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#公演評#舞踊#INK#2023年度

ディミトリス・パパイオアヌー『INK』

欲望のアレゴリー

文:柴島彪 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
2024.5.1 UP
 

©Julian Mommert

 水は形を持たないがそれを支えるものによって自在に変形し、モノは水を吸い込むことで、あるいは水に打たれることで形を変える。対して人間の体は明瞭な境界を外界との間に持ち、内側から何が湧き上がってこようとその外形は容易に変化しない。それゆえに人が体を動かせば表現となり、言葉となり、やり取りとなり、せめぎあいとなる。

 ディミトリス・パパイオアヌーが演出し、自ら出演する舞台『INK』(2020)ではじめに観客の注意を引くのは水の音だった。幕の降りた舞台の内側から聞こえてくる静かなノイズが次第に客席の話し声を消す。幕が上がると上手に設置されたホースのノズルから吹き出す水が舞台上を高く横切り、下手に立つ男の上に降り注いでいるのが分かる。動き出した彼は丸い金魚鉢のようなガラス玉のなかに水の流れを閉じ込め、そのガラス鉢を床の上で回す。すると鉢は子供が遊び続けるおもちゃのように、横を向いた口から水を噴き出しながらその場で回転する。彼は水に打たれ、ずぶ濡れになりながらも水を制御する存在だ。

 人間はもう1人登場する。2人は言葉を発さず、ほとんど接触することなく、互いを動かし、翻弄しあう。2人の体はときに争いながら、数々の絵画的なコンポジションをなす。その動きの連続はなんらかの物語を語っているのだろうか、と問うところから始めたい。

 

アレゴリー

 この作品に一般的な演劇と違うところがあるとすれば、登場する人間を見えるままに受け取らなくてよいというところかもしれない。そこにいる人間はなにかの「役」を表象するのではなく、むしろ絵画におけるアレゴリーのように、演じるとは異なる仕方でそこに現れているようだ。

 舞台には、服を着た男を演じる中年のディミトリス[1]と、肌の大部分を露出した男を演じる青年シュカが現れる。ディミトリスはシュカを捕らえ手懐けようとし、シュカは時折魔法のように姿を消しながらも男の様子を伺いに舞い戻る。このとき、ディミトリスが彼をいかに懐柔するかが観客の関心の焦点となるだろう。パパイオアヌーの演目はすでに、「野生」を「飼い慣らす」というテーマのもとに読み解かれており[2]、本作もその変奏として考えることはできる。前作『The Great Tamer』(2019)が、西洋が非白人文化圏を「飼いならす」関係を描き人類史を鳥瞰するものだとしたら、『INK』でディミトリスがシュカの股を隠そうとして布きれをかけたり、下着を与えたりしながら何度も拒まれるさまは象徴的だ。創世記など引くまでもなく、人は子供に服を着せて社会化するのだし、宗主国は植民地で裸を禁じた。となると、ディミトリスを西洋文明として、シュカをそこに属さない「野蛮」の象徴として解釈することが妥当にも思える。しかし本作は、たった2人の演者がミニマルに繰り広げるゆえに、むしろ果たされない欲望と誘惑のドラマを寓意的に描いたものと解釈できるのではないか。

©Julian Mommert

 

振り付け

 終局から遡ろう。シュカが最後に姿を消したあと、ディミトリスは舞台奥中央に立ち、びしょびしょの布切れ=タコを床に繰り返し叩きつける。彼の姿には苦悩が滲んでいる。その所作は大人の動き、人間の動き、労働の動き、日常の動きだ。それらを掻き乱し続けた子供であり野生であり自然であるシュカはもうおらず、ディミトリスは依然、そしていつまでも彼を手中に収めることができない。

 とはいえ彼は何度もその地点に接近している。精密かつ狡猾な振り付けに仕組まれてシュカがホースに絡まって宙を舞う場面や、丸めたビニールシートの中に閉じ込められる場面。ディミトリスは彼の体を一時的に捕まえることや、僅かな間だけ意のままに動かすことはできる。それでも彼を「ものにする」――それが何を意味するのであれ――ことはできず逃してしまう。

 たとえば中盤のクライマックスは指折りの劇的な場面だ。厚手のビニールシートに乗って引きずられたシュカがディミトリスの持つガラス鉢からしたたる水に魅入られたように口をつけると、そのまま彼の無言の指示を受けて逆立ちし、ディミトリスはその尻の上に水の入った鉢を乗せる。そして彼はシュカの腕のあいだに仰向けに寝そべって体を滑り込ませ、鉢から再び流れ出した水を飲む。その接吻にも契約にも似た瞬間の調和は、ディミトリスがガラス鉢を受け取って崩れ落ちた2人が並んで横たわることで終わる。歌のあるジャズが流れはじめ、虚脱したように眠りについた2人は、陳腐な絶頂を迎えた後のようだ。

 こうした振り付けが成立するとき、それは常にディミトリスによって仕組まれている。この場面で彼がしたたる水を餌にしたのもそうだし、終盤、彼が赤い燕尾服を身に着けてサーカスの猛獣使いに扮する場面では、シュカは従順に猿のように振る舞った結果、机に縛り付けられる。こうしてディミトリス=パパイオアヌーによる策略、その指図が無言のうちに成立し、野生が飼いならされるかに思えるたび、そのコンポジションはたちまち破れてシュカは予測不可能な動きに勤しみはじめる。

©Julian Mommert

 

手管

 上述の水を飲む場面のあと、呪文が解けたようにシュカは体を起こし、まだ横たわっているディミトリスを同じビニールシートのなかに閉じ込めようとする。そこから再び見知った争い。これはパフォーマンス序盤のディミトリスの行為を反復している。しかし抵抗はすぐに終わり、シートを挟んで背後から、シュカはガラス鉢と同じ大きさのミラーボールをディミトリスに手渡す。この瞬間には2人の立場が逆転しているが、再びボールを奪ったシュカはそれを股に挟み、シートのなかにくるまって悶えるディミトリスを尻目に足先で誘惑しながら暗闇へと姿を消す。

 シュカがディミトリスを真似るとき、それはたいてい彼から逃れるためだ。最後にシュカがディミトリスを打擲する復讐じみた場面は、ディミトリスが最初にシュカを打ったことを想起させる。模倣は逆の方向にも行われる。シュカがモーター駆動してピチピチ跳ねる妙なおもちゃを舞台に大量に投げ込んだとき、ディミトリスがそれに入った茶色い物体を食べ始め、シュカが倣う場面だ。このときは、なにか分からない物体をかじるのに夢中になったディミトリスを置いてシュカはビニールの暗幕の後ろに姿を隠す。どちらがどちらを真似るにせよ、模倣することで相手は誘惑され我を忘れる。しかし肩透かしを食らうのはいつもディミトリスの方だ。

 

異物

 それでは2人がすれ違い続けるのかといえばそうではない。終盤、草むらとともにシュカが現れる。誘うように鈴を鳴らしながら、憑かれたように這い寄り、横たわったディミトリスの首筋を犬がにおいを嗅ぐように顔で触れる。その後に訪れるのは、このパフォーマンスのなかで最も不気味な場面だ。ディミトリスがどこからかともなく赤子を取り上げる。下半身にタコが取り付けられた赤ん坊だ。当然本物ではなく人形であり、だからこそ底抜けに気味悪く感じられる。それは出会ってはいけないもの同士が出会ってしまったゆえの、訳の分からない帰結なのだろうか。ひと目で男と認識される2人の登場人物のあいだに観客は生殖を想定していない。だからこの赤ん坊は、普遍的な人間性を描くときにあらかじめ排除されている異物だ。

 ディミトリスはシュカが怯えて姿を消したあとも、その人形を慈しむように抱くが、いつのまにかそれはガラス鉢の中に収まっている。ディミトリスはシュカを机の下に後ろ手に縛り付けておいてその玉を拾い、椅子の上に猿のように座って中の子供をむさぼり食う。それは「野蛮」であるべきシュカが行いそうなことだ。実際、ディミトリスによる束縛を逃れたシュカは、同じように子供をむさぼる。しかし、彼は野蛮に一体化して終わるのではない。最終盤、シュカは彼が下にいる机を全身で打ち鳴らして瞬時に姿を消す。その後のディミトリスは、布切れを打ち付ける動きを繰り返すばかりだ。この舞台は、労役にはじまり労役に終わる。

 はじめに男が立っている。彼は布切れを拾い上げ、床に叩きつける。水浸しの舞台。そこに厚手のビニールシートの下に潜って、蠢くシュカが現れる。それは見事に動物的な動きだ。四足の獣のようでさえなく、陸にあがったばかりの魚のように激しく跳ねる。男は決して彼を飼いならすことはできないだろう。彼にできることはただ、始めに布切れに気づいてそれを地面に打ち付けたときの、その際限のない同じ仕事を続けることばかりだ。

©Julian Mommert

[1] 本稿では演出家・振付家としてのディミトリス・パパイオアヌーを「パパイオアヌー」、舞台上に登場する演者としての彼を「ディミトリス」と表記する。
[2] 清水穣「文化時評4:ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』@ロームシアター京都 パパイオアヌー、横断する調教師」https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/86771/

  • 柴島彪 Aya Kunijima

    文学研究を経て、写真、美術などに関心をもつ。論集『5,17,32,93,203,204』2023年号に「リアルを救うことはまだできそうか――石川竜一『zk』のための試論」、同誌2024年号に「『ケイコ 目を澄ませて』考――イマジナリーラインの上を飛んでいくまっすぐな拳について」、『異界觀相vol.2』に「顔を上げて、口を閉じて――小石清『半世界』論」を寄稿。古書店「書肆しょうぼう舎」を開業予定。浄土複合ライティング・スクール4期生。

  • 浄土複合  Jodo Fukugoh

    制作、発表、批評が交差するアートスペースとして、2019年、京都市左京区にオープン。同年にスタートしたライティング・スクールでは、受講生が年間を通じて展覧会レビューの執筆や雑誌の編集に取り組んでいる。https://jodofukugoh.com

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