本作では人を内面から規律化する規範の殿堂としての学校と、自由と創造の発露としてのダンスが対置される。学校は軍隊、工場、刑務所と並んで近代国家が国民を統治・統制するための装置だった。ダンスは身体訓練と集団の振付をもって国民の身体の育成と規律化に寄与した。一方、ダンスは歴史の中で体制への抵抗や反逆の契機にもなった。本作で召喚されるダンスはおそらく最も規範から遠くにあるバーレスクだ。誇張したセクシュアリティとパロディの力をもって既存の秩序を揺るがすダンス・パフォーマンスのスタイルである。コンテンポラリーダンスの実践に加え自らバーレスク・ダンサーとして活動する小倉笑は、その身体の挑発力で、飼い馴らされた我々自身の生き方に疑義を突きつける。
学校については、人々に価値観を植え付け、画一化し、序列化し、支配する不可視の力の象徴として取り上げている。壁も床も灰色の閉塞感のある空間に椅子を整然と並べ、寒々とした教室を思わせるセノグラフィーで体現した。椅子はすべて後ろ向きに置かれ、正面奥を教壇と見立てて、客席の観客も同様に教室に座っているような設定である。一隅で若者(保井岳太)が自身の顔や身体をまさぐり、胸を叩き、ズボンをおそるおそる下ろしては慌てて引き上げるといった動作を繰り返す。外の規範に従順な自己像と内なる自身の欲求とのギャップに不安や葛藤を滲ませている。
教室には男性(後藤禎稀)が肩に人を担いで現れ、捕獲した獲物を下ろすように椅子の上に下ろしていく。運び込まれた男女3人はこの部屋で教育される「生徒」たち、男は体制への奉仕者だろうか。彼彼女らによるパフォーマンスはテキストやその発話、対話やダンスを交え、規範によって押し込められたものの発露の出口を探していく。
「生徒」のひとり(菅一馬)は口先でささやかに声にならない言葉を呟き続ける。彼もまた規範と欲求との軋轢に苛まれる存在だ。耳に届いてくる「I am a boy, I’m not a boy」、あるいは「I love penguin, I hate fighting」などのセンテンス。線引きされないジェンダー、さまざまに交錯する嗜好・指向・思考、複合するアイデンティティ、マチズモへの抵抗をしのばせる言葉。いずれもタイトル『SUPER COMPLEX』の含意するところだろう。
色彩のない教室はかように各々のコンプレックスの磁力がはたらく場所だが、そこに転換をもたらすのが小倉笑の存在だ。ピンクのビキニ、過激に高いヒールを履いた小倉はバーレスクの文法を用い、ときに不服従を露わにしながら、菅との対話で上演を進めていく。小倉のひと言をきっかけに、菅一馬がその場の椅子に手をやり賛美し始めるというシーンがある。「黒いんだね、ざらついているね、穴が開いているんだね」、溜息まじりで椅子を愛撫する様子はあまりになまめかしく、シーンはパロディと化すが、椅子の外見、感触、形態をありのままに語っていく菅の言葉は、そうすることが愛とエロスの発現の契機であると言うかのようだ。既存の価値のベールをはぎ取り、対象のありのままを眼差すことが賛美であり承認であり、受容、愛であるとは無論、統治、教育、支配への対抗であり、エロスの力を源泉とするバーレスクの応用だろう。
パフォーマンスは「区別」を一つの批判の焦点として展開していく。椅子に座る女性、藤田彩佳と男性、後藤禎稀が股間をこちらに向けながらゆっくりと一定のテンポで脚を開閉している。この2体のサンプルを前に菅と小倉は両者の差異を見つけては語ろうとする。ジェンダー、ルックス、体形などを軸に2人を二項に振り分けるゲームを重ねるうちに、軸そのものの陳腐さ、振り分けの不可能さが露呈する。あるいは読み上げられる何かの調査設問のテキスト。学習障害の診断テストの質問項目だというそれらのセンテンスは、人の心理を抉り出すような痛みと快感を兼ね備えるが、診断の根拠となるはずの境界の恣意性と、それでも属性や区分けに自らのアイデンティティを依存してやまない我々自身の思考の放棄に疑問を投げかける。教室で育ち、十分に訓育された私たちは、他の誰でもない私たち自身によって統治されているのではないのか。いくつもの境界の交じり合う世界で、彼ら彼女らのダンスが踊られる。閉塞した規律の空間に訪れる愉楽の時が、私たちの中にくすぶっている生への欲望を謳っている。
本作の最大のみどころはパフォーマーがひとりひとり菅一馬と抱擁しその場に崩れ倒れる動作を、円環を描きながら行っていくシーンだろう。4人のパフォーマーは菅のもとで何度も抱擁と崩れを繰り返しながらメリーゴランドのように循環する。意味するところは両義的で、希望とも絶望とも受け止めることができるように思われる。循環は二項対立の思考様式への対抗であり、「生徒」たちは訓育されるかわりに、抱き留められ、肯定され、受け入れられる。流れる音楽は男性ヴォーカルによる「SMILE」。小倉主宰の団体名に掛けている。だがこの曲はチャップリンの映画『モダンタイムス』に使われた楽曲でもある。映画では機械文明と資本主義が人間を疎外する行程を風刺しており、工場の生産ラインのサイクル=循環が主人公を飲み込んでいく。舞台の上で抱擁されながらくずおれていくパフォーマーたちは、希望と挫折、陶酔と敗北を両義的に生きており、そのあわいに官能の発露がある。往年のバラードに愛と諦念を込めて人生の機微を歌い上げるバーレスクの文法が、形を変えてパフォーマンスに組み込まれているわけだが、次第に抱擁は青ざめたパフォーマンスとなり、彼や彼女らを飲み込む終わらない循環の色を濃くしていく。
バーレスク・ショーの一般の文法に従えばこのクライマックスで終幕を迎えてよいはずだが、本作ではバーレスクが勝利を収めることはない。続く最終場面で「生徒」たちが声をそろえて発するのは、将来にわたっての規範への従属の誓いである。讃美歌のように、あるいは卒業の式典のように、一同が声を発し、最後の照明が落とされる。その一瞬の鋭さと後に続く闇に、小倉笑の批判が込められる。上演はショーの祝祭性と裏腹に、終始どこか冷えた手触りを伴って進められた。創作にかけた時間はわずか2か月だったといい、個々のシーン、とくにダンスのクオリティを上げる方向もあり得た(あり得る)と思う一方、祝祭を歌い上げる文法を応用しつつ破棄し、クオリティの追求よりも現実を照らし出す構図の提示を優先している点が印象に残る。飼い馴らされた日々を問う批判精神が前景化する。