革命的逆襲である。
挑発的な劇作家・演出家である市原佐都子とスイス・チューリヒのノイマルクト劇場による「Madama Butterfly」は、ジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』が内包する男性/西洋中心主義への時を超えた反逆であると同時に、未だその視線を内面化してやまない現代の私たち自身に対する皮肉に満ちた風刺であり、だからこそ革命的である。
それはあまりにも俗悪的なように思える。怒りを覚える人も少なくないだろう。何しろ(西洋人でも男性でもない)私自身、不快でたまらなかったくらいなのだ。この作品を体験することは、誰にとっても心地良いものではあり得ない。そもそも心地良い革命なんて存在しない。心地良いままでは何も変わらない。私が、あなたが、私たちを規定する構造=舞台そのものが変容を迫られているのだ。「Madama Butterfly」とは、誰も無傷ではいられない、掻き乱されずにはいられない、万人を巻き込んだ仕方でなされる渾身の反逆なのである。
『蝶々夫人』への反逆
さて、本作が下敷きにしている『蝶々夫人』は、幾度となく上演されてきた名作であると同時に、いささか屈辱的なほどに感傷的な作品であった。
美しいオペラで掻き立てられる情感は危険なのだった。明治期の長崎における悲恋を描いたその作品は、これまであまりにも西洋/男性にとって心地良い感傷を呼び起こしてきたきらいがあるのだから。のちには帰国してしまうアメリカ海軍士官ピンカートンと結婚し、一途に夫の帰りを待ち続け、彼がもはや戻らないことを知ると切腹する元芸者〈ゲイシャ〉の日本人女性・蝶々夫人の物語は、蝶々夫人が憐れであることが肝心なのだった。彼女が無垢の被害者であればあるほど身勝手な憐憫は向けやすく、西洋/非西洋、男性/女性の非対称性を看過して美的に理想化することが容易くなるのだから。
だからこそ『蝶々夫人』への反逆を試みる本作は、決して蝶々を「無垢の被害者」としては描かない。三幕構成の本作は、第一幕では内面化された西洋/男性中心主義の根深さを、第二幕ではこの作品そのものに対するメタ視点=批評性を、第三幕では第一幕で描かれたものが導く悲劇を表現する。現代に蘇る蝶々は構造的非対称性がもたらす劣等感の行き場のない逃走劇の主人公であり、感傷的な消費を跳ね除ける愚かしさを備えた人物である。
執拗なまでに描かれる蝶々の西洋に対する劣等感、露悪的に強調される浅はかさはまるで、もう心地よい感動などさせてなるものかという作者の決意を物語るかのようである。肥大した自意識を抱えた彼女の暴走は、確かに『蝶々夫人』への反逆足り得ていたのだ。
現代のマダム・バタフライ
2004年、『蝶々夫人』の初演からちょうど百年後に設定された第一幕の冒頭では、舞台の中央に座した現代版蝶々と、スクリーンに映し出されたアバターの会話が描かれる。
スクリーンのアバターとして登場するのは、自らの似姿やケイト・ピンカートン——ピンカートンのアメリカ本国における妻——、フランシスコ・ザビエル等である。アバターは他者であって他者ではない。いかにも「日本人的」な自らの外見に倦んでいる蝶々が「外見に囚われないで 中身が大事」という一見して「正しい」言葉を跳ね除ける様を描くこの場面は、蝶々自身の内面世界である。白人を美の基準とする価値観を内面化するあまり自らを愛することが出来ないありよう、逃げ道を絶たれたその閉塞を、寓話的に表現しているのだ。
とりわけセーラームーンに扮するケイトのアバターは、『蝶々夫人』から百年以上経ってもなお私たちが白人中心主義的な美の価値観に囚われていることを苛烈に突きつける。あるいは「米軍基地の近く」で育ったと語る長崎出身の蝶々は、形を変えて存続し続けている不均衡な構造を示唆してもいる。何も終わっていないのだと。
未だ根強く存在し続けている白人中心主義を内面化した現代の蝶々は、「マリア様」になりたいと考える。キリスト教を信じているわけではない、ただ「西洋」を象徴するその宗教の中で最も尊ばれる存在に、白人に望まれてやまない「女性」に、蝶々はなりたいのだ。
そして白人ではない自分には不可能なその望みを叶えるため、次善の策として白人との間に子どもを設けたいと考える。ステレオタイプを求められても構わない、いわゆる「イエローフィーバー」だって構いやしない、なぜなら自分だって「白人」というただそれだけを求めているのだから、と。
そしてそんな蝶々の前に、「ガイジン」が登場する。
普段見慣れた見た目と異なる人々を「ガイジン」として他者化し、ステレオタイプに押し込めるこの日本に、当該人物は自ら進んで他者化を被りにきた人である。というのも「日本の女と簡単にやれる」、生まれ育った場所では無個性でも日本では魔法にかけられ「ガイジン」なる有徴の存在に変身できると、そんな風に信じていたからである。
つまり蝶々とその人は似た者同士であったのだ。
名前さえ与えられず、「私はガイジンです」と名乗るその人は、ステレオタイプの存在を誇張的に際立たせる。まともな会話など成立せず、ただ互いを「日本の女」「ガイジン」とばかり認識する二人は早急に結婚し、早急にセックスする。まるで動物のように。実際、セックスシーンでは「動物」とひたすら唱えられすらする。互いに相手を「自分と同じ種の生き物」と思いさえしないまま及んだその行為は、「ガイジン」によって「獣姦」と明言されるのだ。人間というよりは動物であるような、相手を人間としてみなさず、それによって自らも動物化するような、そんな行為として。
この「獣姦」によって出来た息子の苦悩を、葛藤を描き切った第三幕の結末は恐ろしい。美談にはなりようのない苦しみの行き着く先が示すのは、結局のところ蝶々がその身を縛るものから逃れ得なかったことである。西洋/男性中心主義の鉄鎖の重さ、おぞましさである。決して「感傷」に浸らせはしないその悲劇的かつ喜劇的ラストは、言葉にならない数多の蝶々夫人による逆襲そのものだったのだ。
「舞台」への反逆
ところで、先に登場した「ガイジン」は、『蝶々夫人』におけるピンカートンの現代版でありながら、白人男性であるピンカートンとはあからさまに異なる姿をしていた。
第二幕で明らかになるのだが、「ガイジン」を演じたのはサマーなる名前のトルコ人女性だったのだ。あるいはそのような属性を与えられた役だった。
第一幕で登場した面々が、まるで「舞台裏」を明かすかのように蝶々/ガイジン等の役から解き放たれて語り出し、現代にあって『蝶々夫人』のパロディを演じることそのものについて舞台上で演じ始める、そんなメタ演劇が第二幕である。役者の身体が舞台上で晒されていることを利用したこの仕掛けは、観客の目と耳をジャックし、自らが今まで見てきたことを問い直すように強いる。演劇であればこそ可能な問いかけを、第二幕は極めて効果的に用いるのだ。
たとえばサマーは、「白人男性」を演じるという第一幕の舞台設定があればこそ「白人男性」に、少なくとも白人男性の役に見えていた。たとえサマーが女性で、肌の色はオリーブ色であったとしても。
このことが意味するのは、私たちは演劇以外の場面でも、ある人をまなざす時に常にすでに無意識のステレオタイプを経由してまなざしているということである。人種やジェンダーは、しばしば不変の本質、どのような場であれ変わり得ないと考えられることがままある。けれども実のところ、身体的特徴に特定の意味を与えるのは、それがどんな場なのかが大いに関係している。どんな場/時代/文化なのか、つまりはどんな「舞台」に存在しているのかということこそが、物事を意味付けるのだ。
サマーの肌の色がオリーブ色であったとしても、白人男性がそこにいるのだという前提=舞台設定がその肌の色を「白く」見せる。白さに価値があるとされる舞台で、有色人種ではないサマーの身体は「白さ」という価値が与えられるのだ。と同時に、小柄でいわゆる「男性的」な身体ではないサマーの姿は、白人男性を暗にそこに見るよう強いる舞台であるにもかかわらず白人男性ではない身体を、舞台設定によって強いられたものと見えているものとの差異を、私たちに発見させもする。性別二元論の前提のもと、特定の身体を「男性」とみなし価値づける舞台で、「男性」を見るよう要求されながら「男性」ではないかのようなサマーの姿は、舞台が依って立つ前提そのものに挑戦するのだ。第二幕でサマーは「女性」だと語るわけだが、少なくとも第一幕において私たちは、典型的「男性」ではないその姿を通じて非典型的な男性をなおも男性とまなざすことを試みていたはずである。
あるいは、いかにも典型的な「日本人女性」の、西洋人とは人種的に異なる身体を持っていると想定される人ならではの体験を語るフユコの話を聞くこと、耳に流れ込む情報から予想された「日本人」の典型とは異なるフユコの姿を見ることは、目と耳の間で「日本人」というステレオタイプを揺さぶられる体験にもなり得るかもしれない。その時、自らが今まさに「舞台」を設定していたことに気がつくかもしれない。ある人を自らの予想する姿に押し込める、そんな「舞台」に常に既に囚われていること、絶えずそれを作り出し続けていることに、気がつくかもしれないのだ。
演劇を作り出すこと、それもひとつの国の中で完結するのではなく試みること、交錯する人種と言語とジェンダーによって、目から耳から観客を揺さぶること——「Madama Butterfly」が試みたのはそれであった。西洋人によって描かれた『蝶々夫人』の内容に反抗するのみならず、非対称性を作り出す構造を明るみに出し、囚われてやまない自らも問い直すこと。
私たちのこの世界を作り出す「舞台」そのものへの反抗——本作は誰をも逃しはしない。これはあなたの、私の、私たちの革命なのだ。