京都の街は碁盤の目だから迷うことはない。と中学の頃修学旅行の際に先生が言っていた、ような気がする。
地図を読むことも、自分の居場所を確認することも、どうしようもなく苦手な私にとって京都の街を自由に歩くのはとても難しいことだった。
私は鴨川を目指して歩く。川の側で等間隔に座る人たち、川は流れている。
どこからが始まりだったのか、気がつけば村川さんが舞台の上に立っていた。
村川さんは当然のように前説を始める。『ムーンライト』の全てを静かに話し始める。
これから行われるいくつかの不自然の中で、私にとってこの前説が一番の不自然だった。
前説では中島昭夫という出演者の存在を伝えられた。印象的だったのは、「中島昭夫は亡くなっている」ということ。「中島昭夫生前時のなるべくそのままの作品で上演を行う」ということ。
舞台上には椅子2脚とグランドピアノ。村川さんは舞台上に中島昭夫の登場を促した。村川さんが舞台袖に向けた視線をゆっくりと舞台中央の椅子へと揺らす。村川さんはそこに中島昭夫がいるかのように振る舞った。
客席にいる私にはそこにある何かを見ることはできなかった。
村川さんは中島昭夫の不在を招いたのだ。
舞台上で行われる、不在を招き、受け入れるという行為。
客席で私はただそれを目撃する。私は亡き声を聞こうとした、亡き姿を見ようとした。耳を澄まして、目を凝らした。
でも、それらが叶うことはなかった。
『ムーンライト』は想像することを強く求められた気がした。中島昭夫の声を姿を想像する、ことを。
次第に中島昭夫の声が聞こえたような、中島昭夫の姿が見えたような錯覚が起こる。
いや、そうであることを願った。望んだ。観客は『ムーンライト』を美しい話にしようと嘘をつく。
観客の私もまた嘘をつく。聞きも見もしていない「聞こえたような気がする」と「見えたような気がする」と。
とても簡単に嘘をつく。私には、聞こえないし、見えてもいないのに。
『ムーンライト』は観客の嘘に気づいている。
舞台は中島昭夫の不在を証明し続けた。
『ムーンライト』は中島昭夫の不在を証明し続けたが、不在を証明するということは、それと同時に中島昭夫の存在を強く認識させた。中島昭夫という存在が“いた”ということを認識させた上で、“いない(不在)”ことを証明し、そして“いる”ように錯覚させる。状況は極めて複雑だったかのように思える。
しかし、その複雑さを理解するのにあまり時間は掛からなかった。とても不思議な体験だった。
舞台の上で、中島昭夫の不在を見つめる村川さんの横顔には少し影がかかっていた。村川さんは中島昭夫に質問を繰り返す。私は聞くことのできない声に村川さんは相槌をうつ。時には少し笑って相槌をうっている。
なんだかシステマチックに見えるそのやりとりは、村川さんのひとり遊戯にも思えた。
ひとり遊戯のように思えたからこそ、見守ることができたのかもしれない。
不在の中島昭夫と、中島昭夫の不在を証明し続けている村川さんの行方に不安を感じつつも興味を持ってしまったからなのか。
死者は死してなお存在することを望むのか、それは生きている者が望んだことなのか。
死してなお存在し続けて欲しいと願うのは、鎮魂とはほど遠いところにある願いだと感じる。
それでも願う。死者の存在を、死してなお繋がり続けることを。勘違いであっても、どうかそうであって欲しいと願う。まただ、また私はこれを美しい話にしようとしている。とても簡単に。
出来事を美しいと思うことは、とても簡単なことだと思う。
『ムーンライト』は美しい。『ムーンライト』を美しいと思える人間でありたい。
そこにある、残酷さや過酷さを無視して。美しかったと私は言う。
『ムーンライト』は観客の嘘に気づいている。『ムーンライト』は私の嘘に気づいている。
村川さんは『ムーンライト』を通して中島昭夫と繋がることはできたのだろうか。
客席の私は、村川さんの視線や言葉を介して中島昭夫の存在と不在を感じることができた。
村川さんはどんな願いを望んだのだろう。中島昭夫の不在に何を願ったのだろう。
舞台終盤、中島昭夫の生前の映像が流れた。映像の中で中島昭夫はベートーヴェンの「月光」をピアノ演奏している。とても変な映像だった。変な映像だったけどとても自然だった。中島昭夫の存在をここでも強く認識することができた。しかし、舞台上に村川さんの姿がなかった。きっと映像の途中で退席したのだと思う。
中島昭夫の存在を確認することに必死だった私は、村川さんの不在に気づくことができなかった。
時間が流れていく。また鴨川に行こうと思った。流れる川を見に行く。川の側で等間隔に座る人たちを見に行く。
近くに美味しいドーナッツ屋があるらしい。私はこれからの日々について考える。
『ムーンライト』と過ごした時間は、中島昭夫の不在を通して私は私の存在を見た気がした。
私は中島昭夫の不在を受け入れることにした。
亡き声を聞くことができない私を、亡き姿を見ることのできない私を、私は受け入れることにした。
誰もいないように見えるあの椅子に座るのは、中島昭夫の亡霊なのか。それは、たぶん違う。
村川さんがそこに招いたのは中島昭夫の不在なのだから。