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シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能vol.2「鷹姫」レポート

能楽『鷹姫』第二部ディスカッション

文:中谷森
2021.6.15 UP

西野春雄(能楽研究者/法政大学名誉教授) ・ 観世銕之丞・片山九郎右衛門

伝統芸能の継承と創造を目指す取り組みとして、平成29年度に始まった「舞台芸術としての伝統芸能」シリーズ。能を取り上げた2年目は、『鷹姫』が演目として選ばれた。第一部の上演に続いておこなわれた第二部では、〈老人〉役を演じた観世銕之丞氏、〈鷹姫〉役の片山九郎右衛門氏、そして法政大学名誉教授で能楽研究者の西野春雄氏を迎え、3者によるディスカッションが開催された。「学生の時に観た初演の時と、今回のロームシアター京都での上演の間に、『鷹姫』はかなりの自己運動をしてきているように思われます」。こう口火を切った西野氏の言葉通り、ディスカッションを通して紐解かれたのは、その創造と継承を通じて革新を続ける『鷹姫』の「自己運動」の物語であった。

撮影:井上嘉和

話はまず、前世紀のはじめ、能を通じた東西の文化交流へと遡った。初代梅若実に師事して能を習ったとされるフェノロサが亡くなった後、翻訳を含む能についての彼の遺稿は、アメリカ出身の詩人でありイェーツの秘書であったエズラ・パウンドの手に渡る。パウンドによる紹介を通じてイェーツは日本の能に出会い、そこに自らが理想とする演劇の姿を見たという。西野氏は、イェーツと能の出会いを解説するにあたって、邦訳を手がけた高橋康也の言葉を引用する。「日常的写実性からの完全な脱却、装置・演技・プロットにおける徹底した単純化と様式化、それによる深い象徴性、特に仮面と音楽と舞踊による祭儀性、選ばれた少数観客への信頼など、彼は自分が夢に見ていたすべてがここにあるのを見たのだ」(『世界現代演劇 第二巻』白水社,1971)。こうして能に触発されたイェーツが最初に創作したのが、舞踊詩劇『鷹の井戸』(1916)であった。 
 戦後、『鷹の井戸』を能の形式へといわば逆輸入した『鷹の泉』(1949)が横道萬里雄によって書かれ、喜多実が上演した。その後、能の類型に捉われない新作能を作りたいという観世寿夫の希望に応えて、新しく書き換えられ、改作『鷹姫』(1967)が生まれた。幼かった当時の記憶を辿りながら、銕之丞氏はこう回想する。「親父たち(銕之丞氏の父は八世観世銕之亟、叔父は観世寿夫)が、まだ30代40代の頃ですので、素晴らしい歴々の方たちがまだ青春という尾っぽを引きずっているくらいの頃で。公演が近づくと毎日お酒を飲みながら、ああでもない、こうでもないとやっていたんだと思います。家へ帰ってくると親父がものすごくハイテンションで、ちょっと怖いなと思ったのが、最初の『鷹姫』のことでした」。
 西野氏によれば、戦前、『鷹の井戸』を能へ翻案してはどうか、と横道に示唆したのは、能楽研究の先輩、小林静雄であった。しかし小林は、惜しくもフィリピンで戦死。不老不死の水をめぐる『鷹姫』の世界を貫くのは〈水〉と〈命〉のテーマであり、本作を締めくくるキリの文句は「静かなり榛の小林」である。横道は生前、この言葉のなかに小林への鎮魂の祈りを込めたと西野氏に語ったという。

撮影:井上嘉和

こうして生まれた『鷹姫』は、能の新しいあり方を模索するものであり、さまざまな改良と演出ごとの工夫を重ねて受け継がれてきた、と西野氏は続ける。そこで繰り返し言及されたのが、ギリシャ悲劇のコロスをイメージして生み出された半仮面の〈岩〉の役の特異性である。当初、地謡と〈岩〉はそれぞれ登場していたが、再演から〈岩〉が地謡をも兼ねるようになったという。また、今回の上演では〈岩〉役の11人全員をシテ方が務めたが、オーディションがおこなわれた『鷹姫』初演時は、シテ方に限らずワキ方と狂言方も加わって、〈岩〉が編成されていた。
 「叔父(観世寿夫)が作曲しているんですが、横道先生と相談された時に、どのシテ方のどの流儀であっても謡える形というものをつくってきたわけです」と、銕之丞氏は説明する。九郎右衛門氏は、自らが〈岩〉を演じたときの苦心に触れ、言葉そのものの力に満ちた〈岩〉の台詞は、演者を試すひとつの試験のようだと語った。また西野氏は、その作曲上の工夫に触れる。輪唱や地取り(次第に続いて地謡が同じ文句を繰り返すこと)に加えて、狂言の小唄を取り入れるなど、伝統的な能の枠組みを超えて作曲された『鷹姫』。シテ方・ワキ方・狂言方という枠にとらわれず本作が演じられてきた足取りにも、その趣向の成果は表れているといえよう。

撮影:井上嘉和

今回、一昨年の上演(於:京都観世会館)に続いて、『鷹姫』制作の指揮を執った九郎右衛門氏は、能楽堂と劇場での演出の違いを問われると、こう答えた。「今日やらせていただいてつくづく、能の人間というのは、能の舞台の形に随分守られているんだな、というのが正直な思いです」。能楽堂で演じるときには、〈空賦麟〉と〈老人〉、〈岩〉の三者を繋ぐ永遠のループという輪廻観が自然と生じるのに対し、劇場の舞台では、美術や照明など、さまざまな面を手探りで作り込んでいかなくてはならなかったという。劇場ならではの奥行きと高低差を生かした今回の空間設計の背後には、「距離の取り方」に心を砕いたという九郎右衛門氏の苦心が垣間見えた。
 このような声を受けて西野氏は、「引き算の芸術」である能では、年月をかけて淘汰されてきたものの中に完成された姿が現れてくると述べる。「やはり、今の『井筒』にしろ『葵上』にしろ、何百年と演じられてきて今日あるわけです。それに比べたら『鷹姫』は、まだほんのちょっとのところです」。そして最後に九郎右衛門氏が述べたのは、空間設計を手がけたドットアーキテクツをはじめとする舞台設計スタッフへの感謝の言葉だった。何度も図面を引き直してもらったというエピソードこそ、今回のロームシアター京都での『鷹姫』上演の試みそれ自体が、ひとつの「自己運動」として、その歴史に残した足跡を記すものに他ならないだろう。

 

初出:機関誌ASSEMBLY第4号(2019年10月27日発行)

  • 中谷 森 Mori Nakatani

    京都大学こころの未来研究センター・特定研究員。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。専門は、シェイクスピア演劇と比較演劇研究。論文に、「福田恆存訳『ハムレット』にみる翻訳を通じた文体創造 」、「The Shifting Appreciation of Hamlet in Its Japanese Novelizations: Hideo Kobayashi’s Ophelia’s Will and Its Revisions」など。

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