今村俊博と池田萠、二人の作曲家の頭一文字を合体させて誕生したパフォーマンス・デュオ「いまいけぷろじぇくと」の公演を、私はもうけっこうな長きにわたって観続けてきた。観続けてきたのみならず、ほとんどの公演で今村君とのアフタートークを仰せつかり、彼とあれこれ話してきた。だからいうなればそれなりに勝手知ったる仲なのだが、にもかかわらず、二人のやっていることにはいまだもって謎なところが多い。
今村君も池田さんもれっきとした作曲家であり、よくは知らないがおそらくちゃんとした曲(いや、いまいけの曲だってちゃんとしているのだが)もたぶんしかるべき機会には発表しているはずである。だがいまいけ公演で披露されるのは、どれもこれも相当におかしな曲ばかりなのだ。二人はあの手この手を弄して、「作曲」の、「演奏」の、つまり「音楽」の根幹、その範疇、その定義を揺るがせようとする。しかも自ら体を張って。だが、あくまでもジョイフルに。
「現代音楽・ミーツ・パフォーミングアーツ(ダンスや演劇を含む)」的な試みは数多くある。カールハインツ・シュトックハウゼン、マウリツィオ・カーゲル、ヴィンコ・グロボカール、サルヴァトーレ・シャリーノ、etc…日本ならば現在の第一人者は池田さんが師事した三輪眞弘と今村君が師事した川島素晴だろう。ジョン・ケージやフルクサスの作品にもそういう作品が沢山ある。いまいけのやっていることが、こうした系譜に属することは間違いない。だから二人の試みを理論的に音楽史に位置付けることはじゅうぶんに可能だし、そこからあれこれ思考を紡いでいくことだって出来る。だが何と言うか、彼らの曲にはそういう生真面目な営為自体を馬鹿馬鹿しく思わせるような奇妙な過剰さがあるのだ。もしかしたら本人たちは無意識なのかもしれないが、思わず笑ってしまうような“やり過ぎ感”と、自ら体を張ってるからこそ生じる“ムリ感”が、いまいけの魅力なのである。
わかりやすい例が、今村作曲の「数える人」連作と、池田作曲の「いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくら クリーム金時」だろう。前者はメトロノームに合わせてスクワットなどしながら数を数える、後者はコンビニスイーツを食べながら『平家物語』などの古典の文章を暗誦する、という「曲」である。両者に共通しているのは、結果としていわばテレビ番組かYouTubeのチャレンジ企画みたいになってしまっていること、果たしてやり切れるのかどうかわからないという妙なサスペンス(?)が生まれてくること、そして、なんとも言えず可笑しいこと、である。「いちご香る(以下略)」は今村君が、「数える人」が池田さんが演奏することが今のところ多い。そうするとどうしても、互いに相手に無理矢理ムリをやらせているような面白さが生まれてくる。固唾を呑んで見守りながら、私は毎回、失笑苦笑爆笑を禁じ得ない。そしてふと我に返り、ああこれは「音楽」なのだった、と思い出してまたあれこれ考え始めるのである。
いまいけ公演の「聴衆」は、いつのまにか「観客」にされてしまう、と言ってもいいかもしれない。通常、「作曲」された「音楽」の「演奏」は、あらかじめ書かれた譜面に従って楽器(もしくは身体)を使用することによって行われる。だが「譜面」を拡大解釈してゆき、何らかの「指示」さえあれば、それでもう一種の「作曲」なのだ、と言い張ることは出来る。この考え方に沿うと「演奏」は「実行」や「遂行」と言い換えられる。それは「実験」と呼んでもいいかもしれない。実験とは、やってみなければ結果がわからない、というものだ。もちろん、普通に譜面に書かれた曲であっても、演奏ごと、リアライズごとに、さまざまな変異が不可避的に入り込まざるを得ないし、それこそが「音楽」の醍醐味の一つでもあるわけだが、こう考えてみると私たちがコンサートの帰りに「今日の誰某の演奏は素晴らしかった(あるいは素晴らしくなかった)」などと感想を洩らしたり、超絶技巧を要する難易度の高い曲の演奏を驚嘆しながら聴くことの延長線上に、いまいけがやっていることもあると言えるのかもしれない。
いまいけは、彼らと問題意識のベクトルを同じくする先輩作曲家たちの過去曲の再演や新作委嘱も果敢に行っている。三輪、川島、鈴木治行、松平頼暁……そればかりか、作曲家ではない、いや、音楽家でさえないダンサー/振付家の岩渕貞太にも委嘱し、彼を「身体奏法/stick」で作曲家デビューさせてしまった。度々再演されている同作は、演奏者が異様に体を張りまくらねば弾けない超難曲である。言うまでもなくコンテンポラリーダンスもまた、その進化と変化の歴史の中で「演劇」や「音楽」との交錯を経てきたジャンルだが、「身体奏法」という曲名にも示されているように、ここから浮かび上がってくるのは、いまいけの「身体」へのこだわりである。譜面に書かれただけでも理念的にはその楽曲はすでに存在しているが、それでもそのリアライズには身体が必要となる。いや、身体の要らない音楽だってあるのだが、しかしそのような音楽(たとえばコンピュータによって演算されてスピーカーから流れ出すだけの音楽)でさえ、聴取の、鑑賞の、体験の現場においては、聴衆=観客の身体抜きには成立しない。聴く/聞くという行為は能動的でも受動的もあり得るが、いずれにせよ身体だけは消去出来ない。そんな「音楽」の「身体」性という側面にフォーカスし、そこをひたすら(少々ヘンな方向に?)増幅していった先に、いまいけがやっていること、やろうとしていることがある。
だから「体を張って」というのは極めて重要なのだ。ロームシアター京都でのホール初公演となる「Sound Around 001」では、多彩なゲストを招きつつ、きっと二人はまたしてもぞんぶんに自らの身体を駆使して、「作曲」への、「演奏」への、つまり「音楽」への、私たちの認識を揺るがしてくれることだろう。もちろん、あくまでもジョイフルに。