中川裕貴「弭(ゆはず)」(2024年12月28日(土)、12月29日(日))の開催に向け、この公演を応援してくださる方々からメッセージが届きました!
川崎弘二(電子音楽研究)
今回の中川裕貴の演奏会「弭」は「コンサートという言葉が持つ概念や時間の拡張」「聴く、ということがなにか別のイメージ/感情の『言い換え』が発生するように仕向ける」ことなどが計画されているとのことで、筆者にとって近年の中川による演奏会はこうした中川の筆によるやや長文のテキストが投げかける企図を「耳」によって受け取れるかどうかを試されるスリリングな機会となっている。それは前衛の時代が遠く過ぎ去った2020年代の半ばに、音楽そのものの「拡張」を目指す芸術家にとって避けがたく存在する軛(くびき)のようなものなのだろう。中川の意欲的な挑戦を傍観者としてではなく見届けたいと考えている。
倉田翠(演出家・ダンサー・akakilike主宰)
中川さんの演奏と出会ったのはいつだったか、もうすっかり忘れてしまったのだが、思い返すと、ダンスや演劇などの舞台作品の中で演奏されていたものを見たのが初めだった気がする。
その時に「臓器みたいだな」と思った記憶がある。身体を使って表現するダンサーや俳優たちの中、圧倒的に生々しく、身体の表面というよりは、血が流れている、心臓が脈打つ、筋繊維がギシギシする、唾を飲む、胃液が食べ物を消化する、まるで中身みたいな演奏だと思った。
声や身振りとして外に出てしまう前の、まだ生暖かいような、それでいて全然ウェットじゃない。なんだろ。
そこから中川さんは気にしていた。
私はダンサーなので、ダンサーのことはそれなりに気にしてきたと思うのだが、それと同じように中川さんの演奏を見てきたように思う。こいつは迂闊に一緒に踊ったら危ないな!とか、思っている。
ダンサーに対しての「音楽」にはならない状態がある。態度がある。本人がどう思ってるかは知らないが、ほんわり目の見た目とは裏腹に、何か強い意志みたいなものを感じる。
こういうダンサーは(ダンサーちゃうわ!)良いなぁと思ってもすぐ手を出さない方がいい。
最近、中川さんが「野良チェリスト」だということを聞いた。要するに、独学ということだ。
ははーん、なるほどな、私のようなクラシック出身のダンサーは、ビビるわけだな、と納得する。
そうして中川さんの演奏に出会ってから、彼の小さなライブにぷらっと行ってみたり、展示を見に行ってみたり、公演を見に行ってみたりして、様子を見ている。
たぶん、長い時間が経って、中川さんも私も少しずつ変容していると思う。
「弭(ゆはず)」が、どんな状態になっているのか、とてもワクワクしている。
この応援メッセージを書くにあたり、公演の企画書を読ませていただいた。さっぱり意味がわからなかった。だから演奏してるのか。
わからん、が、いつか私が一緒に踊ってみたい人の一人です。
橋本裕介(ベルリン芸術祭)
今年の4月にKAKUHANがベルリンにやって来て、久しぶりに中川裕貴の音を聞いた。私のドイツ語がおぼつかないことに加え、さまざまな言語が飛び交うベルリンでは、人の声は意味をなす前の音として私には日々響いている。中川はチェロという楽器の特性から、その「声」や「声性」に着目して活動を行なっているが、あの時聞いた音は、この街の環境から聞こえてくる声の一部になっていた、と言うと感傷的すぎるだろうか。今回のタイトルの弭(ゆはず)は、弓道などの弓の両端にある「弦をかける場所」のことらしいが、彼が演奏で使う自作の弓は毛の片方が固定されておらず、自分の手で弓の毛を固定しなければならない。ふつうタイトルというのは作品のある種の出発点のはずだが、出発点であるその弭はあらかじめ機能していない、というところからの出発。静かな自信を感じる。京都まで私は聴きに行けないので、誰か行って確認して来てほしい。
森村泰昌(現代美術家)
中川さんとセッションをやったことがある。いっぱい隠し球を持っていて、それらは思わぬところで飛び出して、意外な広がりや奥行きをその場にもたらす。その自由自在がとても嬉しい。サウンドはハード、でもハートはソフト。そこがわかってくると、仲間意識が生まれてなんだか楽しい。でもこの張りつめた楽しさってなんなんだ。予想がつかないことほどスリリングな体験はない。
中川裕貴「弭(ゆはず)」
日程:2024年12月28日(土)~29日(日)
会場:ロームシアター京都 ノースホール
作曲、演奏、演出:中川裕貴
DJ:1729
出演:中川裕貴、出村弘美、穐月萌、1729
公演の詳細についてはこちら
https://rohmtheatrekyoto.jp/ev