闇に包まれたホールに、地響きのような重低音が響き渡る。長くたっぷりとしたその間に、空気が変質しどろりとのしかかってくるような感覚をおぼえる。彷徨う視線の先にきらきらと舞い落ちるかすかな粒子。その光はうずくまるダンサーの身体に降りかかり、はじまりを告げる兆しとなる。
ダンサー・振付家のダミアン・ジャレと、彫刻家・名和晃平の協働による舞台『Planet [wanderer]』。惑星における生命誕生という壮大な物語に、日本神話「古事記」に想を得たアニミズム的世界・生命観を重ねて表現した本作は、ダンサーの強靭且つしなやかな肉体と、素材がもたらす効果を徹底的に追及した舞台美術が融合し展開する。そこでは人と世界との関係が、はざまでせめぎ合う現象の連続として表現される。「モノ」が生命に変わる瞬間のきらめき、それをも凌駕しなお物質に還元してゆこうとする圧倒的な自然のエネルギー。私たちはここで、生命と物質との拮抗・弛緩・制止のプロセスを、まざまざと体験する。
本作は宇宙から飛来した生命の素とその胎動、個の目覚めと秩序の形成、力による終末的な光景という、大きくは三つのシークエンスから成る。以下、なかでも象徴的な二つのシーン、前半のハイライトである「葦原中国」と、直線が降り注ぐ絵画的な終局を取り上げ、それぞれ身体表現と舞台美術という側面から掘り下げていきたい。
古事記からの直接的な引用となる「葦原中国」。これを再現するかのような光景が前半の山場だ。そもそも、神話では原初の人は黄泉の国との境目の中つ国に生える「青人草」、つまり植物的な存在として記述されている¹ 。神による国生みがなった後の、とるに足りない自然の一部。その姿をかたどるように、舞台に設えられた八つの「沼」にひざまで埋まり、身体を波うたせる八人のダンサーたち。不協和にゆれながら時折シンクロし大きく傾く様子は、まるで風にそよぐ葦の草原だ。皮膚に付着したグリッターの粒子がするどい照明にかがやき、姿態の陰影を深くする。動きは次第に激しさを増し、腕を突き出し反動で戻り、または車輪のように回し前後左右に大きくのけぞるなど、彼らが個としての「抵抗」の段階に入ったことを示す。やがて一人、また一人と沼から足を引き抜き、ゆっくりと歩き出す。その歩みは地を這う流動体のようで、物理的な「重力」の存在をことさら印象付ける。

撮影:井上嘉和
ここからはジャレの振付が徐々にリミッターをはずすような躍動を見せてゆく。身体の裡にばねのように溜まる意志のエネルギー、その衝動が前景化しだすのだ。しなやかに身体を伸展させ、楕円や弧をかたちづくり動き回るダンサーたち。皮膚を覆う銀の肌理の地が割れ、素肌のやわらかな色合いがわずかな隙間にのぞく。なかでも顔まで仮面のようにグリッターで覆われ、終始集団に先行する湯浅永麻の姿は印象的だ。例えば身を低く構え、四肢を交差し横移動するシステマティックな動きなど、その異形のたたずまいはひとつのノイズとして磁場を捻じ曲げ、集団に作用し続けていた。やがて線状にフォーメーションを組み並び立ったダンサーたちは、中心軸を保ったまま前後・左右へずれながら重なり、ストップモーションをはさんで規則的な歩行の軌跡を空間に刻んでゆく。一方でここでは「誰を見せるか」の緻密なコントロールにより、集団的な運動にあってなおダンサーそれぞれの個性が際立っていた。これら融合と離散のかたちが、現象としての生命の在りように「連続する時間」という秩序立った方向性を与え、ここに進化のイメージが重なる。
本作を大きく特徴づけるのは、名和による舞台美術の在り方だ。それは単なる背景という役割を超え、舞台上のもうひとつのアクターとして現れていた。例えばダンサーの肌を部分的に覆うグリッターのテクスチャ。きらめく無数の反射光がモノクロームの世界に動きを与え、同時に鉱物的な表面の物質性を際立たせる。このように「モノと生命」が体表でせめぎ合うイメージは、舞台に敷かれたつやめく黒い砂地やダンサーの身体を捉える粘性の沼といった装置と地続きとなり、空間全体を包み込む。つまりここではミクロの皮膚の細胞からマクロの地上まで、位相ごとに質の違う肌理を見せるマテリアルにより、一貫したイメージが拡張されている² 。またこの構造により、舞台に現れるエネルギーの総体は変化しつつも保持され、星の営みのごとく循環しているのではないか。

撮影:井上嘉和
秩序と無秩序のあわいを行き来し、意味を獲得してゆく生命。終盤、ひとつの極を迎え舞台が再び闇に包まれると、砂を擦るサー、サーという波音に似た音が響く。立ち込める霧のなか、身体のフレームをゆらめかせながら浮かび上がるダンサーたち。しかしその生のかたちは突如、終わりの時を迎える。天井から降り注ぐ幾筋もの白い液体が彼らを容赦なく覆い、その動きを制止させるのだ。意志を超越する力の顕現、神の裁きにも似た絵画的なラストシーンだ。

撮影:井上嘉和
圧倒的な「力」の下、ダンサーたちはまるで蜘蛛の巣にかかった虫のように、まとわりつく物質を振り切ろうともがき、周りにはその都度白い放物線が飛び交う。刻々とかたちを変え舞う弧のラインにより、本来消えてしまうはずの運動の軌跡が絵画のように可視化されるさまは端的に美しい。この、直線が表す「垂直の支配」と、空中に現れる「水平の抵抗」の対比は、すべてを無へと還元してゆこうとする自然の摂理に、個として抗う生命の意志に集約されてゆく。やがて膨大な量の白は彼らの身体を繭でくるむようにどろりと覆い、動きは緩慢になりついに止まる。冷徹ともとれる物質の力を知覚・構造の両面で徹底する名和の美術により、内なる生の衝動としてのジャレの振付が、ここで鮮烈な「命の彫刻」として観客の胸に刻み込まれる。
本作は、人間という生命体がどこまでも自然に還元される存在であることを突きつける。それは近年の甚大な災害の記憶と決して無縁ではないだろう。命とは星に育まれた奇跡の申し子ではなく、自然の一部であることに抵抗し、死とのはざまで彷徨い歩く刹那の運動にすぎない。しかしその運動はかたちを変え連続し続けるタフさも併せ持つ。動きを止めたダンサーたちを闇が包み、余韻のように潮騒の音が響く終幕には、終わりではなく次なるフェーズへの移行、そのための儀式のようなおごそかな気配が感じられた。

撮影:井上嘉和