ポップさと批評性、共感と前衛性がほどよく作品内で混ざり合う藤野可織の小説たちは、ひとつ食べ出したら止まらなくなるアソートの菓子のようである。言語実験のようなクールさもあれば、極彩色の悪夢のような幻想性もあり、どれをとってもどきっとする読み心地が味わえる。切れ味のいい短編から、映画のような奥行きのある長編まで、数多くの作品をものしてきたこの作家の特性を簡潔にあげるなら、語りの意識化と世界を見る目の透徹さ、となるかもしれない。
2006年、「文學界」新人賞を受賞しデビューとなった『いやしい鳥』から、『パトロネ』、『爪と目』のあたりですでに、技巧をこらした「語り」は、彼女のシグネチャーとなった。芥川賞受賞作『爪と目』は、〈はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った〉というセンテンスから始まる。字義通りにとれば、父親の恋人に対し「あなた」と呼びかけ、ごく私的な内容にふみこめるこの語り手はいったい誰なのか、奇妙に感じられるはずだ。それが、年端もいかぬ幼女とわかり、読者はいよいよ宙ぶらりんな状態に放り出される。
あるいは『パトロネ』。こちらは、同じ大学に通う妹とアパートに同居する「私」が語り手となる。たんなる不仲な姉妹に見えた日常も、妹が徹底的に「私」を無視し、妹の髪型や生活態度が目まぐるしく変化するさまが描かれるうち、読者のなかで、姉としての「私」の姿は揺らぎはじめる。ふいにべつの角度から物語世界が見えるのぞき穴が与えられたとき、読者は、「私」を姉だとしてきた自分の認識が、語りのトリックにはまっていたことに気づくのだ。
出来事にあたかも読者自身が対面しているがごとき心持ちを抱かせるために、語りの違和感をできるだけ消去し、透明化する方向に洗練を極めた小説の形式のことを、文学史的には「自然主義的リアリズム」と呼んできた。語りの手つきが透明であるほど、読者は登場人物に感情移入や共感をしやすく、物語世界に安定的に没入できる。近代以降の日本では、多様な語りの形式のうち、この自然主義的リアリズムばかりが幅をきかせてきた。ひとの「内面」を語るのに適していたのもひとつの理由である。
ところが、自然主義リアリズムに慣れきった読者は、語りが、「騙り」でもあることに免疫が足りない。小説という場が、じつは書き手と読み手のときに共犯関係、ときにだましあいによって醸成される点を忘れがちだ。そして藤野可織は、そこをうまくついてくる作家なのである。リアリズムの自明性にあえてズレを起こすこと。と同時に、少しの怪異のスバイスを効かせること。こうして語りの可能性を更新していく。
その後に精力的に発表される『おはなしして子ちゃん』、『ドレス』、そして『来世の記憶』といった短編集は、さながら、藤野流のマジカルな語りのショーケースである。
たとえば「おはなしして子ちゃん」には、「私たち」というマジョリティ性を隠れ蓑にクラスメイトをいじめる「私」が登場する。あるとき理科準備室にあるホルマリン漬けの猿の標本に近づいた「私」に、「おはなしして子ちゃん」と名付けたこの子猿は、〈「お話! お話! お話!」「お願い、お話をして」〉と声高に要求するのだ。「話す-聞く」の関係の不均衡さ、そして聞き手を得る喜びを知った「私」は、読書歴から、自分の不幸な家庭環境までとうとうと語りつづけ、やがて個としての自分を取り戻していく。
あるいは「ドレス」に登場する「彼」は、恋人の右耳を覆う鈍色の金属に違和感を持つ。自分の容姿や職業に釣りあう彼女と見定めたるりちゃんの、どうにも解せない一点がそのアクセサリーの趣味なのだ。ブランドに心酔する彼女を説得可能か。本作は、他人の目や世間からの価値判断を内在化させがちな現代の私たちに、ユーモアをもってその呪縛の解き方をしめしてくれるだろう。
ジェンダー問題の主題化にも積極的な作家だが、想像力をふりきるように駆動させながら女性バディものに仕上げたのが、長編の『ピエタとトランジ〈完全版〉』である。女子高生ふたり組が、ホームズとワトソンよろしく、死亡事故や事件に矢継ぎ早に遭遇し解決にあたる。転校生トランジの天才的な推理力が要だが、ピエタの観察力も負けていない。ふたりの周囲にどんどん積み上がる死体、猛スピードで流れる時間。やがてふたりは老女と呼ばれる年齢になる。そして、この最強コンビに終わりが訪れるとき、女性であることの意味を問われるひとつの出来事が起きるのだ。〈「あんたならどこにでも行けるでしょう?」私たちは口々に言った〉。若い世代への励ましとシスターフッドの響くラストが美しい小説である。
なにをどう書くか――。こう自らに問わない作家などひとりもいないだろうが、藤野可織はとりわけ、「なに」と「どう」の変数の組み合わせに意識的であるようだ。従来のリアリズムの自明性につねに疑義を働かせながら、べつの「現実(リアル)」の手触りはしっかりと伝えること。常識とされるものの裂け目を見逃さないこと。彼女の目を借りてこの時代のこの世界をみていたいと読者を魅了しつづける作家、それが藤野可織というひとだ。
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#コラム・レポート#音楽#ロームシアター京都×京都市交響楽団#2021年度
藤野可織作品の魅力
へんてこでファニー、そしてクレバーな作家について語りうる、2、3の事柄
2021.6.11 UP
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江南亜美子 Amiko Enami
書評家、京都芸術大学専任講師
おもに日本の純文学と翻訳文芸に関し、新聞、文芸誌、女性誌などの媒体で、数多くのレビューや評論を手がける。『キリンが小説を読んだら』(書肆侃々房)、『完全版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社)などに寄稿。共著に『きっとあなたは、あの本が好き。』(立東舎)など。