ロームシアター京都と京都芸術センターは、若手アーティストの発掘と育成を目的に、 “KIPPU”という創作支援プログラムを協働で行っている。2023年度、選ばれた劇団のひとつ、劇団不労社が昨年末に『MUMBLE―モグモグ・モゴモゴ−』を上演した(作・演出:⻄⽥悠哉、会場・ノースホール)。
不労社は2015年に代表の⻄⽥悠哉が⼤阪⼤学を⺟体に旗揚げ、以後関⻄を中⼼に活動している。これまでいくつかの演劇賞を受賞しており、8年余りの活動の間、着実に力をつけてきた若手劇団の一つだ。劇団HPによれば、「虚構/現実、聖/俗、恐怖/笑い、センス/ナンセンス、冷静/情熱の間を漂流し、ニッチな市場開拓を試みる零細劇団」とのことで、近年は〈集団暴力シリーズ〉と銘打ち、「村八分」「集団農場」「ブラック企業」といったムラ社会的な閉鎖コミュニティにおける争いを描いてきたという。また、本公演とは異なる実験的枠組として、「FLOW series」と銘打ち、京都のアートコミュニティスペースKAIKAなどで小作品を発表している。筆者もseries vol.1『悪態』(2022年10月、KAIKA)を見たが、全員90年代生まれの劇団にしては泥臭さく、作品としてうまくまとめる気のなさに青臭さと、観客の胸に思いっきりダイブするかのような体当たり演技に度胸を感じた。ナンセンス作品と言うこともできるかもしれないが、どうもそれでは収まらない生臭さが其処かしこに滲み出ていた。劇団の活動歴を辿ってみると、多くは西田が作・演出を手がけているが、書き下ろし以外に、つかこうへいや別役実の作品も上演している。つか作品にみる、ヒリヒリとした痛みを伴う笑いと、別役が描く小市民的な日常生活を粛々と送る中に懐胎する不条理の芽。西田の劇作には、両作家が残した全く形の異なる塑像をなぞるかのような手つきがあるのではないだろうか。
『MUMBLE―モグモグ・モゴモゴ−』は、そんな西田率いる不労社の軌跡が結実した作品と言えるだろう。本作は架空の村「父無里(ふなさと)」にある寂れた民宿シャングリ=ラを舞台に、そこに集った人びとの数日間を描いた物語で、まるでリズムゲームのようなグルーブ感を味わえる舞台だ。作中、登場人物たちが「みのりかリズム4」というリズムゲームに興じる場面が出てくる。これは決められた言葉をリズムよく言うゲームで、参加者全員で手を使って4拍子のリズムをとりながら進める。ゲームのスタートとなる掛け声は、「《ゲームの親の呼び名》、から、はじ、まる、リズ、ムに、合わ、せて」で、これを全員で言い、親は次の4拍を使って他のプレーヤーを指名する。指名の方法は、リズムの3拍目に他のプレーヤーの呼び名、4拍目に1から4の数字を指定する。名前を呼ばれた者は、次の4拍のリズムに合わせて、親が4拍目に指定した回数分だけ自分の呼び名を繰り返す。間違えたら負けとなる。こう文字に起こすと複雑に感じるが、やり方はいたってシンプルで、道具も何もいらないため、幼少期や学生時代に友だちと暇つぶしに一度はやったことがある者は多いのではないだろうか。全員の呼吸があって心地よくゲームが進行することによる一体感に高揚しつつ、規則的に反復されるリズムの中で変化していく数字に神経を集中させることで感じるスリリングさ。ゲームが盛り上がるほど、その様子は部外者からは異様な光景に見えるだろう。おそらく「慣れ」が上達のポイントだろうが、慣れきってしまえばつまらなくもなるゲームでもある。流れに乗れず、調和を乱せば負けというルールも、よく考えてみれば、あからさまに不器用な者を排除しているようで残酷だ。
そんなリズムゲームは、本作で描かれるある家族と彼らが暮らす閉鎖的な村落共同体を象徴している。そこに血の通った確かな生活があることの実感を感じさせつつも、部外者には知りえない部分も仄めかす。登場人物たちが水面下で何を共有しているのか、外側にいる者にはわからないまま、物語はスリリングさを伴いながら、何かにせき立てられるかのように疾走していく。
舞台中央には物語の舞台となる、民宿シャングリ=ラの居間が鎮座しており、右手は台所。中央舞台の左右には民宿の二階の一部があり、右手はベランダ、左手はケントが昔使っていた部屋になっている。家屋は細部までよく作り込まれており、その存在感には今でも山奥に行けばこういった民宿に出会えそうな気がしてくるような説得力がある(舞台美術・竹腰かなこ)。人肌を感じさせる生活感が全体に漂っていながら、その全体像はつかめないというのが特徴で、家族たちは時折、2階の小部屋や居間を出て家屋の奥へと引っ込むが、それぞれの部屋が家の中でどうつながっているかは不明だ。観客たちはこの家の面の顔は知れるが、その奥までは知りえないのである。
民宿シャングリ=ラはおよそ30年前に、猿渡(さど)家の婿養子となったゲンが妻・サチ(黒木陽子)の生家を改修する形で始めたものだった。その後、サチの弟・ジョージ(三澤健太郎)とその妻・サクラ(のたにかな子)が移り住み、体調を崩したゲンに代わってジョージが猟師をつとめ、猟で仕留めた鳥獣をサクラが調理し、民宿を経営してきたが、観光客の減少により経営は苦しくなっていた。そして今、かねてから体調を崩していたゲンが亡くなり、葬儀を翌日に控えた夜。猿渡家で飼われている、人の言葉を話す犬チャーリー(永淵大河)がベランダから拡声器を使って、「人間はもうおしまいです」と観客に語りかける。一体、彼は動物なのか人なのか?このメッセージが意味することとは?すると遠くで銃声が鳴り、不穏な雰囲気の中、物語がはじまる。
警察官の鷹野コタロウ(小山栄華)に伴われて、足を負傷したジョージが帰ってくる。狩猟中に負傷したというが、詳細を語ろうとはしない。葬儀のため、サチの次男ケント(荷車ケンシロウ)とその婚約者、竜巳ミチ(むらたちあき)が、さらに、一夜の宿を求めて、寅丸(横山清正)がやってくる。彼は害獣ハンターを名乗り、各地を旅して回っては、配信しているyoutuberだ。寅丸は村に住むという人喰い巨大猿「ぬる」の噂を聞いてやってきたのだが、ぬるの噂に世間が沸いたのはかなり昔のことで、今やそのブームも去ってしまっている。サチたちと暮らすケントの兄カイト(森岡拓磨)、人犬チャーリーも集まって、皆で夕食を囲む。献立はジョージが仕留めた鹿の肉を使ってサクラが作ったカレーだが、ミチが鹿の肉ではないと言い始め、気まずい雰囲気の中、全員で結局なんの肉かわからないカレーを黙々と食べる。
翌日、サクラの姪のキナコ(中尾多福)がやってきて、一同、記念写真を撮り、寅丸だけ残し、葬儀会場へと向かう。夕方、猟友会の子易マンフク(西田悠哉)がやってくる。マンフクは猟友会をしきり、チャーリーやカイトに対して権威的な態度をとって、ジョージのこともゆすっているようだ。マンフクと入れ違いに、葬儀から参列者が続々と帰ってくると、全員揃ったところでサチがゲンの遺言を発表する。その内容は、一切の財産を次男のケントに一任するというものだった。加えて、サチが突然、ケントの兄カイトはゲンの連れ子で、ケントとは腹違いの兄弟だと告白する。ショックを受けたカイトは家を飛び出す。夜更け。ミチ、サクラ、キナコがくつろいでいると、全身雪まみれのチャーリーをケントが担いでやってくる。そこにコタロウが何かを引きずってやってくる。それはマンフクの下半身で除雪機にはさまっていたというのだ。
ここまでが第二幕だ。突然明かされるカイトの出生の秘密や、マンフクの怪死によって劇は緊迫感に包まれる。だが、謎は解き明かされることなく、謎のまま積み重なっていくために、観客は不穏感を抱きつつも物語世界に引きずりこまれていく。本作が父無里村と猿渡家の人々の確かな生活を実感させながらも、部外者には知りえない部分も感じさせるのはこういったところにある。ジョージと猟友会との間には軋轢があるようだし、その妻サクラと警官コタロウは男女の関係にあるようだ。マンフクとケント、コタロウの間にも何かありそうだが、こうした登場人物がどういった関係性のもとつながっているのかといった根っこの部分は語られることはなく、トラブルが生じていても解決に向かってお互いに気持ちをぶつけ合うこともない。
例えば、第一幕で、ケントの婚約者ミチをめぐってコタロウとケントの間でちょっとした諍いが起きる。ミチは言葉と概念が剥離してしまう病を脳に抱えているらしい。むらたちあき演じるミチは、まるで世界を疑ったことのないかのような童女のような天真爛漫さと、鳥や猿と会話まではじめてしまう底知れぬパワーで周囲を振り回す。そんな彼女の言動に腹を立てたコタロウがケントに詰め寄り、言い合いになる。そこにはかねてから二人が互いに抱いていたわだかまりも含まれているようなのだが、言い合いの中でそれが掘り下げられることはなく、人犬チャーリーの提案で唐突にカラオケがはじまり、電気グルーヴの「Shangri-La」が爆音で流れる中、舞台は暗転を迎える。このように音楽によって強引に問題は煙に巻かれてしまうのだ。
むしろ、父無里村の人びとは互いのわだかまりをあえて言語化しなくても共有できてしまう関係にあるというふうにも捉えられる。ケントとカイトという兄弟についてもそうだ。村を出て社会人として堅実に生きているケントに対し、カイトは実家を離れたことはなく、普段なにをしているのかは不明だ。葬儀の日、喪服を持っていないカイトは仕方なく埃っぽい学生服を着て現れるのだが、カイトを演じる森岡拓磨のその姿は悲哀に満ちていて、あまりに物悲し過ぎて滑稽にすら見える。だが、劇中の人びとはそんな彼を受け入れていて、悲哀の源泉が問われることはない。このように村人たちが抱える共有部分は観客も含め、村外の者にはわからないものであるが、ちょっとした諍いからマンフクの怪死に至るまで、大小さまざまな形で、不可視の共有部分の一角が水面上にふっと顔をのぞかせるがために、村人の間にある何らかがどうしても気になってしまう。
ここで思い出したのが、別役実が著書『ベケットといじめ』の中で語っている前近代的な対人関係についてである。別役はこの対人関係において、人々は過去にあった出来事を共有した上で、あえてそれを言葉にせずとも互いを理解しあっているとし、一方で近代以降はそうした共有部分が切り捨てられているために、ちょっとした諍いが生じた際には、なぜそうなったのか言葉にして確かめあわなければならないとしている。しかしながら、近代的な対人関係においても、水面下には不可視の共有部分は依然として潜在しているために、言葉で言い合ってみても、不可視の部分に目をやらなければ問題は解決しない。別役はここにいじめの問題があるとし、次のように述べている。
たとえばいじめの問題などでもほぼそうです。現象的にはきわめて単純なことです。だれかが答案を見せてくれなかったとか、好き嫌いの基準にしてもきわめて微細なところが問題になっている。きわめて微細なところが問題になっているから、その水面上だけで、つまり近代的個人と錯覚されている部分だけで「何だささいなことじゃないか」ということになってしまう。しかし実際にはそのささいなものを手がかりにして、目に見えない部分を言い当てようとしているわけですね。(別役実『ベケットといじめ』白水社、2005年)
別役が言う、ささいなものを手がかりにして、目に見えない部分を言い当てようとする立場にあるのは、この劇を見守る観客であろう。父無里村にはいまだ前近代的な対人関係が残っていて、あえて言葉にしなくても、了解し合えるのだ。ゆえにマンフクの怪死という衝撃的な出来事を前にしても、誰が犯人で、なぜこうなってしまったのかについてはあまり話題になることはない。そんな村人たちの対峙の仕方は側から見ると、どこか鈍感に感じられ、その様子は部外者から見れば閉鎖的で、村人たちは不可視の共有部分に縛られているようにも見える。
別役は、前近代的な対人関係において、共有部分から逃れるために、極端に残酷なことが行われたとも述べている。空間的に対象化できる他を排除するだけではなくて、それを共有している自分自身の内も排除しなければならなくなるためだ。本作におけるマンフク殺しとは、閉じた関係性を壊すべく起こった、別役が言う極端に残酷な行為だったのかもしれない。続く第三幕でも、人びとはカニバリズムという、またしても極端に残酷なことを犯し、共同体の禁忌を犯してしまう。事件後、父無里村は半世紀ぶりの記録的な大雪に見舞われ、救援物資も供給もままならない陸の孤島と化してしまう。キナコだけはそうなるまえに村を出ていたが、それ以外の者は民宿に閉じ込められてしまい、さらには猿の大群に襲撃され、なけなしの食料も食べられてしまう。飢えにより極限状態に陥った人びとはマンフクの死骸を食べることを思いつく。それからしばらくして、一同はカレーをよそった食卓を囲んでいる。はたしてそれは人肉カレーなのか……。
狂気の晩餐があった夜が明け、晴天となった父無里村。雪はあっという間に溶け、人びとはそれぞれの道を歩む。コタロウとサクラは村から姿を消し、ジョージも寅丸について旅に出る。チャーリーはマンフク殺しの罪と責任を引き受け、猟友会へ謝罪にいったが、結局誰がマンフクを殺したのかは判然とせず、チャーリーは行方不明になる。まるで殺人とカニバリズムという究極のタブーが犯されたことで、村に縛られていた者たちが共同体から解き放たれたかのようにして物語は終わりを迎えようとする。しかし、民宿シャングリ=ラには、後日、ケントと彼の子を産んだミチがなにごともなかったかのように住むことになり、猿渡家は解体したわけではなく、形を変えて維持される。しかも、幕切れに、マンフクの死後、すぐに村をあとにしていたキナコが出てきて、こう告白するのだ。
……運が良いのか悪いのか、なにかの縁で出会って、これまた何かの縁で別れてしまったウチは、なぜかこの一家のことが忘れられんくなった。気になって聞いてみても、あの期間のことは、みーんなモゴモゴしゃべるだけ。誰も何があったかはっきり教えてくれへん。だから、これは、うちがうちなりに、うちの人らに取材して、多分こうやったんやろなーっていう、いやでもこれしか考えられへんっていう、脚色まみれの記憶のつぎはぎ。
キナコは葬儀当日やってきて翌日には村をあとにする、物語には深くコミットしない人物だが、劇の前半から時折登場しては、他の人物について解説を加えたり、劇の進行を司るMC的な役割を担っている。雪に閉ざされた数日間に起こった出来事は、そんな彼女が想像したフィクションだったということで、結局、父無里村の猿渡家でなにが起こったのかは藪の中。真相は明らかにならないまま、幕となる。
どんでん返しともとれる幕引きは、殺人にカニバリズムといった悪趣味劇場ともとれる本作の印象をガラッと変える。つまり、閉鎖的な村落共同体で起こった残酷な事件を描くことが不労社の意図するところではなかったのではないか、ということだ。もちろん、前近代的な共同体が放つ土着的な匂いも本作の生々しさの根拠であり、そこに衝撃を感じた観客は少なからずいただろう。ではなぜ、この物語が虚構であることをあえて言う必要があったのか?それを解く鍵は、種明かしをするキナコが物語の外側に立ち、観客と同じ目線で物語を俯瞰する人物だという点にある。
マンフクの怪死、記録的な大雪、雪解けと同時に消えた人びと。こういった点と点をつなぐ線を引こうと、キナコは狂気の晩餐を思いつく。彼女の想像力は極端な妄想なのだろうか。とある事件が起き、それが事件の関係者と共に報じられると、わたしたちは反射的に関係者の関係性と事件との因果関係を結びつける、つまりは点と点をつなぐ線を探ろうとする。有名人のスキャンダルや不可解な事件が起こると、週刊誌のみならず、個人までもがSNS上で点と点を結ぶ線を盛んに語りはじめる。その線はスキャンダラスなものであればあるほど世間を沸かすものだ。そう考えてみれば、本作の幕切れは、大衆心理を見透かしているとも言える。それが本作を旧態然とした村の特殊な一家で起きたありえない出来事を描く物語にとどめず、不条理、だが、多くの観客に肉薄するだけのリアリティある物語に仕立ててみせたのではないだろうか。
公演後、劇団員であり、本作では猿渡ケントを演じた、荷車ケンシロウが第26回関西現代演劇俳優賞奨励賞を受賞。さらに、作品は第2回関西えんげき大賞優秀作品賞および、観客投票ベストワン賞を受賞する運びとなった。本作の反響が大きかったことの証左であろう。不労社の魅力は、西田の戯曲が堅牢な足場となって、それを土俵に個性あふれる役者たちががっぷり四つに組むことで生まれる、噛みごたえ十分な不条理世界にある。今回、そんな不労社をバックアップし、作品をより多くの観客に届けたのは、冒頭触れたKIPPUという創作支援プログラムによるところが大きいのではないだろうか。今後もKIPPUが多彩な才能を育て、優れた作品を世に送り出すことを期待したい。