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#公演評#音楽#ロームシアター京都×京都市交響楽団#2021年度

京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」公演評 

コロナ禍を照らす、「ことば」と「音楽」の見事な融合

文:大西穣 編集:中本真生
2021.8.1 UP

 京都在住の藤野可織による書き下ろし小説を、川栄李奈が朗読し、京都市交響楽団のフランス近代音楽を主体とする演奏で彩る、オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」が、2021年6月20日、ロームシアター京都にて開催された。

 「ことば」と「音楽」。この2つの領域を交差させ、繋ぎ合わせ、あるいは掛け合わせること。足し算ではなく掛け算のような効果を狙うこと。そこには無数の可能性があるとも言える。現代を生きる作家による、この世に生まれたばかりの小説の朗読と、歴史に耐えてきた古典音楽の演奏を繋げる実験は前代未聞の挑戦となるだろう。

 さて、公演が始まった。川栄の澄んだ声が、落ち着いた質感を伴って、言葉を丁寧に運ぶ。聴衆はじっと耳を凝らす。スクリーンの字幕の背景には、青と赤の色彩が印象深い、三好愛によるイラストが、作品の視覚イメージの土台を形づくる。朗読が一旦終了する。すると、三ツ橋敬子の指揮するオーケストラがここぞとばかりに駆動する。オーケストラが曲を一旦演奏し終える。また朗読が始まるーー。その流れが2度、3度、展開していくーー。どうだろうか。小説の世界、そして楽曲たちの音楽世界。異なる時代の異なる地域に生まれたはずのものたちが、魅惑的に結びついていく。私は「ことば」と「音楽」の、今までにない結びつきに新しさを実感し始めるーー。

いつの間に、三ツ橋による巧みなタクトでオーケストラは躍動感を持って進行していく。印象派の要素を特徴づけるハープは流麗なアルペジオで、ティンパニは微弱音の低音で聴衆の耳を触覚的に刺激する。そしてコンサートマスターの会田莉凡がここぞという時にヴァイオリンを力強く奏で始めたーー。

 公演の全体を語る前に、まず公演直前に2021年7月号の『新潮』でも発表されている、小説の世界観に触れざるを得ないだろう。藤野は、執筆前に、公演会場のメインホールに赴き、4階席から見下ろすことによって、作品の着想を得たと語っている。そして、本作品において、物語の主人公となるのは、「高いところ」=タワーマンションの37階に住んでいる、9歳と13歳の姉妹だった。その世界設定では、姉妹は感染すると昏睡状態に陥る、感染経路が判明していない奇病が流行し、虚実が混濁するSNSの情報の渦に囲まれている。両親はすでに病に犯され昏睡状態となり、SNSを介して馴れ馴れしくメールをしてくる大人の男性たちは全く信用が置けない。そんな狂気に満ちた世界において、姉妹は世界に対して失望することなく、子ども2人だけでしっかりと理性を保ち続け、生き残らなくてはならない。それゆえに「ねむらない」姉妹たちの物語なのだが、いわば文明の「高み」にいながら、パンデミックやポスト・トゥルースの世界に振り回される現在の我々のメタファーのようでもある。世界を見渡すことのできない曖昧さと日常に巣食う不穏さ、理性的であり続けることの凛々しさ。少女たちの孤独を示しながら、読者を未来へと照射する。一つの世界観が広がっていくーー。

 そしてまさにこの「ことば」の世界に呼応するように、音楽が注意深く選ばれている。まずプログラムで目につくのは、ピアノ学習者にはよく知られたドビュッシー、ラヴェルやサティなどのフランス音楽作品だろう。形式性が求められる古典主義や、心情に直接的に訴求するロマン主義ではない。主観的な感情の発露とは切り離された、どこか曖昧な美を持つ音楽世界が特徴的だ。その軽やかで夢みがちな響きは、しかし一般的に言って、死と隣接するような不幸なイメージを伴っていたり、美しい日常の情景に何らかの不穏さを持ち込むこともある。これらの音楽に親しみのある者ならば、ボードレールや象徴主義など、同時代のフランス文学の影響を見出すだろう。音楽家たちはその世界をよく理解しながらも、集中して、現代の作家である藤野作品の「ことば」の世界と向き合っていた。

 オーケストラのダイナミズム表現や音楽的な肉付けは、会場でしか味わえない要素かもしれない。例えば、開始まもなく、姉妹が想像上のスナイパーとなる場面では、ストラヴィンスキーの『カルタ遊び』の抜粋箇所が突如として演奏される。弦の性急な響きは、まさに獲物を射止める狙撃手が抱く緊張感に合致する。この曲を使用するならば、この箇所でしかあり得なかったと思える見事な抜粋だ。続くラヴェルの『スペイン狂詩曲〜夜への前奏曲』は半音階の下降の連続が特徴的だが、陶酔するような弦の響きと合わせて演奏することで、タワーマンションという、本来は恵まれた環境にいる少女たちが感じざるをえないサスペンスフルな緊張感を表している。それに対して、シベリウスの『悲しきワルツ』は、緩急のある優雅なワルツの世界を作り出す。しかしその優雅さは、強烈な死と隣り合わせだーー。また、小説では色彩を示す言葉が象徴的に使用されているが、本公演の選曲はいかに小説がもつ独自の色彩感覚を表現するかも意識されていた。特にドビュッシー『夜想曲』の「雲」。コーラングレのフレーズを端緒とする、諸楽器間の音色構築における、少し白みがかった灰色の空に消えていく雲を意図した(作曲家の監修した初演時のプログラムに記載[*1] )曖昧な色彩の感覚は、主人公たちのいる「高いところ」を観客に想起させる。このように「ことば」と「音楽」は巧みに組み合わされているのだ。

 プログラミングの巧みさは、公演全体に構成感を与えてもいた。前半で観客の脳裏に焼き付いただろう半音階の下降が、後半の『スペイン狂詩曲〜マラゲーニャ』において再び演奏されることで、観客の中で前半と後半部が有機的に結びつき、ある種の時間感覚を生じさせる。最後の『亡き王女のためのパヴァーヌ』では、タイトルの喚起するイメージが、姉妹の持つ孤高性と呼応する。音楽的にも、いくつかのパートに分けて演奏されていた、いわばディヴィージの目立った弦楽が、ユニゾンで一つの旋律を奏でることによって、どこか悲しくも融和する物語のクライマックスとして、美しく締める。「高いところ」にいる姉妹の姿がいつまでも脳裏に焼き付くかのようだ。

 通常、クラシック音楽には固有の文脈が厳然としてあって、歴史に大きく束縛されている。しかしこの公演では、書き下ろされた小説と音楽世界は向かい合うことによって、開かれた世界を見せた。古典音楽の新しい切り口が提示され、今までにない聴かせ方を誘導した。そこには、切り離された楽曲のパッチワークやサンプリングに陥らない、音楽的な知見に裏付けられたストーリーテリングと大局的な視点で見た際の構成の充実があった。

 当日のアフタートークではその充実ぶりが伝わってくるようだった。川栄はオーケストラを間近に見ることが初めてだということだが、臆することなく声の表情を瞬時に変化させ、メリハリをつけることに成功していた。公演中の客席には、まるで作曲家が演奏家を見守るかのようにその彼女を見つめる藤野の姿があったが、一人称代名詞や接続詞の使い方など、公演の朗読を前提として言葉を選んでいたように見受けられるし、オーケストラの音に感動し贅沢な経験をしたと語った彼女の今回の経験は今後の小説作りに何らかの影響を与えるかもしれない。そして音世界の骨組みを設計した三ツ橋や会田もそれぞれ充実した表情を見せていた。

 観客にとっても、また実作者、実演者にとっても大きなインパクトを残し、多くの者から、再演が希望される公演になった。私は今もなお、立ち会えた幸福を噛み締めているーー。

*1 参考文献:Eric Frederick Jensen, Debussy (Master Musicians Series),‎ Oxford University Press, 2014

  • 大西穣 Joe Onishi

    バークリー音楽大学作曲科卒。『BRUTUS』『ユリイカ』『Intoxicate』『ONTOMO Web』『エクリヲ』などに寄稿。
    スティーヴ・ライヒ本『Conversations』の翻訳が24’年5月に刊行予定。

  • 中本 真生(UNGLOBAL STUDIO KYOTO) Masaki Nakamoto

    1983年、愛媛県生まれ。京都を拠点に活動。文化芸術(舞台芸術・音楽・現代美術・映像・映画・漫画・漫才 他)に関する編集やインタビューを数多く手がける。また一方で、WEBディレクターとして文化芸術に関するWEBサイト制作のディレクション、展覧会・コンサート・作品の企画・プロデュースなどを行う。
    https://unglobal.jp 

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