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ミュンヘン・カンマーシュピーレ 『NŌ THEATER』公演評

能であることの先へ

文:横山太郎
2021.6.15 UP

ロームシアター京都で『NŌ THEATER』を観た(2018年7月6日)。のちに気象庁が「平成30年7月豪雨」と名付けた集中豪雨の影響で、少し遅れて到着した。非常事態の気配が漂う京都市街から鴨川をこえると、劇場周辺は暗く荒漠として、人、車のかげもない。公演中止になっていないことが信じられないほどの様子だが、足を踏み入れたホールは満席で静かな熱を帯びていた。
 公演は、能「六本木」、狂言「ガートルード」、能「都庁前」の三番からなる。ドイツを代表する公立劇場の一つ、ミュンヘン・カンマーシュピーレが岡田利規に作・演出を委嘱し、2017年2月に上演した作品の来日公演であり、日本公演のために募集したエキストラを除けば、当地の俳優がドイツ語で演じた。上方に表示される日英字幕のうち日本語は、先に『新潮』7月号に掲載された戯曲をそのまま用いたようだった。
 舞台美術は地下鉄のホームを能舞台に見立てたもので、四本の柱や、鏡板に相当する松の静止画像を備える。音楽は内橋和久。「六本木」ではダクソフォン、「都庁前」ではレゾナントハープギターを舞台上で演奏した。ノイズを共鳴させた音は能管を思わせ、冒頭ではその旋律を引用した。俳優のゆっくりした動作も能を想起させる(自然な佇まいと舞踊的強度が両立した素晴らしい演技だったと思う)。

能「都庁前」 撮影:井上嘉和

本作は、上記の通り、またタイトルからすでに明らかなように、能楽(能と狂言。以下断りなく単に「能」と略す場合がある)を参照している。その参照は、上述した舞台表象よりさらに深いレベルに及んでいる。現代劇が能楽を参照・利用するとき、そこにはさまざまなやり方がありうるが、岡田が『NŌ THEATER』においてとった手法はコロンブスの卵とでも言うべきものだった。その手法を、参照された能楽の側から逆照射し、成果を論じてみたい。

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まず能楽を参照する近現代の演劇作品の系譜のなかに本作を位置づけておく。代表的な事例をあげる。20世紀初期のヨーロッパ前衛劇(イェイツ、クローデル、ブレヒトなど)。1950年代以降の三島由紀夫による『近代能楽集』、また観世寿夫を中心とする現代演劇・現代音楽と能楽のコラボレーション。70年代以降の鈴木忠志、太田省吾、ロバート・ウィルソンらの試み、また岡本章が主催する練肉工房の現代能楽集シリーズ。新しいところでは、野村萬斎芸術監督のもとでの世田谷パブリックシアター現代能楽集シリーズ。近年の青木涼子、細川俊夫らのオペラも注目される。他ジャンルとのコラボレーションに取り組む能楽師はますます増えている。
 これらの能への参照の仕方は、演技と作品のいずれにより強くフォーカスするかによって大別できる。前者では、能役者をキャスティングすること、あるいは能の技法や身体の可能性を探究することに重点がある。後者では、もっぱら劇の主題や修辞や形式の利用に重点がある。後者の代表が三島の『近代能楽集』であり、『NŌ THEATER』はひとまずこちらの系譜に位置づけられる。能の様式的な技法による上演ではなく、ナチュラリズムをベースにした俳優による上演を前提とした口語戯曲であり、三島のよく知られた言い方をなぞって言えば、「能楽の自由な空間と時間の処理や、露わな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シテュエーションのほうを現代化した」ものだ(新潮社1956年版あとがき)。
 岡田の作品史上の系譜もみておこう。かれは本作に先立つ『地面と床』(2013年)でも能の劇形式を参照している。岡田によれば、能への関心は、幽霊という不在のものを存在させる想像力が本質的に演劇的だと気づいた2010年頃にさかのぼるという。しかし私見では、かれは初期の代表作『三月の5日間』の語りの方法においてすでに、意図しないまま能の言語的な機制にコミットしている(『viewpoint』77号所収岡田稿及び拙稿参照)。ともあれ岡田の能への関心は、震災を経て、また河出書房新社『日本文学全集』において謡曲と狂言の現代語訳に取り組んだことによって、いっそう深められたようだ。この現代語訳の経験は、後述するように能の戯曲構造への注目というかたちで、本作の構想に強く影響していると考えられる。

能「六本木」 撮影:井上嘉和

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『近代能楽集』(以下『近』と略す)と『NŌ THEATER』(『NŌ』)はとりわけ、単なる翻案になることを避け、能に対して批評的な距離をとろうとする点で似ている。いずれにおいても、いかにも能らしい超俗的な物語を期待する観客(読者)を裏切って、むしろ現代の世俗にまみれた状況設定のもとでドラマが展開する。
 『近』のたとえば「弱法師」は、戦災孤児をめぐる家庭裁判所での親権争いを描く。初出時(1960年)の時代状況に即した設定だ。『NŌ』の「六本木」は、森タワーにオフィスを構えたゴールドマン・サックスのディーラーが2008年前後の世界金融危機の際に自殺したという、架空だがいかにも当時あってもおかしくない出来事を、もういっぽうの「都庁前」は、14年の都議会において女性議員がセクハラ野次を受け、その後に男性議員一人が謝罪しただけで沙汰止みとなったという、現実に世間を賑わした出来事を、それぞれ扱う。
 このように時事的なセッティングをする点では類似するいっぽう、それ以外の多くの点で両者は対照的なアプローチをとる。『近』は能の既存曲と同タイトルの翻案だが、『NŌ』はオリジナル作。『近』は複式夢幻能をあえて扱わないが、『NŌ』はこれに取り組んだ。『近』は、現代のとある世俗的な場面が、シテの語る詩的なビジョンに巻き込まれて一時的に超越的な世界へと相転移を起こす奇跡を描くが、『NŌ』においては、シテは世俗的な出来事の展開を徹底的に語る。たとえばプラザ合意からバブルを経てリーマンショックに至る金融の物語を語り(「六本木」)、都議会での野次からメディア上の騒動を経て謝罪へ至る一連の経緯を語る(「都庁前」)。
 こうしたいくつもの違いは、先に私が似ていると述べた三島と岡田の「能に対する距離のとり方」が、実は根本において異なっていることから生じている。三島は、「能ではない」ものが能の本質的要素を備えることを目指した。すなわち、口語会話劇において、能を観るのに似た崇高な時間を体験させることを目指した。いっぽうで岡田が本作でおこなったのは、形式面でぬけぬけと「能である」ことだった。

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能の形式性の基礎は、戯曲の構成単位である。研究者は小段と呼ぶ。たとえば「次第」という小段は、登場直後にワキが唱える短い歌だ。第1句と第2句は七五調の同一詞章を反復し、第3句で締める。音楽的にも一定の旋律を備えている。旅をするワキの感慨を述べつつ、作品全体のテーマを暗示することが多い。
 岡田が『NŌ THEATER』で試みたのは、まさにこの小段を使って作品を作ることだ。「六本木」のワキにあたる青年は、登場して

世の中は、僕に対する需要はない。
世の中は、僕に対する需要はない。
暇だけは、だから有り余ってる。

と唱える。これは口語とはいえ上述した「次第」の形式に則っており、戯曲でもこの前にわざわざ「次第」と記されている。岡田は詞章のタイプと音楽の関係にも気を配っており、「次第」のようにリズムと旋律を伴って歌われる小段の場合は、戯曲は改行した詩のかたちで書かれ、上演時には伴奏がつく。
 能にはこのほか多くの小段があるが、それぞれに一定の構造と機能を持つ。それらが組み合わされて、さらに大きな単位である「段」を構成する。たとえば、「次第」でワキが登場し、「名ノリ」で自己紹介し、「上歌」で移動を表現し、「着キゼリフ」でシテと出会うべき場所に到着する。こうしたパターンが序の段を構成する。「六本木」でも、先の登場の後に「僕は今、真夜中近い東京を、地下鉄に乗って徘徊しているところです」と自己紹介の語りをはじめ、「上歌」で地下鉄を移動し、「着キゼリフ」で六本木のホームに降り立つ。つまり「六本木」冒頭は、能の典型的な小段構成による序の段なのである。
 同様の仕組みで破の段、急の段と展開して、能のドラマは完結する。このような単位とパターンの階層的な構造が、能の形式性の内実である(ちなみにこれは身体表現にもあてはまる)。先にあげた以外にも、シテがワキを対話のなかでやり込める展開、シテとワキの対話が混融して地謡に流れ込む展開など、能のドラマの典型的なパターンが本作でも採用されている。
 物語の全体的な組み立てにもいくつかのタイプがある。本作が採用したのは先述したように複式夢幻能と呼ばれるタイプだ。前半部では、旅僧(ワキ)が過去の悲劇的な出来事の記憶を留めた土地を訪れ、不審な人物(シテ)に出会い、対話しているうちにその当事者の霊であることを示唆される。後半部では、シテが生前の姿でワキの夢の中に再登場し、かれをそこへ縛りつけるトラウマ的出来事を再現的に語り、供養を乞う。観客はワキとともにそれを聞くうちに、あたかも過去が現在し、目前でそのトラウマ的出来事に立ち会うかのような経験をする。詳述しないが、「六本木」はこうしたパターンに忠実に従って、青年(ワキ)の前で過去を物語るディーラーの亡霊(シテ)を描く。
 もう一つ、さらに大きなレベル、つまり公演における番組編成のパターンにも触れておこう。現代では、能2番の間に狂言1番を挟む構成はポピュラーな公演形態である。本作がこれを踏襲していることは言うまでもない。

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以上でみたように、『NŌ THEATER』は、ひとまず愚直なまでに能の形式をなぞってつくられていて、「能の要素を取り入れた」「能を翻案した」といった程度の試みとは、一線を画している。それは能を参照したドイツ演劇(能を参照した現代劇)というよりは、むしろドイツ語による能(現代語による能)である。こうやってぬけぬけと能であることが、私が思うに本作の賭け金だ。『近代能楽集』のように、能の形をとらない現代劇ならば、人はむしろ能的な要素を探そうとするだろう。逆に『NŌ THEATER』は形式的にいかにも能らしいため、それが通常の能から離脱しはじめると、その違いが強い意味を持たざるを得ない。それは、人々が「能らしい」と考えることへの批評として機能している。
 「能らしさ」からの離脱と批評は、たとえば幽霊のありようにおいて見られる。先に述べたように、たしかに「六本木」における幽霊は複式夢幻能の典型的な枠組みのなかで現れて消える。しかし、投資銀行のディーラーというキャラクターは、能らしい侘びた職業人(海士や木樵)とはほど遠く、「5パーセントだった政策金利は、一九八七年までには、2.5パーセントにまで引き下げられた」といった世俗的言語で語られる金融の物語は、人を幽霊としてこの世に留める理由として、またワキに語りかける話題として、あまりにエコノミックに感じられる。
 「都庁前」において、いよいよ「能らしさ」からの離脱ははっきりする。物語は複式夢幻能の定型的展開をたどらず、独創的な形をとる。前半のシテ(幽霊)が、後半に巫女的な役割のツレ(都議会への抗議のために都庁広場に立つ女)に憑依する。この後半部は過去の出来事ではなく未来の出来事の夢想である。ここでは幽霊は、セクハラ野次というトラウマ的な出来事による死者ではない。そこでは誰も死んでいない。この事件を象徴的な媒介として集積した、「かつて生きた女たちの味わった無念さが、今生きている女たちの味わっている無念さが、女の姿の幽霊を形づくった」、そういう存在である。「フェミニズムの幽霊」と名付けられたこの幽霊は、あまりにポリティカルであるように思われる。
 しかし、なぜ私は経済や政治ゆえの幽霊を、能らしくないと感じるのか。能らしい幽霊の能らしさとは、なんなのか。それがどのような経緯で幽霊になり、ワキにどのような救いを求めたなら、能らしい幽霊といえるのか。

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たとえば、非業の死を遂げ修羅道に堕ちた軍人や、恋の妄執で地獄に堕ちた者は、能らしい幽霊だろう。かれらを幽霊にした理由であるところのコンフリクトは、その土地に拡張現実のようにオーヴァーラップする修羅道や地獄の世界で繰り返し再演され、かれらを苦しめ続ける。幽霊はワキ僧へ鎮魂と成仏を求めるが、それはコンフリクトの解決というよりは無化を意味する。この苦しみを与えた者に責めを負わせるのでもなく、世のなかから戦争をなくすのでもない。戦死、あるいは恋といった、かれらをこの地へ留める過去のコンフリクトをなかったことにしたい。そのため、偶然の縁によって出会うワキ僧へ、過去を再現的に語る。すると、あたかもトラウマを語って昇華させるカウンセリングのように、過去の情景は朝日や松風や鐘の声のなかへ消失していく。以上がおそらく、私がいつのまにか前提としていた、能らしい幽霊のための「鎮魂の制度」である。こうした「能らしさ」は「仏教らしさ」「日本らしさ」とも相互に支え合っているように思われる。
 一方で『NŌ THEATER』は、経済や政治といった現世的理由の消し去り難さによってこそ成立する、新たな幽霊のあり方を提示した。世界から金融のたがを外した者がそれを享楽して、人々を苦しめ自ら苦しんでいる。女を抑圧することでまわっている国家のメカニズムを放置して、国家が自滅に追い込まれようとしている。幽霊が幽霊となった理由としてのこうした現世的なコンフリクトは、ワキに語ってもなかったことにすることができない。なぜなら鎮魂を求める相手のワキの青年は、そのコンフリクトと無関係ではないからだ。ワキはかれらに偶然の縁で出会うのではなく、「私が生みだした罪、希望のない若さという残酷な事態を生み出した罪によって、私と君はつながっている」のである(「六本木」)。あるいは、セクハラ野次の被害者と同郷という縁に引かれ、「あなたは彼女の姿を、見に行かなければならない。男性であるあなたは」(「都庁前」)と要請されて出会うのである。かれらは、シテがワキに、あるいはワキがシテに責任を負う関係のなかにある。それはカウンセリングというよりは交渉的な関係だ。
 言い換えるなら、『NŌ THEATER』の幽霊は、既存の鎮魂の制度のもとでの鎮魂を求めていない。現世のコンフリクトをなかったことにすること、つまり免責されることも、することも求めていない。「君は許してくれるだろうか? いや許す必要などない」(「六本木」)のだし、「私たちを弔うためにはこの都市の、この国の、メカニズムが、変わらなければいけない」(「都庁前」)のだ。
 これらの幽霊は、過ぎ去った過去の一個人ではない。「都庁前」における「フェミニズムの幽霊」は、苦しめられる女たちの集合体であることが明示されている。そのことは、最終局面で憑依するシテと憑依されるツレの両方が舞台上に出現することで可視化される。女たちのコンフリクトが存在し続ける限り、呼びかける幽霊は成仏することなく存在し、ワキ(観客)に呼びかけ続ける。私たちの訴えに応えなければ、あなたの国は滅ぶけれども、それでよいのか?
 「六本木」の幽霊は一個人として造形されているが、「金本位制から離脱したとき米ドルは、幽霊となった。以来この世界は、幽霊に支配されている」と自ら語るとき、かれもまた一個人であることをやめて、マネーという超越的な存在の依り代であることを明かしている。私が揮発して消えるということは、日本からマネーという幽霊もまた揮発して消えていくとうことだが、あなたは私に呼びかけなくてよいのか? このように、『NŌ THEATER』の幽霊は、ワキ(あるいはかれを代理人とした観客)と共有するコンフリクトの存在に目を向けることを求める。それに応答する責任が果たされることなしに、かれらが成仏することはないだろう。
 ここにおいて、経済や政治の幽霊が能らしくないと感じた本質的理由がわかった。それは単に、題材が実社会に寄りすぎているとか、詩的修辞を欠いているとかのために能らしくないのではない。全社会のコンフリクトを代表した集合的存在としての幽霊は、従来的な意味での鎮魂を求めていないために、能らしく感じられないのだ。『NŌ THEATER』の幽霊が求める「鎮魂」は、「なかったことにすること」ではない。一個人のトラウマを解消するようには、経済や政治の水準の現世的なコンフリクトは解消できない。応答責任に応えることが、この現世的幽霊にとっての鎮魂なのである。それを「能らしくない」、あるいは「仏教らしくない」「日本らしくない」と感じるとき、能らしさ、仏教らしさ、日本らしさ自体が問われているのだ。

能「六本木」 撮影:井上嘉和

―――

以上で述べたように、『NŌ THEATER』は能の幽霊を批評的に再発明した。社会的な心性や情勢の集合体としての幽霊である。それは、マルクスが『共産党宣言』冒頭でヨーロッパを徘徊していると述べた「共産主義の幽霊」と同じような意味での幽霊だ(おそらく「フェミニズムの幽霊」はこれを意識した呼称だろう)。これは、本作が単に能を参照したのではなく、能に即し、能そのものでありながらそこから離脱するという方法をとったために、強力な劇的装置として機能した。
 いったんは「能である」という方法は、幽霊のほかにもさまざまな点で能との差異を浮かびあがらせ、能の本質への再考を迫る。たとえば、間狂言が地謡を兼ねるというやり方が非常に効果的だったのだが、このことは、地謡とはなにか、間狂言とはなにかを問いかけてくる。舞台美術における地上階へ続く階段は、能舞台の外へと続く橋掛に見立てたかと思わせて、この幽明界のごとき地下世界から地上の現実へワキが帰って行くときにだけ使われる。シテはその脇を通ってホームの奥へ消えていく。ここでは橋掛とはなにかを問いかけてくる。こうした能への問いかけは、能を突き抜けて、演劇において幽霊のような想像的存在物とはなにか、声の所有者とはなにか、舞台の「外」とはなにかといった一般的な問いへとつながっていくだろう。さらにそれは、伝統的な能の幽霊の見直しを迫るかもしれない。たとえば『井筒』の女の霊もまた、男を待つ女たちの集合的依り代なのではないだろうか?
 最後に付記したい。『NŌ THEATER』は、能であることから離脱し、「能らしい」非政治的な幽霊を批評する。しかしなお私は終演の瞬間に、伝統的な意味での鎮魂への祈りと、「能らしい」茫漠としたフィーリングを感じずにはいられなかった。これは能だ、と思った。能の研究者として、岡田がこの試みを続けてくれることを願う。現代演劇が「能である」ことは、単に能を参照した現代演劇を更新するだけでなく、能が「能である」ことを更新する力となるだろうから。

 

初出:機関誌ASSEMBLY第3号(2019年3月31日発行)


ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』

2018年7月6日(金)–8日(日)|ロームシアター京都 サウスホール

作・演出:岡田利規(チェルフィッチュ)
音楽・演奏:内橋和久
ドイツ語翻訳:アンドレアス・レーゲルスベルガー
出演:マヤ・ベックマン、アンナ・ドレクスラー、トーマス・ハウザー、イェレーナ・クルジッチ、シュテファン・メルキ

東京の地下鉄を舞台に、資本主義社会の困難や個人に対するハラスメントといった現代的な事象を、能の様式を用いて描いた意欲作。ドイツ・ミュンヘンの公立劇場「カンマーシュピーレ劇場」のレパートリー作品として2017 年に上演された作品の日本初演。

  • 横山太郎
    横山太郎 Taro Yokoyama

    立教大学現代心理学部映像身体学科教授。専攻は演劇学(特に能楽)、身体文化研究、芸術思想。主な研究テーマは世阿弥時代から現代に至る能楽の身体技法の歴史的変容の解明。哲学・現代演劇・文学理論・人類学などと能との接点を探る学際的研究も行う。

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