
撮影:中谷利明
五歳だった。幼稚園のお絵描きの時間、黄色のクレヨンで一面を塗っていたら、隣の男児が叫んだ。「うわ、女のくせに男の色使ってる」と。たちまち何人かの男児が寄って来て口々に同調する。私は「色に男も女もないよ」と言うが、彼らは聞く耳持たず囃し立てる。対話不成立。私もまた聞く耳持たず、黄色のクレヨンを握りしめ、一心に塗りたくって絵を描いた。
市原佐都子/Qによる公演『キティ』は、そんなジェンダーをめぐる古い記憶を思い出させた。これは国連の女子差別撤廃条約のアナザーストーリーなのか、と思わせる視点がある。あらゆる形態の女性差別を視野に入れるその条約は、あらゆる形態の被害が世界中で起きていることを示唆するわけだが、本公演の場合、男性中心主義がもたらす女性の受難、しかも、なぜか受難の道を歩くことになってしまう不条理を題材にしているからだ。といっても糾弾ではない。弱者に寄り添う眼差しとも異なる。ユーモアはあるが、そもそもエンタメではない。では、何なのか。劇作家、市原佐都子の投げかけたQ=クエスチョンは、見る者の中で増幅されて渦巻いた。
1場:DV、アップルパイ、殺し

撮影:中谷利明
男が妻の手料理をひっくり返し皿が飛ぶ。蹴倒したパイプ椅子とテーブル脚のぶつかる金属音が緊張を高め、次に禍事が起きると予想させる。男の怒りは、妻の手料理が偽りの肉料理だったことによる。好物の肉が実は大豆ミートであり、体内に植物由来の大豆が入ったことが男には度し難い。肉の味覚、肉欲、肉体が混然となり、妻への性暴行により己の力を見せつける。肉と比べれば妻手製のアップルパイは、アダムとイブが食べた禁断の果実を材料としているとはいえ熱量が低く、弱さを象徴しているようだ。力の支配に屈服した妻と娘は、男のご機嫌取りのために草食動物の肉を用いた「肉ニンゲン」を作って差し出す。
肉ニンゲンは、男の愛人の顔を模して作られた顔をしており、ロングヘアを振り乱して踊るように飛び跳ね、そして男をフォークで刺す。己が肉として食べられる前に殺る、もっともな生存本能の所以だが、高度な知性を持っているため、自分を作り出した妻の辛さを慮っての凶行かもしれない。倒れた男を、娘が放った飼い猫チャーミーが食いちぎる。こうして、だれも悲しまない殺しが達成された。上演前から会場に流れるチープ感あふれるメロディーは、男の葬送曲となった。
そんなストーリーに登場するのは、擬人化された猫たちだ。飼い猫チャーミーは動物の猫であり、重要なキーパーソンの肉ニンゲンは両性具有の人間という設定である。娘の「ねこ」の両親である、パパとママの顔と頭部は大きい。役者が大きな被り物をしているが、肥大化したジェンダー観や通俗性を表しているようだ。この後の登場人物たちも同様である。服装はステレオタイプな属性を示し、ママの白いフリル付きエプロンは、性的対象としての女性性の記号である。「ねこ」だけは被り物がなく、役者の顔が見える。
彼女の動きは独特だ。奇妙な跳躍や、人工的に再構成したぎこちない動作を組み合わせており、観客の注視を浴びる。ふと「不気味の谷現象」を思い出す。それは、CGアニメーションやAIロボットなどの動きがヒトのそれに酷似してくると、人間は強い違和感を抱くというものだ。合成的な「ねこ」の動きは、その逆パターンかもしれない。役者による人間らしくない動作が、見る者の生理に訴えてくるのだ。時折発するしゃっくりの音もしかり。観客はぎこちなさというひっかかりを通して「ねこ」を捉えざるを得ない。
さらに特異なのは、誰の口からも発せられる言葉がないことだ。舞台上方に設置された文字盤に日本語でセリフが表示され、それを読む女性の合成音声により観客は状況が掴め、ストーリーは進行する。その音声は日本語、韓国語、広東語の三つの言語を少しずつミックスしているが、一つの不思議な言語のように響く。合成的な動きや言葉といった過度に作為的な世界に観客は入り込んでいく。
2場:AV(アダルトビデオ)、商品、殺し

撮影:中谷利明
「ねこ」は成長し、就職する。会社の受付からAV出演、ホスト狂い、性売買まで淀みなくつながっていく。彼女がこの定型化されたコースに入り込んでしまったのは、「なにがあっても慌てずに笑顔で前を向いて」という場違いなメッセージを吞み込まされ、身体を商品化され、流通ルートに乗せられたからだ。「最近世界ではこのようなことが多発しています」「私たちはみんな気づいたらAVのエキストラ」と示される文字盤の言葉は観客に向かい、高度資本主義の只中での、エキストラという立ち位置の自覚を促される。AV商品である「ねこ」、美人と賞賛されるAV女優のララ先輩、キッチュな衣装を纏うホストのロマンたちは、ベルトコンベアー上の物品のごとく流されていき、どうしようもない渦中にある。
潮目が変わったのは、落ちぶれたロマンが「ねこ」に刃を向けて心中しようとしたときだ。「ねこ」は、もう魅力のかけらもない男と一緒に死んでも誰にも羨ましがられないから、心中はイヤだ、と言い放つ。つまり彼女のコアにあるのは、羨ましがられたいという他者目線の評価軸であり、これも観客にとって馴染み深いかもしれない。
刃物は「ねこ」ではなくロマンに刺さった。さりげなく「ねこ」の側に来ていた肉ニンゲンがロマンを刺したのだ。ピンチの時に救ってくれる神のような存在だが、その後、肉ニンゲンがママを刺殺した経緯を「ねこ」は回想する。パパ亡き後、白いフリル付きのエプロンを外し、アップルパイ作りの才覚により資本家となったママが、パパ同様に肉を好んで食べ始めた。つまり、肉ニンゲンはママに食べられる危険を察知したから刺したのだ。殺しも救助も行う両性具有の肉ニンゲンは、性も善悪も超越した異能の人であり、やがてさらなる変貌を遂げることになる。
3場:支配、かわいい、乱舞

撮影:中谷利明
どこに向かうのかわからない電車に乗る「ねこ」の隣で、満たされない性的欲望、あるいは承認欲求を暴発させた男優がララ先輩を刺殺し、自身も刺す。「ねこ」を取り巻く五人目の死者だ。それが事件なのか事件を元にしたAVなのか、もはや判然としないが、「ねこ」はどちらでも変わらないという境地になっている。ぐるぐる回る電車の中で、茫洋として未来の手がかりが掴めない「ねこ」の姿は、現代人の心象風景かもしれない。
「ミステリアスなさそり座の女の子で、情熱的な感情を持っているのにそれを表には出さない」と語る「ねこ」は、散々な地球に見切りをつけ、宇宙で仲間と共に理想を実現すべく、情熱的に旅立った。厭離穢土欣求浄土。そこは肉ニンゲンが変成して生まれた巨大なアップル星だから、肉食厳禁だ。肉は肉欲を伴うため、穢れた地球の二の舞を避けねばならない。ルールはしかし、必ず綻びを招くのが必定である。結局、自身の体から少し切り落とした肉を互いに食べて喜び合うシステムに落ち着いたが、そのユートピアは、ディストピアの色をしていないか。
分裂による増殖を重ね、もはや個人の独立性を失くし、三人が一人となった生き物は〈ねこ〉の未来図である。彼女たちは地球探訪を企図するも、乗った宇宙船が爆発し、地球上のあらゆる商品に「かわいい」粉として降り注いだという。なるほど、どうりでその言葉に接する機会が増えたはずだ。雑誌や新聞のデータベースで調べると、「かわいい」の使用頻度は二十一世紀に入り急増している。「ねこ」派のなせる技だったのか。
などと虚実のあわいを行き来したくなるのは、地球上の三人の「ねこ」が、もう人工的な動きをせず、違和感のない隣人となったからだ。彼女たちの口から、言葉が観客に向かって発せられる。文字盤を読む音声ではなく、生の声と哄笑が会場に響く。舞台と客席は地続きとなり、彼女たちの発する「かわいい」や文字盤が示す「かわいい」が激しく乱舞する。
「かわいい」は手ごわい。千年前、「何も何も、小さきものは、みなうつくし」と清少納言が『枕草子』で綴り、小さなものたちを可愛らしく思うその感性を現代人も同様に持っているが、一方で「かわいい」は、繊細なニュアンスを表す言葉の綾をローラーで潰してフラット化し、拡散する傾向を顕著に持つ。「キモカワ」「ブサカワ」など、本来相反する意の言葉が一体化して増産され、いわば鬼子のパワーがある。そして昨今は「kawaii」が諸外国で取り入れられるほど拡散している。
拡散の対義語は収斂だ。支配はピラミッド構造をなし、頂点に向かう収斂の力が働く。その典型である男性中心主義を脱するには、「かわいい」のフラット拡散化がひとつの方策になる、と解釈できる。ピラミッドの牙城に取り込まれない、乱舞する「かわいい」戦略。無論、それで解決するほど世界は単純ではないが、この公演が投げかけた変化球を私たちはいったん咀嚼し、それぞれが虚空へ向けて投げ返すこと、それが求められているのではないか。
今日も世界中であらゆる形態の受難が起きているだろう。個人で対処するには無力感を伴う。しかし個人だからこそ、アップルパイを作りたい、黄色のクレヨンで描きたい、表現したい、そんな内から生じる心の動きを持ち続け、なにかに収斂させずに乱舞することはできるかもしれない。

撮影:中谷利明