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#インタビュー#舞踊#レパートリーの創造#ショールーム・ダミーズ#2019年度

ジゼル・ヴィエンヌ/エティエンヌ・ビドー=レイ インタビュー

インタビュー:高嶋慈(美術・舞台芸術批評)
構成:鈴木理映子
2019.10.30 UP

ジゼル・ヴィエンヌとエティエンヌ・ビドー=レイが、初期の代表作『ショールームダミーズ』(2001年初演)を、日本人キャストと共に、ロームシアター京都のあらたなレパートリーとして再創造。ハイヒールや化粧を施したマスクなど、さまざまな女性的記号が配置された空間で、マネキンとダンサーたちが掘り下げるのは——。


写真(以下すべて):山地憲太

-お二人はマリオネットの学校で出会われたそうですが、そこでの経験が『ショールームダミーズ』に結実するまでにはどんな経緯があったのでしょう?

ジゼル フランス国立マリオネット芸術高等学校は、コンテンポラリーな視点を持った学校で、伝統的な人形劇だけでなく、オブジェクトシアター(注1)にかかわるあらゆること、ダンスや演劇、絵画などのビジュアルアートについても学ぶことができました。私たちはそこで、人形劇とその演技法、ムーブメントを学びましたが、あくまでもそれは、自分自身の関心を表現するためのスキルでした。私たちが当初から関心を持っていたのは、身体表現、身体への問いです。それを人形、つまり人工的な身体でやってみようというのが、1999年に学校を卒業し、カンパニーをつくった時の動機です。ちょうどその頃、ベルギーのP.A.R.T.S(注2)というダンスの学校に招かれ、その卒業生のダンサーとコラボレーションすることにもなり、ダンスと人形劇との共通言語を突き詰めていった結果、『ショールームダミーズ』(2001年)が生まれました。

-この作品については、初演から現在まで、3つのバージョンがつくられています。今回さらに4つ目に取り組む意味をどのように考えていますか。

エティエンヌ この作品は初演から今まで、ずっと進化をしてきましたし、その間に私たちも文楽や能といった日本の伝統芸能、ミニマリズムに影響を受けてきました。ですから今回日本で、日本人のキャストとこの作品を再創造するのには、大きな意味を感じます。オーディションにあたっては、よりさまざまな感情、心理を表現するためにも、六人ともタイプの違う人で、なおかつそのことがチームとしてのダイナミズムにつながるような組み合わせにしたいと考えていました。そのためにも、バックグラウンドの異なる人を選びたかった。実際、ダンサーだけでなく、俳優も交えた今回のキャスティングにはとても満足しています。

ジゼル 『ショールームダミーズ』では、社会によって規定された身体が、その社会の秩序や法を乗り越えることによって制裁や罰を受ける、と同時に、快感を感じるといったことが起きます。ある秩序を超えていくことから、あらたな秩序が生まれてくるさまが描かれているわけです。日本人のダンサーとしっかり仕事をするのは初めてですが、彼ら6人の体にはやはり、日本に関する文化的インフォメーションが入っているはずで、その身体性、それぞれの個性も踏まえたうえで、これからどう作品が書き換えられていくのかが重要です。パフォーミングアーツのような一過性の表現を扱いつつ、どのように歴史をつくっていくか。それが、「レパートリー」に関して私たちが考えなくてはならない問題です。2019年の「いま」を語るのに、2001年とまったく同じものを見せるのは偽りです。本質的な部分を保ちながら、どのように時代に合わせて作品を書き換えていけるのか。それが歴史に対してオープンであるということだし、歴史をつくっていくことだと思います。

-人形を使うことについては、どう考えていますか。人形は不老不死でありながら、あくまでも意志や感情を持たない不完全なものです。またオブジェクトとしての身体、フェティッシュといった側面も持っています。そもそもお二人のクリエーションにとって人形とはどのようなものなのでしょう。

エティエンヌ 私にとって人形は造形物です。いろいろな用途に使われますが、意思を持って動くことはない。そこに魅力を感じます。特に今回のマネキンは、パペットのように動きをつけることもできない。そのマネキンが舞台上でどのように変化して見えるのか。人形が子供の遊び道具になるとき、そこにはマジックが生まれています。ステージ上の造形物が人格を得て、何かを語りだすとすれば、それはとてもマジカルなことです。

ジゼル 何千年という歴史の中で、なぜ人は人の形をしたオブジェクトをつくり続けてきたのか。人形には、キリスト像のような宗教的なものから、もっと世俗的な、たとえばダッチワイフまで、非常に広い幅があるということにも興味をそそられるし、そもそも「人形」とはなんなのかと考えさせられます。『ショールームダミーズ』で、舞台上に登場するマネキンはエティエンヌと私がつくったもので、既成の鋳型ではなく実際のダンサーから型をとっています。マネキンは人間を模してはいますが、リアルではない。ちなみに、この作品をつくるにあたって、20世紀のマネキンが象徴する美の変遷をリサーチしたんですが、その基準はアドルフ・シュタインというアメリカの会社の製品に負うところが大きいんです。そして驚いたことに今、彼らがつくる少女のマネキンのサイズは大人と同じなのです。一方、大人のマネキンについても、美しさの基準は12歳くらいとされています。要するに、社会的コードとしての女性性と若さが結びついている。これってすごく怖いですよね。子供の性を大人のように扱うことをタブー視する一方で、商業の世界ではそれが当たり前になっている。今回のマネキンはあくまでも思考を展開させていくインターフェイスですし、マネキンと美の基準の問題について直接的に語るわけでもありませんが、人形を通して、こうした考えが深まることは確かです。

-人の形をしたものに幅があるのは、それが、人間の欲望と根本的に関わっているからではないでしょうか。

ジゼル 欲望はもちろん、人形は死も虚無も、宗教のドグマも表象することができます。最近、パリで19世紀から20世紀にかけての黒人の人形の展覧会がありました。人形ってほとんどは白人なんですよね。黒人の人形は商業ベースに乗らないので、手作りされていたんです。その展覧会を観ることでも、背後にある政治的なこと、美のあり方についても考えることができます。

-日本のダンサーとのコラボレーションでは、言葉の違いも課題の一つになってくると思います。稽古の中では“abandoned wave”“letting go”といった、とてもユニークだけれど日本語には訳しづらい言葉もよく出てきました。単なる動きの指示ではない、ダンサーから何かを引き出すための言葉について、稽古場ではどんなことを考え、実践していますか。

ジゼル コントロールされてしまっている心身をどのように解放していくか。ダンサーに限らず、社会に生きている以上は誰もが制約を受けているわけですが、どのようにそこから離れつつ、存在感を放つのか。それが今、参加してくれている6人が取り組んでいる仕事です。メディアが発達している現代だからこそ、“今、ここにいる”ということは重要だし、ライブパフォーマンスならではの意味もそこにあると思います。そして最終的にたどりついてほしいのは、私たちが“grounded body” “global body”と呼んでいる身体性です。それは身体を部分ではなく、全体でとらえるもので、ダンサーの能力をより引き出す、有機的なあり方です。また、相手の身体性によっても響く言葉は違ってくるはずです。稽古場では、演出・振付アシスタントのアキ(仁田晶凱)さんが中心になって、ダンサーたちに言葉を投げかけています。今回の作品は、私たちと彼との間のコラボレーションという面も持っていると思います。

エティエンヌ 今回は “letting go”のような、(自分から)動くのではない身体性や、現在ここにある身体にも過去があり、その記憶を持った身体がまた移動していくといった感覚に集中して稽古をしました。ですが、こうした感覚は短い期間でピンとくるようなものではありません。今回はクリエーションの第一期で、第二期で本格的なリハーサルに入るまでには、半年くらいの間が空きますが、その間にそれぞれが、このコンセプトをあたため、内在化してくれたらいいなと思っています。

(注1)生活用品や図形を生物に擬態させるなど、従来の人形の形状、使用法に限定されない「モノ」を使った舞台芸術。「フィギュア・シアター」とも。
(注2)Performing Arts Research and Training Studios ベルギーの振付家、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルによって、1997年にブリュッセルで設立されたコンテンポラリー・ダンスの学校。

  • 鈴木理映子 Rieko Suzuki

    編集者、ライター。演劇情報誌「シアターガイド」編集部を経て、2009年よりフリーランスとして、舞台芸術関連の原稿執筆、冊子、書籍の編集を手がける。NPO法人芸術公社創立メンバー。成蹊大学文学部芸術文化行政コース非常勤講師。東京芸術祭ファーム2022ラボ <ファーム編集室>室長。【共編著】『<現代演劇>のレッスン』(フィルムアート社)【共著】「宝塚風ミュージカル劇団のオリジナリティ」(『「地域市民演劇」の現在 芸術と社会の新しい結びつき』森話社)【監修】『日本の演劇 公演と劇評目録1980〜2018年』(日外アソシエーツ)、ACL現代演劇批評アーカイブ  https://acl-ctca.net/ 

  • 高嶋 慈 Megumu Takashima

    美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン「artscape」と「京都新聞」にて連載。ジェンダーやクィア、歴史の(再)表象などを軸に、現代美術とパフォーミングアーツを横断的に批評する。
    近刊の共著に『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』(美術出版社、2023)。「プッチーニ『蝶々夫人』の批評的解体と、〈声〉の主体の回復 ─ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/Q『Madama Butterfly』」にて第27回シアターアーツ賞佳作受賞。論文に「アメリカ国立公文書館所蔵写真にみる、接収住宅と「占領」の眼差し」(『COMPOST』vol.03、2022)。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(富田大介編、大阪大学出版会、2017)。

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