「日本の演劇の歴史と称するものの大部分は、実は舞踊の歴史だといってもあながち語弊ではないとおもう。近代劇が日本の演劇の概念に入りこんでくるまでは、舞踊的要素は芸能の最高の極地と考えられていたのである」(郡司正勝『おどりの美学』)ということを、わたしたちはいつの間にか忘れてしまった。そうしたなか、ロームシアター京都で催された「シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 vol.1 『一居一道』」は、日本の舞踊にあらためて思いを馳せる機会を与えたのである。
このシリーズは古典芸能の普遍的なエッセンスを同時代の舞台芸術として上演するために構想されたという。第一回目の今回は、尾上流四代家元の尾上菊之丞をスーパーバイザーに、能・上方舞・歌舞伎舞踊と異なるジャンルの舞踊を連続上演し、さらに尾上と演者のトークを行なった。そこから伝わってきた古典舞踊の「普遍的エッセンス」について考えてみたい。
上演は、ロームシアター京都の舞台機構を活かした工夫に彩られていた。オムニバス形式の上演では、まず、劇場の闇の中に、金剛龍謹(金剛流二十七世若宗家)、井上安寿子(京舞井上流)、吾妻徳陽(吾妻流七代目家元)それぞれのインタビューと演目のイメージ映像が大きく映し出される。それが消えると、舞台上に一種の「島」のような空間があらわれ、そこで一人、また一人と舞踊を披露するのである。
舞台上のこの「島」は、能舞台より一回り大きい四間四方で、周囲を深さ六尺の堀に囲まれ、孤立していた。空間コンセプトも担った尾上菊之丞が上演後のトークで語ったところでは、これは「ブラックボックスのなかに所作だけが浮き立つ」舞台であり、「どこにも逃げ場がないなかに演者がどう向き合うか」が問われていた。井上安寿子は応えて、この舞台では「自分が浮いていて、自分しかいないかのようだった」と述べている。
所作と音曲を浮き上がらせる空間構成と照明は、劇場だからこそ実現したと言える。尾上が「場所ならではの演出を考えるのも演者の務め」と古典の懐の深さを感じさせ、「どんなところで演じるかは重要だが、過度な演出は危険でもある。本物がある上で、いろいろ変化していけばいい」と述べたように、この舞台で舞踊に触れた上で、ふたたび歌舞伎座、お座敷、能楽堂、あるいは野外へと、もう一度戻っていけるような、京都という都市とその歴史を再発見するための贅沢なまわり道のような一夜だった。
「国家統一のための民族征服の歴史がはじまったとき、舞踊はひとつの貢物として、被征服者側から征服者への奉仕と変っていった」(郡司正勝、同上)事実を踏まえても、今回の上演は古典舞踊を西洋式の劇場への「貢物」にするものではなかったはずだ。むしろ両者が、そこに集った演者たちが、「今ここ」だけの「時分の花」を咲かせていた。今後も多くの場所でとりどりの花の咲くことを願いつつ、その舞踊をふりかえろう。
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金剛龍謹『内外詣』は、金剛流のみで演じられるめずらしい一曲。京都から参詣してきた勅使のために、伊勢神宮の神主が祝詞を上げ、神楽・獅子舞を舞い、夜を徹して神事を行なう。山風に空が明けゆき、波の鼓が声を添え、東の空に五色の雲が輝いて、内宮と外宮は夜明けを迎え、栄行く春こそ久しけれ、と言祝がれる。
「舞金剛と言われる金剛流の舞いを堪能していただく演目」と演者自身が述べたように、静かでゆったりとした身振りから、後半の華やかな動きまで、舞いの豊かさが伝わってくる。それと同時に、わたしたちの日常にはなかなか存在しない、別の時間と別の空気が届くかのようだった。舞いが舞われているときだけでなく、演者の身体が止まっているときでさえ、きよらかな朝、祈りの時間、獅子舞というかたちで人間と動物のあいだの閾が揺れ、それどころか人間、動物、植物、鉱物、吹く風とたなびく雲がすべて混じり合うような空気が、舞台空間そのものから伝わってきたのである。能役者の身体は型を継承しているだけでなく、型を通じて古くから続く時間を守り、保存している。古い時間が差し出され、同じ空間に共有されることで、わたしたちは祈り、動物や自然や死者の声を聴き、生をきよらかにする可能性を自分自身の身体にも感じるのである。
こうした舞いを舞う若き演者自身が、後半のトークでは、すでに自分の子に稽古を始めることや、父と自身と子の三代での共演を考えていることが、また興味深かった。
井上安寿子『珠取海女』は、讃岐国(香川県)志度の浦の物語から生まれた能「海士」に由来する舞い。藤原鎌足の次男・藤原不比等は、妹が唐の皇帝の后になったことから宝珠を贈られたが、それを龍宮に奪われてしまう。珠を取り戻すために不比等は身分を隠して志度の浦に住み、そこで結ばれた海女と男子をもうける。珠を取り返したら子を世継ぎにすると約束されたため、海女は海に潜り、珠を見つけ、剣で乳房の下をかき切って体内に隠し、海中で死人のふりをする。死者を忌む龍宮のならいで悪竜は近寄らず、海女は浜辺に引き上げられるが、珠と引き換えに息絶え、世継ぎになる子の母はわたし、と言う声と面影が、波に揺られて消えていく。
情愛と恐怖が同居するこの物語のように、強さと柔らかさを兼ね備えた井上安寿子の舞いは、わたしたちをたびたび驚かす。舞いは大きくなり、静かになり、深くなり、ときに一種の幾何学性を帯びる。一つひとつの所作の美しさだけでなく、部分同士のつながり方に驚かされ、しかしその流れの必然性が身体的に理解される。身振りの連鎖の正確な意味は、今のわたしたちにはもうわからない。わからないが、丁寧に、しかし大胆に、見えないルールに従いつつ、しかしそれをみずから書きかえ続けていくような舞いは、もはや鑑賞の対象ではなく、ある種の生のレッスンのようにさえ見えてくる。舞いを見ながら、こんなふうに生きることもできるのだろうか、という憧れが浮かぶのだ。派手ではないが特別で、大胆だが規律と自由を両立させているような生き方への憧れ。それは物語や舞踊への感情移入ではなく、舞踊が実現する空間全体への憧れなのである。
吾妻徳陽『娘道成寺』は、言うまでもなく歌舞伎舞踊を代表する大曲。紀州(和歌山県)道成寺に伝わる安珍清姫伝説は、奥州白河(福島県)から熊野に参詣に来た美しい僧・安珍に惚れた娘・清姫が、嘘を重ねて逃げた安珍に激怒して蛇と化し、道成寺の鐘に逃げ込んだ安珍を鐘に巻き付いて焼き殺す、というものだ。
歌舞伎舞踊の『娘道成寺』はこの伝説の後日譚である。道成寺に新しい鐘が奉納されることになり、その供養が行なわれる。そこに花子という美しい白拍子(男装の遊女)がやってきて、舞いながら鐘に近づき、なかに飛び込むと、その上に蛇があらわれる。
『娘道成寺』はこの物語の中でさまざまな踊りを見せ、吾妻徳陽は美しさと不気味さを生々しく同居させながら、夢のような、奈落のような、あやしい時空間を差し出した。一人の人間のうらみを見るには、本当の意味でうらみの真実性を、その恐ろしさと美しさの同時的なありようを知るには、物語の理解ではなく、その静かなはじまりから船酔いに似た揺れに至るまで、これだけの身体的な時間が必要なのだと思わせたのである。
日本古来の舞踊の根底にあるものは「変化」であり、正の変化と負の変化が同時に成立することだった。「美しい、すばらしい、やさしい、などと女方役者の美貌を讃仰し、直接的に性的な、あるいは芸能に感ずる独得なカタルシスを覚える一面に、怖い、おそろしい、気味が悪いといった、負の感覚を消し去ることはできない。[…]正と負が重ね合わされることによって、そこにもはや正でも負でもない、もうひとつの世界が認識されるのである」(服部幸雄『変化論』)。世界のこうしたあり方は失われていない。わたしたちもそれを忘れていない。ただ普段は目をそむけているのである。
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たった一人の人間が大勢の前で舞う、踊る、そうした時間がわたしたちの社会から失われないのはなぜだろう。尾上菊之丞の言う「どこにも逃げ場がない中に演者がどう向き合うか」が、わたしたち観客にとっても大切な問題になるのはなぜだろう。それを愉しむことが娯楽になるから、というだけではないのではないか。ただ一人の人間が舞い、踊ることに、社会性が生まれ、公共性が生じる。それはなぜ、どんなときだろう? わたしたちの身体には限界がある。個々人が生まれながらに身体的な条件をかかえ、年齢とともに制限のありようは変化しつづける。古典舞踊は型の継承によってさらに不自由を背負うかのように見える。だが古典舞踊が目指しているのは、限界を生きることと自由を生きることが対立しない、もう一つの世界、もう一つの生ではないか。継承とは単にルールに服従することではなく、伝わってきた事実を受け入れ、信じ、生きなおしながら、限界を自由として生きることを目指す生の身振りのことではないか。
わたしたちは自分自身の限界に苦しみ、生の短さや、社会のままならなさに苦しむ。古典の型や言葉を引き継ぐとは、歴史上に存在した他者の限界や苦しみの結晶を引き受けることだろう。しかしそれは、それぞれの時代における自由の到達点を引き継ぐことでもあるはずだ。引き継いだ上で、今の時代に限界と自由がいかなる場所で両立するかを再検証することが求められる。それは舞踊家個々人の課題であると同時にわたしたちが日々の生活で向き合う問いでもある。どうすれば過去を引き受け、新しい自由を見つけられるのか、と。だからこそ舞踊は、単独的でありながら共同的で、公共的なのだ。
心のままに、からだのままに、ということが、本当の意味での自由ではないのだと、古典舞踊は教えてくれる。心のままに、からだのままに、自由に生きているつもりのわたしたちが、知らぬうちに囚われている枠がある。その枠を、限界を、一時でも自覚し、少しでも離れていくための生のレッスンを舞踊は与える。だからこそ舞踊を見るわたしたちの内には憧れと願いが生まれるのだ。それは、心をかたむけ、からだを動かすことが、この精神と身体の限界にとどまり、社会のルールや制度を上書きするのではなく、少しでもなにか別の動きを、関係を、リズムを、流れを、実例を具体的に生み出すことになりますように、という思いの身体的自覚である。そこが芸術の課題と生の課題が一致する場所であり、あそぶという古い言葉の、演技とゲームの発明の本当の意味だ。
ロームシアター京都のシリーズ「舞台芸術としての伝統芸能」は古典芸能の継承と創造を目的としているという。継承はわたしたち一人ひとりの問いでもある。過去に向き合うことが他者の自由を侵害する保守反動に陥るあやうさは醒めた感覚で回避しつつ、故人の声を聴き、まだ生まれていない者たちへ可能性を橋渡していくこと、「今ここ」を通過としてとらえることは、舞台芸術にとって、現代社会にとって、失ってはならない感覚であり、後ろを見つめる限界の中でこそ次/継ぎの自由は創造されていくだろう。
初出:機関誌ASSEMBLY第2号(2018年12月21日発行)
公演データ
シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 vol.1「 一居一道」
2018年2月20日(火)|ロームシアター京都 サウスホール
[第一部]
『内外詣』金剛龍謹(金剛流二十七世若宗家)
『珠取海女』井上 安寿子(京舞井上流)
『娘道成寺』吾妻徳陽(吾妻流七代目家元、歌舞伎俳優 中村壱太郎)
[第二部]
「出演者・スーパーバイザーによるディスカッション」
金剛龍謹、井上安寿子、吾妻徳陽
スーパーバイザー:尾上菊之丞(尾上流四代家元)
日本の全国各地に存在する伝統芸能を同時代の舞台芸術としてとらえ、その普遍的なエッセンスが浮かび上がるような仕掛けで上演するシリーズ企画として、2017 年度からスタート。18年2月20日に開催されたvol.1ではスーパーバイザーに尾上流四代家元の尾上菊之丞を迎え、金剛流二十七世若宗家の金剛龍謹『内外詣』、京舞井上流の井上安寿子『珠取海女』、吾妻流七代目家元で歌舞伎俳優・中村壱太郎でもある吾妻徳陽『娘道成寺』を上演。