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伝統芸能入門講座 トーク 特別編 “『桜姫東文章』”に挑む レポート[後編]

『桜姫』の読み解けない面白さ|対談:木ノ下裕一×岡田利規 

文:和田真生
編集:松本花音(ロームシアター京都)
2021.11.1 UP

木ノ下歌舞伎が『桜姫東文章』を題材にした新作を、2022年度に上演する予定だという。そのキックオフイベントとして補綴・監修の木ノ下裕一氏と演出の岡田利規氏の対談が2021年7月29日、ロームシアター京都で開催された
トークは、木ノ下氏によるレクチャーで始まり、木ノ下・岡田両氏の対談へと展開。レポート[後編]では、対談の様子をお届けする。
レポート[前編]はこちら

■アンモラルの物語

木ノ下 『桜姫東文章』の台本をお読みになって、どういう印象でしたか?

岡田 よくわからないな、と思いました。つまり、こういうテーマの物語だと迂闊に言えない。桜姫を作る場合、よくわからないことを素直に認めることから始めるしかないだろうというのが一つですね。もう一つはモラルをめぐる物語であって、それが面白いと思ったんですよ。
登場人物の中のモラルと見てる側のモラルが照らし合わされたとき、登場人物が自分はモラルのある人間であると考えていても、時代が変わって観客のモラル意識が変わると、作品と観客の関係が成立しなくなるわけです。今古典作品を上演するにあたって、すごくそういうことが起こってますよね。けれど作品に(現代の)モラルを気にしない登場人物が出てきたとき、むしろ新しい関係を結べる可能性、手がかりがあるんじゃないかと思うんです。
例えば『寺子屋』[*1] が僕には難しいわけです。自分の子供を斬るというのは登場人物のモラルの末の行動ですが、それは僕にはよくわからなくて、わからない以上の関係を発展させられない。でも『桜姫』はそうじゃない。何か拓けるというか関係が結べるチャンスを感じる。

木ノ下 これはすごく重要なご指摘です、「さすが岡田さん!」と声を上げたいくらい(笑)。『寺子屋』を例に考えてみると、現代演劇として上演する方法はいくつかに限られるのではないかと感じます。ひとつは、松王丸がなぜ子供を殺そうとしたかを丹念にひもといていく方法。旧時代の倫理観を尊重しながらも、ある瞬間は現代的な解釈を加えて、松王丸に一貫した心理的な根拠を作ってあげるという方法です。今となってはわからなくなってしまった倫理観を補填することで、現代人にもわかるドラマにするということですね。もう一つは、思い切って登場人物を突き放すことで、残酷なことをやっているのだと見せる方法。忠義/反忠義の軋轢とか、忠義ゆえに残酷な行動に出てしまうこととか、旧時代的のものは、旧時代のものとして、ちゃんと描く。その上で、「現代人にはなんのことかわからないかもしれませんが、これが古典のロジックなんです」と言い切る方法。
でも『桜姫』にはどちらの方法も通用しないところが、すごく難しい。まず、桜姫自身に一貫した心理的な根拠があるとは思えず、「なんでそうした??」の連続ですから、現代的な新解釈を持って合理的に説明するのはほぼ不可能です。物語全体が旧時代のモラルに貫かれていれば第二の方法も有効なのですが、岡田さんがおっしゃったように、『桜姫』はアンモラルの物語。
『寺子屋』の場合は、モラルが頂点にあることによって残酷な事件が起こっていく、つまりモラルが引き起こすアンモラルという劇構造ですが、『桜姫』の場合は、桜姫や権助、清玄などの立場が上の人物のほうがアンモラルで、彼らの下にいる忠義の家来たち、つまりモラルを持った人々が振り回され右往左往するという構造になっていて、モラル/アンモラルの力関係が逆転しているんです。その辺がよくわかるのが、三幕目の「押上植木屋の場」「郡司兵衛内の場」です。[*2]

木ノ下 実はこれが『寺子屋』のパロディーなんです。桜姫は奔放な恋愛をしている、清玄は失墜し、権助は行方不明。主役級の人物たちはそれぞれアンモラルに生きている。その下で、忠義に厚い家来たちが犠牲になっているっていう話です。桜姫の身代わりで小雛という娘が殺されたりします。

岡田 なるほど。ではなぜここは一度も上演されていないのでしょうか。

木ノ下 一つは、身替りの話ですから、清玄、桜姫、権助の三角関係の本筋と直接は関係がないということですね。あとは上演時間の制約があります。国立劇場(昭和42年)のときは、郡司正勝先生が「泣く泣くカットした」とおっしゃっていますね。
ただこの場面はかなり重要だと思っていて。あるのとないのとでは物語全体の見え方がずいぶん変わるんですよね。具体的な例を挙げると、四幕目に「三囲堤の場」という、雨の中で清玄と桜姫がすれ違う短い場面があります。原作では「郡司兵衛内の場」の次の場面にあたりますが、雨のしとしと降る夜の隅田川を舞台にしていて、実に叙情的なシーンです。ここで清玄が焚き火をするんですが、湿気ているので火がつかない。ふと見ると都合よく傘が落ちているので、それで雨をしのいで焚き火をする。その傘にはなぜか和歌が書いてあり、その歌を遠くから見た桜姫は「いい歌ね、まるで私の境遇のようだわ」みたいなことをいうのですが、実はそれは小雛が詠んだ歌なんです。

岡田 カットしたら、全然わかんないよね。

木ノ下 そうなんです。桜姫が能天気にいい歌だと言っているその歌は、あなたがために犠牲になった女が書いた筆跡ですよという南北の皮肉なんですが、これは前幕の三幕目がないとわからない。絵面としては非常に美しいのですが、その背後には何ともあと味の悪い前幕が張り付いているという面白さが実はあるんですね。岡田さんバージョンの『桜姫』の上演は再来年ですからずいぶん時間がありますし、これからたっぷり検討して、この三幕目はできたら上演したいと密かに思っています。この場面はお読みになってどうでしたか?

岡田 小雛の置かれた境遇が酷いということは扱いたい。カットするのはもっと酷いんじゃないかと思います。

木ノ下 別の見方をすれば、小雛は桜姫のパロディでもあるわけです。桜姫は手が開かないという理由で、そして小雛は吃音があって、いずれも結婚できなかった女性です。あきらかに対になっている。文化14年の初演では、清玄と権助を七代目団十郎が演っていて、小雛の許婚者も同じ団十郎なんですよ。おそらく配役の時点で何かしらのリンクを考えていたんじゃないかと思います。初演以来まったく上演されてませんから、復活できたらまた新しい『桜姫』になるんじゃないかなという現段階での目算です。

■桜姫が“わからない”

木ノ下 岡田さんは、どの場面が面白いと思われましたか。

岡田 「稲瀬川の場」は好きですね。立派なお坊さんだった清玄が転落して、桜姫と二人で河原に行きますよね、突き落とされるというか。歌舞伎って、最初にわやわやっといっぱい人が出てきてちょっとずつ状況説明みたいなことを喋って、それからメインキャラクターたちに絞られていくパターンがありますね。この「稲瀬川の場」でそれを担う非人たちは自然で、とても面白い。4月に歌舞伎座に行ったらこのシーンがなかったので、とても遺憾でした。

木ノ下 南北はほかの芝居でも非人をアンモラルの象徴としてよく出しています。主人公たちが敵討ちがどうこうとか言っているのを、一番気楽なのは僕らだねと社会の外側から見ているような、批評的な眼差しを持った存在として非人を機能させている。
今、歌舞伎でこのシーンやらないんですよね、郡司さんの補綴の段階でカットしてますから。僕たちが出せば久しぶりかもしれない。

岡田 あそこの場面で状況が描写されることが重要だと思います。最初に『桜姫東文章』を読んだときの印象が、水のイメージと、上下の感覚だったんですよ。上下というのは物理的な高低、たとえば低いところに水が流れているっていうこともあるし、偉いお坊さんが転落するような身分とか境遇という意味でもそうです。物語の最初も、海に落ちて心中しようとしたのに清玄はびびって死ななかったところから始まる。

木ノ下 要所要所に水が出てくるんですよね。発端の江ノ島、二幕目の稲瀬川、四幕目の三囲堤と、うまく芝居を挟むように水辺が登場して、水が重要なモチーフになっています。
上下というのも本当にその通りで、一番低い身分にいるはずの非人たちが非常に自由にしているとか、一番高い身分にある清玄が墜ちるとか。逆転が起こるのも劇としてのダイナミックさを生んでいるところですよね。
桜姫という人物についてはどう思われました?

岡田 さっき、よくわからないと言いましたが、一番わからないのが桜姫なんです。ほかの人は、いい奴も悪い奴も惨めな奴も、わかるんですよね。桜姫は動機に一貫性がない。そういう基準で桜姫というキャラクターやこのテキストに当たろうとすること自体が、つまらないのかなと思っています。
例えば木ノ下くんの話してくれたように、強姦した男なのに惚れているところから始まるから、まずわからないなと思うわけですよね。けれど最後に、権助が自分の御家に危害を加えた人間だとわかると気持ちが翻って、権助を殺して終わる。

木ノ下 権助との間の子供まで殺しますからね。わからないから面白いということですよね。玉三郎さんは、それは桜姫の純粋さだと捉えて演技を作られているそうです。権助が好きとか、その場その場の純粋な感情で。

岡田 それはすごくわかります。その場その場では本当なんだっていう、とてもシンプルな考え方をしている。問題は周りの人間がそれで納得するかなんですけど(笑)。

■2021年の『桜姫』受容

木ノ下 4、6月に歌舞伎座で、仁左衛門さんと玉三郎さんのコンビによる『桜姫東文章』が久しぶりに上演されて、歌舞伎ファンの中で大変盛り上がりました。いろんな感想をSNS含めてチェックしていると、36年前の上演時には見られなかった感想もあります。一つは、オタクが萌えた。桜姫のツンデレ具合とか、権助が桜姫の頭をポンポンと撫でるところとか、清玄と白菊丸(桜姫の前世)の男同士の恋はBLだとか、そういうところにキュンキュンするんだそうです。なるほどなぁ、そういう歌舞伎の楽しみ方があっていいなと思ったし爽快でした。二つめは、フェミニズムの観点で読み解くひとが増えたということです。桜姫という女性は何者にも縛られないわけですよね。最終的にお家騒動の枠組みに回収されるので、あれだけ自由奔放にやっておいて最後そこに落ちるのかというところはあるんですが、いろんなことに縛られない女性として描かれ、自分が思うままに行動する桜姫は、初演当時から斬新だったと思います。歌舞伎の劇作の通念でいえば、前世からの恋人は生まれ変わってもまた恋人なんです。前世の因果というのが非常に強い力を持っていますから。桜姫が清玄のことを好きにならないなんてありえないんですが、それを鶴屋南北はいとも簡単に裏切ってしまう。
今回、桜姫という人物が岡田さんの演出でどういうふうに描かれていくかは、一つの大きな見どころになると思います。

岡田 これはすごく大きいチャレンジです。フェミニズムの観点からというのもすごく面白いと思ったんですが、それで一貫させることはできないんですよ。……だんだんちゃんと説明できるようになってきました、よくわからない理由が。

木ノ下 一個の法則とか方法論で全部は読み解けないんですよね。

岡田 ことごとく途中で失敗する(笑)。

木ノ下 それも含めて『桜姫東文章』は非常に手強いということですね。

■補綴の愉しみ

木ノ下 僕たちが『桜姫』をやろうと言い始めたのは去年(2020年)ですね。

岡田 そう、だから歌舞伎座でやるから選んだわけじゃないんですよ!これだけは言っておきましょう。

木ノ下 ここから、岡田利規さんの『桜姫東文章』がどうなるかという話になっていくんですが、二年後のことですので変わる可能性があるということを十分にお含みおきください。僕が原作から読み直してテキストレジ(編集部註:脚本家が書いた台本を上演の際に訂正・手直しすること)した補綴台本というのをもとに、岡田さんの言葉に訳してもらおうと考えています。今その補綴台本を作っている真っ最中で、まさに佳境です。現在上演されている『桜姫東文章』はほぼ郡司正勝補綴ですので、自分の補綴の方針を固めるために、まず南北の原作に郡司補綴を全部書き込んでいくという作業をやりました。

岡田 郡司さんの心を読み解いていくと。

木ノ下 これが面白いんですよ。よかったら皆さん参加しませんか(笑)? わかったのは、郡司さんの補綴がびっくりするぐらいうまいということです。分量的には原作の約半分ほどになっています。それだけカットすれば繋ぎの言葉が必要になるんですが、極力それは入れずに南北の言葉を最大限尊重しているんですね。その一端を今日はお見せしたいと、例を持ってきたんですよ。ただマニアック過ぎてピンとこないかもしれない(笑)。「三囲堤の場」の、落ちていた傘を拾って火をつけるというシーンの清玄の一人台詞です。 

 【南北原文】オオ、幸いのこの傘、捨ててあるとは天の助けじゃ。アアありがたい、ありがたい。ドレ、これを広げて、傘の下で焚きつけましょうか。

 【郡司補綴】オオ、幸い捨ててあるこの傘、これを差しかけて燃やしましょうか。

 

木ノ下 これ、とてもうまいんです。

岡田 とてもいいなと思うのは最後ですね。つまりテキストとして何を描写しているのかがわかるのは南北の原文だけど、芝居しながらだから「これを差しかけて燃やしましょうか」だけで伝わる。そこが上手ですよね。

木ノ下 一番カットしてあるのはここで、おそらく言葉で言わずともお芝居でわかる事はわざわざ言わなくてもいいという郡司さんの判断だと思います。

岡田 その通りです。

木ノ下 上演時間の制約があって、できる限り短くしないといけないというのがこのときの命題でしたから、すごくカットしているんですが、「捨ててある」だけは残しているんですね。これが大事です。郡司版では「郡司兵衛内の場」をやりませんから、お客さんにとってはそこに都合よく傘があるのが不思議なわけですよ。そこを先に「捨ててある」と言い切ることで、不思議に思わないでください、捨ててあるんです、と。

岡田 「傘がこんなところに捨ててある」だと、なんで捨ててあるって言えたのということが問題になりますからね。うまいなぁ。

木ノ下 もう一箇所は岡田さんが指摘してくださった、「傘の下で焚きつけましょうか」と「これを差しかけて燃やしましょうか」。まず、傘の下で焚くという説明的な表現から、傘を差しかけて燃やすという、少し抽象度を上げることで含みを持たせています。もう一つ、郡司さんは耳で聞いてわかる台詞じゃないといけないと考えたと思うんです。「焚きつけましょうか」は文字で見ればわかりますけど、燃やすに比べると耳で聞くだけでは少し難しい言葉なんですよね。しかも、傘にお客さんの目が行かないようにわざわざ「これを」という指示語にしています。南北の原作は傘を強調している。

岡田 「郡司兵衛内の場」があるテキストとしては、このぐらい言っちゃうほうが面白いですよね。やっぱりマニアックだな(笑)。楽しいけど。

木ノ下 郡司補綴って、このレベルのことが全部にしてあるんですよ。でも新しい『桜姫』を作るなら、やはりこれを乗り越えないといけない。郡司補綴の最高峰としては、この前の歌舞伎座で行き着くところまで行ったと感じました。だから今、ものすごいプレッシャーなんですが(笑)。私はまた郡司さんとは違った『桜姫』の姿を補綴で復元したいなと。

岡田 楽しみにしてます。

*1 『菅原伝授手習鑑』の一幕。主君の子の命を助けるため、松王丸が我が子を身替りにする。
*2 「押上植木屋」「郡司兵衛内」は、行方知れずとなった桜姫と、命を狙われている弟・松若丸の身替りとして、家臣の郡司兵衛が娘・小雛とその許婚者を犠牲にするというシーン。初演以降、上演されていない。

*編集部付記:本稿内に一部、今日の人権意識に照らして不適切な語句の記載がありますが、時代的背景と対話の意図を鑑み、そのままとしています。

  • 松本花音 Kanon Matsumoto

    横浜市出身、京都市拠点。広報・PRプロデューサー、アートプロデューサー。
    早稲田大学第二文学部卒業後、株式会社リクルートメディアコミュニケーションズにて広告制作や業務設計に従事。2011-13年国際舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー」制作・広報チーフ、株式会社precogを経て2015-23年ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)所属。劇場の広報統括と事業企画担当として劇場・公共空間やメディアを活かす企画のプロデュース・運営統括を多数手がけた。主な企画に「プレイ!シアター in Summer」(2017-22年)、空間現代×三重野龍「ZOU」、岩瀬諒子「石ころの庭」、VOUとの共同企画「GOU/郷」、「Sound Around 003」(日野浩志郎、古舘健ほか)、WEBマガジン「Spin-Off」など。
    2024年よりブランディング支援、PRコンサルティング等を行う株式会社マガザン所属・SHUTL広報担当。舞台芸術制作者コレクティブ一般社団法人ベンチメンバー。
    Instagram @kanon_works

  • 和田真生 Mao Wada

    東京大学ヒューマニティーズセンター特任研究員。演劇製作興行会社勤務を経て研究を志し、現在は江戸歌舞伎の作劇を中心に研究。歌舞伎の作品解説なども執筆。主な論文に「江戸歌舞伎の顔見世と「太平記」の世界」(『歌舞伎 研究と批評』64号)、Pioneers of stage design in Japanese theater(Rivista degli Studi Orientali)ほか。

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