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オル太『超衆芸術 スタンドプレー』劇評

「円環・回転・ループ」が支配する醒めた熱狂空間で、「スペクタクルに耐ええない身体」を提示する

文:高嶋慈(美術・舞台芸術批評)
2020.3.31 UP

オル太が2017年から展開しているプロジェクト『超衆芸術 スタンドプレー』は、宝くじ売り場、競馬や競艇、競りやオークションなど都市に遍在する「勝敗と熱狂」の場と、「社会的敗者」としての路上生活者を公共空間から締め出す掲示物や立ち入り禁止区画を明示するパイロン(三角コーン)といった「路上における排除」に着目し、そうした光景や言葉の記録、スケッチ、会話の断片を収集している。都市のトポスの潜在性に着目し、路上の観察を通して、ある種の過剰さが機能不全へと転じる様を「発見」し、乾いた笑いによって政治性を脱臼させようとするその試みは、「路上観察学」の系譜に位置づけられると言える。「超衆芸術」というネーミングには、赤瀬川原平の『超芸術トマソン』や、大衆が日常生活の中で生産・享受するものとして鶴見俊輔が定義した「限界芸術」といった用語が内包されていると指摘できる。

本公演では、こうした『超衆芸術 スタンドプレー』の試みが、オル太メンバーと「ゲスト」として参加したアーティストらの身体性とともに、劇場空間に初めて持ち込まれた。「非日常」の熱狂的空間を創出する「劇場」という場において、彼らの身体はそれへの馴致にどう抗うのか。本公演の掛け金はまさにそこにある。

舞台上には、新国立競技場を模した楕円形の陸上トラックが設置され、そのレールの上にトレーニングマシンを思わせる装置が何台も連結して設置されている。パフォーマーたちはそのトレーニングマシンを人力で押し、環状のトラック上を延々と周回させる労働に従事させられる。トレーニングマシンに積まれたモニターには、競馬や競艇、魚市場での競りやオークションの光景が流れる。サンドイッチマン、競艇の予想屋、宝くじ売り場の呼び込み、オークションがシーン毎に「再現」され、陸上競技用ユニフォームを着たパフォーマーたちは競技の身振りをスローで模倣する。空のペットボトルを首飾りのようにぶら下げた男が落語を披露し、富くじに熱狂して人生が破綻しかけたが、夢のお告げで大当たりを得た男について語る。パイロンに扮した2人のパフォーマーがナレーションを務める。頭上に設置された巨大なスマートフォンの画面には、「オリンピックの起源である古代ギリシアの祭典」「ナチス政権下で開催された1936年のベルリン五輪」などについての補足情報が、ウィキペディアやGoogle画像検索を用いて流れ、あるいはLINEのメッセージ風の吹き出しで字幕が表示され、ネットを介してリアルタイムで検索やチャットしているかのように演出される。

ここで、本作のキーワードとなるのは、「円環・回転・ループ」の構造と、「鍛えられていないダメな身体の弱さや貧しさ」の戦略的な肯定である。「勝敗と熱狂」の相を延々と羅列しながらも、「クライマックス」の絶頂をずるずると遅延させていく本作にあって、終盤の「ルーレットによる宝くじの当選番号発表」シーンは、ひとつの盛り上がり(の演出)を見せる。七色に移り替わる照明に照らされ、音楽とナレーションに煽られ、回転するルーレット。その「回転」は、「トレーニングマシンが延々と周回し続ける競技場のトラック」と呼応するとともに、「オリンピックがまた巡ってくる」、国家イベントの反復性を示唆する。「トレーニングマシンを押して周回させ続ける」という、終わりのない「労働」に従事するパフォーマーたちには疲労が溜まっていくが、円環のレールを外れることは許されず、ラストシーンの「マッサージ」の客引きによって、資本主義へと回収されるオチが差し出される。

また、パフォーマーたちの頭上に鎮座する巨大スマホの画面には、「1936年のナチス政権下でのベルリン五輪」のモノクロ写真が表示され、陸上競技用ユニフォームを着たパフォーマーたちは、英雄的な選手のポーズや集団的な身体運動をスローモーションで模倣する。次々と情報が流れていく巨大スマホの画面には、「都市は光」というコピーとともに、都市空間に直立する巨大な光の柱を描いたタワーマンションの分譲チラシの画像が映される。情報のスピードや都市開発の速度はアップしていくにもかかわらず、パフォーマーたちの身体には得体の知れない「重さ」がのしかかり、スロー再生や静止によって時間が引き延ばされていく。ここで興味深いのは、彼らの身体は「完全な静止」や「滑らかなスローモーション」を完璧に再現できず、足元がふらついたり動きにブレが生じてしまうことだ。だがそこにこそ、本作のリアリティかつ最大の批評性があるのではないか。

体幹や筋肉を鍛えた専門的なダンサーであれば、ブレやふらつきのない、完全な静止やスムーズなスロー再生を遂行できる。だがそれは、「鍛え上げられたアスリートの超人的身体」、スペクタクルやナショナリズムに搾取される身体と同質である点で、「オリンピック批判」をしているつもりが、「当のオリンピックそれ自体の反復・再生産」にすぎないという罠に陥ってしまう。従って、本作において「ゲスト出演者」も(専門的なダンサーではなく)「美術作家、イラストレーター、パフォーマー」で構成され、「ダメな身体、弱い身体、鍛えられていない、揃わない身体」をさらけ出す点には、確信犯的な意図があるだろう。

その上で、「観客の身体」にも反省的に意識を向けさせる仕掛けがあれば、本作の企図はより良く伝わったのではないか。スタジアムの熱狂空間において、観客は「ただ見ているだけの存在」として視線に還元されるのではなく、「観客」として能動的・身体的・集合的に振る舞うよう要請されるからだ。例えば、「応援歌」や「手拍子」をやらせて疑似的な集団性(とその気持ち悪さ)を意識させる、(劇場サイズの物理的制約はあるが)客席と舞台が正対するのではなく、「客席で舞台を三方から囲んだスタジアム風の空間構成」をする、といった仕掛けが考えられる。

そのように「オリンピック批判」を展開しつつ、「観客の身体」を作品の構造に批判的に取り込んでしまう優れた例として、KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで上演された地点の『スポーツ劇』(2016)がある。イェリネクの戯曲に基づき、オリンピック=「資本主義とナショナリズムと『健全な身体』の祭典」に対する批判を2時間にわたって徹底して繰り出す『スポーツ劇』において、特徴的な舞台空間は極めて重要だ。バレーボールのネットが張られ、サッカーのピッチの人工芝が敷き詰められ、スキーのジャンプ台を思わせる急斜面の舞台空間は、「架空のスポーツのスタジアム」を思わせる。だが、人工芝のピッチは舞台前面でカットされ、そこに張られたネットは「客席」と「舞台」を分断しつつ、「俳優=プレーヤー」と相対させる。すなわち、「客席」に座る私たち観客は「対戦チームのコート」におり、俳優たちと「対決」させられているのである。さらに左右の2階ボックス席にいるコーラス隊は、「カラフルな応援棒、サイリウムあるいは警棒」を振って音を出し、この棒=笛をかすかな吐息で吹いて「君が代」を演奏し、試合の全貌を見渡せる特権的な位置で「応援する観客」役を務めている。ここで展開されるのは、スペクタクルを欲望する観客との「対戦」の構図なのだ。

スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」についての批判を弾丸のように繰り出す俳優たちはまた、膨大な発語に加え、2時間にわたり過酷な運動量と肉体的負荷をかけられ続けている。反復的な運動、(腰を低く屈めたスキージャンプの助走姿勢など負荷のかかる体勢での)静止ポーズ。そこに「不安定な急斜面」という足場の悪さが追い打ちをかける。だが、訓練された俳優たちは疲労を見せず、動きがブレず、ピタリと揃ったアンサンブルの完璧さを見せる。しかし、オル太による本作を経由して改めて振り返るならば、そこでは、オリンピック批判の一方で、「強い身体」「完璧に鍛えられた身体」「スペクタクルに耐えうる身体」を再生産してしまっているというジレンマが露呈してもいる。その意味で本作は、鍛え上げられていない身体の「ダメさ」「弱さ」「貧しさ」を自覚的に引き受けながら、そのジレンマを飄々と、しかし鋭く突いて見せていた。

写真:田村友一郎、(C)OLTA

 

  • 高嶋 慈 Megumi Takashima

    美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジンartscapeにて展覧会評や公演評を連載中。共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017年)。

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