幕が上がると、舞台では放水銃から勢いよく水が吹き出していて、その先に黒づくめの着衣の男(“Dressed Man”、 ディミトリス・パパイオアヌー)が佇んでいる。やがて男は歩き出し、透明の球を手に取って、その水流を球に受け、水を止める。一体これから何が起こるのだろうか? 上演芸術については専門外で、パパイオアヌーに関する予備知識もさして持たないまま観客席に着いていた私には、皆目見当もつかなかった。しかし、舞台の漆黒に水が描く線と、その先にある人間の後姿が、見事に緊張感のある、ある意味では絵画的とも言える構図を作り出していたのがなによりも印象的であった。
絵画的という感想が見当違いでなかったことは、ホールのロビーに彼の舞台制作のソースとなったさまざまなイメージが、舞台写真とともにコラージュのように展示されていたことで納得できた。そのソースは、ボッシュやリューベンス、北斎、ボイスから、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『エイリアン』といった映画やニコラ・テスラの放電実験のイメージにまで至る。時代、地域、ジャンルを超えた多様なイメージが、その制作にインスピレーションを与えていたことがよく分かるとともに、パフォーマンスのさまざまな部分が、ひとつの「絵」としても成立するようにデザインされていたことが想像できる。
パフォーマンスは進み、やがて、床に敷かれた半透明のシートの端が盛り上がって、裸の男(“Nude Man”、 シュカ・ホルン)がシートに潜って侵入してくる。この舞台に登場する人間は、この二人だけである。ただ「人間」と書いたが、裸の男の動きはとても人間とは思えない。軟体動物のようにくねるその動きは異星の生物のよう——その身体能力には驚くばかりであった——であり、その生物を、シートを使って取り押さえようとする服を着た男の奮闘が思い出させた言葉は、“Stranger in a Strange Land” [1]であった。すなわち着衣の男が異星に降り立ち、そこに暮らす生物と戦い、かつコミュニケーションをはかるというような物語を、制作者の意図はさておき自分勝手に推測して楽しんだのである。ただ、パパイオアヌーのアフター・トークでは、彼がどういう物語を想定していたかの一端がほのかに明かされたが、解釈は作者の意図に回収されるものではなく、開かれたものであるようなので、物語に踏み込むのはこれくらいにしておこう。
パフォーマンスの全体を通して重要な役を担うのは水である。ホースにつながった放水銃は、着衣の男によってコントロールされ、パフォーマンスの各部で二人の人間と絡み合う。しかし言うまでもなく、水には決まったかたちはない。それに掛けられる負荷と障害によって自在にかたちを変えて、舞台をデザインしていく。水は、着衣の男にコントロールされているように見えるが、その管理をやすやすと超えて、奔放に舞台というカンヴァスを彩っていくのである。もうひとつ、舞台奥にはりめぐらされたポリエチレンの幕の表現力にも驚いた。それは空気の流れによって不断に表情を変え続けていた。照明が舞台の前方にのみ当たっている時は、それは黒光りしているのだが、一旦後ろの照明が点くやいなや、それは半透明な物質という正体を現し、舞台全体の表情を一変させるのだ。
着衣の男の嗜虐性の犠牲となって投げられ、叩きつけられ、散々な目にあうタコの存在感も相当なものだった(冊子に“the octopuses were created by Nectarios Dionysatos”とあるのを読むまでは、本物のタコだと思っていた)。アフター・トークでのパパイオアヌーの語りによれば、それは裸の男や、最後に登場する嬰児と象徴的な同一性を取り結んでいる、物語にとって重要な存在でもあるそうである——タイトルの『INK』とは、タコの吹き出す墨の意でもあるようだ。
舞台全面に敷かれた床のシートは、はじめは単に防水のためと思われたが、裸の男がその下を潜行し、着衣の男がそれを使って裸の男を捉え、従えようとしたことで、それが舞台の装置のひとつであったことが明らかになる。いや、それを舞台装置、あるいは大道具/小道具と呼ぶのは、その役割を矮小化してしまうことになりそうだ。シートだけでなく、前述の放水銃、ポリエチレンの幕、タコだけでなく、水を入れると重心の移動によって生命体のような予測不可能な動きを見せる球体、きらきらと光を反射するディスコのミラー・ボール、さらにはレコード・プレイヤーから流れる音楽に至るまで、それらは舞台装置や小道具の域を超えて、いわば「アクター」——演者であり、行為する者/モノである——として、この舞台を作り上げているように感じられた。
昨今、人文学や社会科学の世界では、「モノ」への関心が高まっている。物質文化論、アクター・ネットワーク理論、オブジェクト指向存在論、ニュー・マテリアリズムなどなど。それらは、考え方に差異はあるものの、総じて人間と私たちの身の回りに存在する、人間以外のさまざまなモノとの関係を、単に使う→使われる、主体→客体というような一方向的な図式で捉えるのではなく、人とモノを同等に考えて、それぞれが行為する主体(エージェント)として、互いにはたらきあう様子に注目するという点で共通するだろう。
このパフォーマンスは、そうした世界の見方を具現しているような気がした。確かに、この舞台において明確な意志を持って行為を行っている主体は、着衣の男だけのように思える。彼は、水を、タコを、そして裸の男を自らの管理下に起き、サディスティックなまでに制御しようとする。しかし、そうした制御をかい潜って、水もタコも裸の男も彼にはたらきかけ、彼の行為を逆にコントロールしているように見える。中学で習った物理の作用・反作用の法則を思い浮かべてもいいだろう——私がモノを押す時、モノも私を押しているのだ。
『INK』というパフォーマンスが見せてくれたのは、そうしたモノたちで溢れた世界であったのかもしれない。そこでは、ヒトとモノが同等の価値を持ってネットワークを形づくっている。ある行為体が他の行為体に作用し作用されることが原動力となって物語が展開していく。『INK』を見続けているうちに、私の眼前に広がっているのは、そのような事態なのではないかという気がしてきた。
もちろん、パパイオアヌーもホルンも一流のプロフェッショナルであるから、常人とは比べようのないほど、その身体を制御する技術は体得しているし、その技能には、ただただ驚嘆するしかなかった。それでもなお、彼らの身体は、舞台で「共演」しているモノたちに起動させられているように見えた。むしろ、彼らの身体技能あってこそ、モノたちと対立し拮抗するのではなく、それらと対等にわたりあい、それらに語らせ、それらが行為体であることを私たちに気づかせることができると考えた方がいいのかもしれない。