去年からたまたま文楽を観る機会が続いているのだが、改めてその特殊な形態と、それが生み出す“分裂がもたらす作用”に驚いている。
人形を使う演劇は世界中に点在し、長い歴史を持つものも多い。しかし人形一体のパフォーマンスを成立させるために、人形を動かす遣い手だけで3人、加えて、せりふとト書きを語る太夫、伴奏を務める三味線と、合計5人が必要という高い専門性を持つものはそう多くない。その専門性は、観客にも特殊な鑑賞法を求める。主に動き(フィジカル)を受け持つ人形と人形遣いは客席から見て正面の美術セットの中にいて、かたや主にストーリー(音)を受け持つ太夫と三味線は向かって右側に並んで座っている。つまり観客は、別々の場所から入ってくる視覚と聴覚の情報を自分の中でひとつに統合する作業が必要なのだ。また視覚に関しては、人形遣いのうちふたりは黒衣で、演劇の世界で黒衣は“いない人”として見て見ぬ振りをするのがお約束だから、3人をひとりとして認識しなければならない。
こう書くと、観劇慣れした人だけが楽しめるように感じられるが、そんなことはまったくない。むしろ忘れていた本能の一部を刺激されるような感覚があり、人間が持つ物語に接する快楽の中に、バラバラに分裂している要素を自分の中に取り込み、それらを編集することがあるのではないかと思えてくる。考えてみれば、人形であれ人間の俳優であれ、舞台上に存在するのは容れ物としての身体(「からだ」の語源のひとつは「空だ」とも言われている)で、そこにさまざまな状況や感情がせりふや動きとして注ぎ込まれ、それが消えたり溜まったりするのを眺めるのが芝居を観るという行為だ。さらに考えれば、私(達)はどれだけ自信をもって「自分は中も外も統一されたひとつの人格です」と言えるのか。文楽を通して、演劇とは、人間とは、自分とはを考える。
お寿司の『菠薐心中』は、文楽の代表作のひとつである『曽根崎心中』を下敷きにしているという。だがストーリーの枝葉は大胆に刈り取られ、それよりもまず前述の、文楽の仕組みが創作の土台になっている。
作・演出の南野詩恵は、舞台上にいる人はみな分裂──何かと何か、誰かと誰か──が接合された存在だという前提で物語を進めていく。黒衣の活躍や人形振りなど、文楽からのわかりやすい移植もあるが、接続される「何かと何か」「誰かと誰か」「そことここ」「あの時間とあの時間」の組み合わせが思いもよらない場合も少なくない。と言うより、どんどんエッジーになっていく。たとえば、私自身、戯曲を読むまで気が付かなかったのだが、Aという人物の言葉をBやCが自分の心境のように語るシーンがいくつもある。具体的にはこんな記述だ。
宮崎(福岡) 「徳島さん。私も、あなたに、言えない言葉がある。」
山形(福岡) 「一回垂れてしまったら、取り返しはつかないんです。寄せたってあげたって、無理で無駄。これはある種のシワの話です。それに、そんなになるまで。こんなにも、徳島さん。徳島さん。待って。もう少し、ゆっくり。あの、徳島さん。私、ダメになる。」
これらは本来、福岡という人物が徳島に語りかける言葉を、宮﨑、または山形役の俳優が話すシーンを示している。宮崎、山形、福岡、徳島(『菠薐心中』の登場人物の苗字はほとんど県名)は同じ職場の仲間で、福岡と徳島は不倫関係にある。その情報をもとに読み直せば確かに恋愛がらみの差し迫った言葉と認識できるが、上演では仕事の会話とも受け取れる状態が用意されており、それなりに違和感はあったものの、それを飲み込んで先に進むことは可能だったのである。ちなみに山形は女性、宮崎は男性が演じている。
と同時にこれらは、宮崎や山形の言葉に、福岡が勝手に自分の気持ちを託したと受け取ることもできる。その可能性が直接的に観客の前に提示されることはないが、主体を替えても成立する言葉、せりふを替えても成立する関係性は、観客に「目の前の上演は固定されたものではない」という揺れを感じさせるし、強度のある作品には必ずそうした揺れが含まれている。観客とは、舞台から放出されるさまざまな情報を取り込み、取捨し、自分の物語として編集する存在で、揺れは選択肢だからだ。
また、こうしたせりふから受け取れる切実な“伝えられなさ”は、恋愛であれ仕事であれ、想いも言葉も貯まっていくものの、それが上手く外に出せず、出したとしても本意からズレていき、「果たしてこれは本当に自分が言いことだったのか」と戸惑う経験は誰にでも覚えがある。踏み出した足が行きたい場所と違うところに向かっている。好きな人に差し出した手の感覚がない。そんな、「自分はどこまで自分なのか」という疑念を検証できることこそが、南野が文楽を参照事項にした理由のひとつではないか。
この作品では、細かく分解された空間、時間、役割、関係性、気持ちや言葉が散らばっている。それでもなぜか観客は、遣い手のいない人形のように動かず、反応はしても何も話さない徳島と、同僚に言葉を奪われる、もしくは彼らの言葉に自分の想いを託す福岡の恋愛が物語の軸にあり、ふたりは道ならぬ恋に落ちていることを自然と理解できてしまう。好き勝手に散らばっているように見えた要素は絶妙な順序、間隔でそこにあり、観客に編集されるように見えて、観客を導くのである。南野のバランス感覚たるや。
けれども最初に私が驚いたのは、会話の上手さだ。『菠薐心中』の一場は、こんな会話で始まる。
宮崎 「何したんや!」 _
長野 「何かしたんですか」 _
宮崎 「何したんや、何を」 _
長野 「普通の取引でした」 _
宮崎 「お茶は」 _
長野 「出しました。」 _
山形 「や、大阪さんはコーヒーです」 _
宮崎 「飲んだ?」 _
長野 「一口だけ」 _
宮崎 「なんでやろ」 _
山形 「美味しいコーヒーなんですけどね」 _
宮崎 「分かるんか?」 _
山形 「名前です。」 _
山形 「毎日美味しいコーヒーというシリーズなんです。」 _
宮崎 「美味しいか分かる奴はおらんのか?」 _
石川 「コーヒーですか?」 _
宮崎 「うん」 _
石川 「コーヒーが原因ですか?」 _
宮崎 「知らん」 _
宮崎 「いつも飲むんか?」 _
長野 「毎日美味しいコーヒー」 _
宮崎 「いつもは飲むんか?」
長野 「コーヒーが原因ですか?」 _
宮崎 「知らんわそんなもん」 _
山形 「すみません。私が淹れました」 _
宮崎 「いや、」 _
長野 「いや、それは、山形さん」 _
山形 「でも、私、飲めないんです。だから、なんとなくで淹れてます。。色合いとかで。だからムラがあったかも。」 _
少しの沈黙 _
山形 「味見するんですか?そういうの」 _
山形無視される _
山形 「薄かったかな、、」 _
長野 「苦い顔してました」 _
宮崎 「どっちや。。」 _
どうやらあまり大きくない会社の一角での、大事な得意先を怒らせてしまったらしい部署の社員同士のやり取りで、テンポも内容もコントのようで笑ったのだが、ここには、些末なことに拘泥して、原因を見付けて解決策を考えるという重要なことがどんどん遠くなるという、私達が陥りがちな組織の問題が見事に描かれていた。
こうした二重性は物語が終わるまでずっと続く。前述の「どこまでが自分か」もそのひとつで、あっちにもこっちにも気を遣ううち、言おうと思っていたことと言えたことの差が広がるのは、劇中の人々だけではない。恋愛絡みの切実な想いすら持ち主から切り離され、別の誰かの事情や仕事と接続されてしまうのは、生きていくことそのものが、自ら選び取ったものも不本意な結果も含めて、自分と異物の接合であり、純粋な自分が薄まっていくことなのかもしれないと、この作品は気付かせてくれる。
さて、原作に『曽根崎心中』があるとは観客全員に配布される当日パンフレットにも書かれているが、早い段階で心中は遂行されないだろうとわかってしまう。徳兵衛に当たる徳島には明確な意志が見られず、お初に当たる福岡は彼の近くに行くことすらなかなかできない。彼らの間には会社の仲間だけでなく、ふたりの関係を知りながら徳島を放さない徳島の婚約者、気付かないふりをする福岡の夫が割って入る。婚約者も夫も必死だし、福岡もまた、不倫をするには不器用過ぎる。
「こうまでならないと、私、動けません。手を引いてもらって、足を動かしてもらって、背中を押してもらって、そしてようやく、声に乗れます。私、やっと伝えられるんです。悲しいオハナシであっても。」
という、バラバラをつなぎ合わせてようやくできた決意もつかの間、福岡は夫の待つ家に帰り、それが徳島を諦めることだと知りながら夫の淹れた温かいお茶を飲む。それは、心を殺すという点で心中だ。人形遣いのいない人形のように動けなかった徳島は、とっくに心を殺していて、福岡の喉をお茶が通った瞬間、ふたりの見えない心中は果たされた。
お寿司という検索しづらい団体名と、『菠薐心中』という作品名の間にある「ボロレスコ」とは「バーレスク(歌や踊りなど様々な芸能を盛り込んだショーの一種)の語源。華やかさや妖艶さに重きを置かれるようになる以前の、誇張やからかいを交えつつ有名な作品の形式や精神を描く催し物です。」とチラシに説明がある。ということは、次作以降は文楽からは離れ、別のジャンルの構造を借りるのかもしれないが、本作に見られる文楽の解釈と演劇への移植、そこから見えたたくましい創造性を考えると、次に何が来ようと期待せずにはいられないし、どれだけ期待しても揺るがない頑固さを感じさせるのが頼もしい。