シリーズ≪継承と創造≫は、2017年度より実施している「舞台芸術としての伝統芸能」をリニューアルし、これまでに紹介してきた古典芸能に、地域ごとに継がれてきた民俗(郷土)芸能を加えた新たなプログラムです。
シリーズ初回となる≪継承と創造≫宮古・八重山・琉球の芸能(2022年4月29日、5月3日)では、各地域の専門家や研究者の監修のもと、おきなわ三地域(宮古・八重山・琉球)の舞踊と唄を上演します。
本稿では、公演をよりお楽しみいただけるよう、各地域の芸能の見どころを琉球文学・民俗文化を研究されている波照間永吉さんに伺いました。
宮古の芸能が魅せる躍動感
―宮古の芸能は動きが豊かだったでしょう。
もちろん、宮古へ行けば自分たちの芸能を自由に表現して行われていて、琉球芸能とは違う、自分たちの芸能として、独立してやられていますよね。いまは「クイチャーしかない」なんてイメージはないですよ。
とはいっても、そのクイチャーは、地域ごとに伝承があるものでしたが、今はこれがかなり減っているらしいですね。例えば40村があれば、40のクイチャーをしていたような踊りだけど、今や歌い継ぐ団体が10ほどだと聞いています。
クイチャーが宮古に対するイメージとして強いのは、三線にのせて歌うことがそれほど昔からはなかったことも大きいですね。戦前から工工四(楽譜)を作る動きはありましたが、1950年代くらいから一気に広がって、いま、宮古では自分たちの芸能の歴史を作っている過程にあるのではないですかね。今では箏も伴奏に加わっています。演目を見てもらえばわかる通り、踊りも創作系統が目立ちますでしょう。いま、宮古では自分たちの芸能の歴史を作っている過程にあるのではないですかね。
そういう意味でも、宮古は活火山のように見えますよね。
タイトルからは《多良間世》が気になりますね。多良間島にはスィツィウプナカという豊年感謝の祭事があって、旧暦5月の梅雨明けの暑いお昼時間に行われます。4つの祭場で神役の「シャスィプ(オモロの言葉では憑霊専門の神女)」と呼ばれる男性の司祭(つかさ)が、豊年をもたらした神(実際は神女)をお招きする祭祀があります。その時の神(神女)の道行きを迎える時に謡われる歌です。祈り求める姿がみられるわけですが、こうした姿をどのように踊りにしたのか。
琉球の芸能には、2つのタブーがありました。ひとつが、こうした「神ごと」、もうひとつは「死」です。タブーだった「神ごと」は、いま芸能の世界に開かれつつあるというか、芸能家によってその世界がこじ開けられつつある、と思います。
御嶽に対する信仰であるとか、神に対する信仰心と比例したり反比例したりする関係にあるかなと感じますね。「神ごと」である以上、畏怖の念があるわけです。だからこそタブーでしたが、いつの時代にも神をも説得できると考える人たちがいて、首里城の中でも御嶽を動かして、国王のユインチ(寄満。王の食事を調理する所)を建造したことだってありました。芸術家としての表現領域の拡大は、未開拓領域への渇望、開拓精神というものも背景にあって、宮古に限らず、今後も勇気ある芸能家によって舞台化されていく動きがあるのだと思います。
八重山の島々に息づく唄と踊りを感じとる
古謡は、「言葉」を理解しなければ、面白味がない部分ですね。とにかく「言葉」が命で、その「言葉」の受け止め方が全てだと思います。例えば、アヨー。これは、稲作の過程の中で、大人数で歌うものですよ。静々と苗代に種籾を撒いた後に、あぐらを組んで歌うものです。鳴り物はありません。籾がしっかり着床するにように歌うんです。ユングトゥ(詠言)なんかは、所作が入ると最高なんですよ。一座に笑いの渦をまきおこし、神を喜ばせ、人をも楽しませる。そのような芸能ですね。
ただ…祭祀(祭事)と結びつきの薄い演目は、歌う機会が失われてきていますね。こういったところ(演奏会など)で聞く機会を作らない限り、なかなか聞けない。今回は大変貴重な機会ですよ。本来の聞きどころは、声の重なりですね。Aの集団とBの集団が歌詞とハヤシを交互に担当し、この二つの集団の声が重なっていく。この声の重なりが命なんです。集団でやればやるほど面白い。
かつては、八重山の人間だったら、八重山のリズムをこうした歌を介して学んできたと思うんです。私の若い頃ですら、レコードで聞くくらいしかなかったから、レコードを聞いてよく覚えたものです。ジィーピィシィ(地搗き)は、幼い頃に、地元の人たちがしていたのを覚えていますね。建築業が出てきて様相が変わったのですね。みんなで家を建てる、ユイ(結)の部分が失われて、謡われなくなりました。覚えている人も限られてきているので、今では古謡の伝承を目指す保存会ですら、成り立ちにくくなってきていますね。
舞踊は《古見の浦》、これは本当に涙を流して舞台を見ました。八重山舞踊の中に民俗芸能の演目が混じっていて、この単調な動きは何なのかと思う人もいると思います。古見の伝統的な一番大切な祭りの中の、一番大切な踊りだという文脈がストンと抜けてしまったら、何もわからないですね。「(舞台で見るような)踊りはこんな風であらねばならない」という見方で見てしまうと、理解することができないんですよ。どんなに苦しい凶作の年であっても、「我が村はこんなに素晴らしい」ということを歌わないといけない人たちの気持ちが、踊りに詰まっているんですよね。琉球舞踊が持っているような象徴化された当て振りすらないのに、それが舞踊として成り立っているんですから、驚くべきことです。もちろん、近代に創作された男女打組みの《古見之浦節》と全く違いますからね。
ほかの八重山舞踊も涙ぐむくらい、いい踊りでした。例えば、《仲良田節》は西表島の祖納の人たちが、旧暦6月豊年祭以外では絶対に踊らないんですね。祖納の豊年祭では、もう最高の曲なんです。稲の刈り上げの後の祭りの舞台でしかやらない敬虔な思いが詰まっている。その演目が、京都で観れるなんて貴重な機会ですよ。
芸能の豊かさでいうと、八重山は広いですから、それぞれの島の芸能は、個性を持っています。本来の芸能が奉納される舞台(結願祭、節祭、種子取祭など)では、御嶽の神庭に仮設された舞台(サンシィキィ:桟敷)で演じられます。舞台の狭さや設備の悪さなどは問題となりません。遥かに凌駕する神様との相対(あいたい)感があるわけです。上手や下手とは違う、全然別の感動することがあるので、言葉や背景を知ると、もっともっとこの舞台は面白くなるのだと思いますね。
琉球王朝文化の「静」
パンフレットにもあるように、今回歌われた琉歌(歌詞)は一般的ではないんですね。琉歌を読んでいただくとわかりますが、これは意図が明確にあって、大きく2つの柱で成り立っているんです。一つは、唐(中国・清朝)という国の皇帝の徳を称えているわけです、恩沢に対する大きな感謝。もう一つは、わざわざ北京から万里の波涛をこえて琉球に渡って来てくださった冊封使に対するお礼の気持ち。この2つで成り立っています。この時には、薩摩の顔は見えないわけです。冊封が終わった後に、江戸や薩摩に対しての謝恩の儀礼は行われていても、薩摩の殿様や将軍の徳を讃える内容の歌曲が歌われたりしたとかいうと、それはないのではないでしょうか。今後注意して、資料が残っていないか探してみる必要があるでしょう。
京都公演では字幕が出るようですが、この歌詞と節との組み合わせで歌われることは、冊封以来ないので、どんな意味があるのかを鑑賞する前に一読しておくことをお勧めしますね。
十二の節に目を向けてみると、大節と呼ばれる長い曲が三節(《作田節》《ぢゃんな節》《暁節》)入っています。地謡が途切れなく歌い継ぐ姿は堂々としていて素晴らしかったですね。もともとは、踊りがついているものではないのですが、祝儀性の高い若衆踊りなどを取り入れているそうですけど、大節に振りをつけるのは大変だったと思います。大節には、女踊りが多いですからね。《継承と創造》の部分では、作舞した宮城茂雄さん、佐辺良和さんにも挑戦的な取り組みをしてもらったんですね。聴き応えも見応えもある1時間になると思います。
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「沖縄をもっと感じたい」と思われたならば、各地域のムラの芸能を見て・歩いてもらいたいですね。もちろん、組踊や琉球舞踊、琉球古典音楽もそうです。今回の演目は、あくまで沖縄の一部を切り取ったに過ぎません。そこの文化に触れてみなければわからないこともありますから、この機会に沖縄の文化芸能に触れて関心を持ってもらえたら嬉しいですね。
写真:仲程長治