た、という感覚」
「レクリエーションで、瀬戸の花嫁を歌うのは介護施設あるあるということだけでなく、選曲が絶妙によかった」
「ジェッサさんの悲哀や寂しさ、笑顔の表情がよく見えた」
各々ざっくりとした感想のあと、村川さんへの問いが立てられた。
Q:マイクはなぜ使ったのか。
村川:身体の動きがすごくキレイで、職人さんみたいにシームレス。ことばと動きを分離するための装置としてマイクを使いました。
Q:あのシーンで「瀬戸の花嫁」という選曲は絶妙でした。村川さんは、ジェッサさんの仕事場を何日間かリサーチされたんですか。
村川:いえ。彼女の働く現場は実は見たことなくて、ジェッサさんの記憶の現場を僕が見ている、という感覚です。
Q:ジェッサさんは、なぜフィリピンで介護職に就かなかったんでしょう。
村川:フィリピンには介護施設がないそうです。家族の面倒を見るのはあたりまえで、介護という言葉もない、と聞いています。
Q:タイトルの「パミリア」は、ファミリーと同じ意味なのでしょうか。
村川:Familyが世帯を表す言葉だとすれば、Pamilyaは、もっと無限のもの。そんな感じです。
フィリピンという異国の文化に耳を傾けていたけれど、少し時代を遡れば日本の「村」だって、そんな感じだったかもしれない、と思う。いつから「共に暮らすこと」が難しくなったのだろう。核家族化や少子化のせいだなんて、きっとそんなひとことでは片付けられない問題。いや、そうではなくて逆に、私たちの世界に「介護福祉士という新しい家族」が現れたということなのか。
「利用者さんが家にいないことで、家族関係を取り戻すというケースも多いんですよ」と、みなさんが教えてくださった。「長い年月の間に、家族との関係が(良い方向に)変わっていく。亡くなった後の、その人の人間像まで変わるんです」「私たちもまた、施設利用者さんを介護することで、自分の家族を見つめなおしている気がしますしね」
岸田総理大臣は、夫婦別姓や同性婚について「制度を改正するということになると、家族観や価値観、そして社会が変わってしまう課題なので、社会全体の雰囲気のありようにしっかり思いをめぐらせたうえで判断することが大事だ」と述べている。ここで語られる「家族観や価値観」「社会全体の雰囲気」が一体どんな形をしているのか、彼は一向に語ってくれないし、だからそれが私にはよく見えていない。そのなかに、エトウさんは、介護福祉を利用しないとうまくバランスを保っていられないたくさんの家族たちは、そして私は、含まれているだろうか。