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餓鬼の断食『或る解釈。再構築ver.』、SMILE『 SUPER COMPLEX 』公演評

今、舞台に向き合うということ

森山直人(演劇批評家)
2024.3.1 UP

SMILE 『SUPER COMPLEX』評

撮影:堺 俊輔

 作品を見終わった時、多くの観客の耳奥には、ナット・キング・コールの甘くて深い歌声が消えることなく響いていたはずだ。『L-O-V-E』にしろ、『SMILE』にしろ、誰もがどこかでいつのまにか聞いてしまうスタンダードナンバー。…そう思いながら、座席を立つ前にあらためて目の前の舞台を眺めると、開演時にはさりげなく、けれどもドットのように整然と並んでいたはずの8×6=48脚の折畳イスの群れが、終わってみれば中央のあたりがやや乱雑になり、少しだけ何もない空間ができている。
 小倉笑を含む5人のダンサーは、60分の上演時間を通じて、「ダンスっぽい」優美な動きはほとんどしない。往年のジャズが連想させる甘くてノスタルジックな雰囲気とはうらはらに、5人の衣裳はむしろそっけなく、なかには稽古着みたいな人もいる。彩りある照明の変化もほぼないに等しい。それゆえに、作品冒頭でひとりの若い男が登場し、しばらく観客席のほうをじっと見つめた後、オレンジ色のズボンを半分降ろし、指先をカタカタ震わせながら自分の股間をしげしげと見やる動作に出会ったときには、まさか「大人のジャズ」がしっとり流れる舞台になろうとは、誰も予想しなかっただろう。

撮影:堺 俊輔

 そう。ナット・キング・コールが囁く「愛」や「微笑み」の奥行きや豊かさとは裏腹に、作品全体はむしろ無機的な自分自身を殊更に強調しようとする。だから、2人目のダンサーが整然と並んだ折畳イスをガタガタ押しのけながら、次々に3人目、4人目、5人目を担いであわただしく出てきても、その光景は、ピナ・バウシュの『カフェ・ミュラー』が放っていた「懐かしさ」とは似ても似つかないのだ。『SUPER COMPLEX』の作品としてのキモは、間違いなくこのギャップにある。
 問題は、そのギャップが果たしてうまく成立していたかどうかである。実際、作品の後半では、ジャズの調べに合わせ、赤いジャケットの男の胸に、他のダンサーたちが繰り返し、かわるがわるハグしに行っても、ハグした直後にゆっくりと崩れおち、「愛」は未遂に終わるしかない。中盤には、まるで恋人の身体を褒めるようにイスを褒める場面も出て来るなど、無機的なものの間に生じるエロティシズム(の不可能性)に傾斜する瞬間が、たしかにこの作品には存在する。「男」でも「女」でも「イス」でもいい。そうした「区別」の彼方に成立する「愛」は、せめて「微笑み」くらいは成立しうるのか? …そんな問いが遠くを旋回したまま作品は終わっていく。だが、だとしたら、ナット・キング・コールの甘い歌声が結局は勝利した、ということにならないのか? この作品に固有の緊張度/弛緩度のトーンを5つの身体がもっとテキスチャーとして共有することができていたら、聞き慣れたはずの曲から見慣れない表情を引き出すことも可能になったのではないだろうか? 

 

餓鬼の断食『或る解釈。再構築ver.』評

撮影:堺 俊輔

 劇が始まると、観客はしばらくのあいだ、5人の若い男女が速射砲のように交す関西弁の現代口語演劇のリアリティの渦に巻き込まれることになる。かろうじて聞き取れる場合も、ほとんど聞き取れない場合もある会話の切れ端から、どうやらここが奈良駅の近くにあるリフォームされた古民家の一室で、5人のうちのひとりの住居であるらしいことがわかってくる。5人は地元の進学校を出た幼馴染で、そこそこ高学歴の大学に通っているようだ。ところが、そのうち、どこにでもありそうな会話の「表面」が急速に地滑りを起こし、めくれ上がった剥き出しの「リアルな身体」が、制御を失って暴走する。会話の流れのなかで各々に発作的に起こるそうした「暴走」は、にもかかわらず劇全体のクライマックスを構成したりはせず勝手に終息し、再びもとの日常会話に戻っていく。
 上演前に観客に配布されるドラマトゥルク・ノート(山田淳也)には、「すべての会話、動作は生活の中でふっと現れる虚ろな時間が生む唐突な不安に駆り立てられ、何かの形を求めてしまうところからくる」とある。そこでの不安と会話・動作の関係を、アントン・チェーホフとジョン・カサヴェテスを両極とするグラデーションのなかで考えてみることもできるだろう。チェーホフ劇の登場人物はみな「普通の人々」だが、彼らはみな自分が「普通」であることに無自覚なので、常に一種の「幸福」に包まれている。だが、ひとたび自分が「普通」でしかないことを自覚すると、たちまち「不安」に襲われ、究極的にはカサヴェテスの傑作映画『こわれゆく女』のジーナ・ローランズのように、回復不能な崩壊が到来するのである。――そう考えると、「餓鬼の断食」の川村智基が描く本作は、ちょうどその中間地帯を行ったり来たりしながら、「普通でしかない」ことを持て余している現代人のリアリティを描き出しているといってよいだろう。会話の端々に出て来る「銃撃事件」は、明らかに元首相暗殺テロを意識しているが、5人は一種のテロリスト的不安を抱えながら、テロリストにはなり切れない自分自身の「身体」を持て余しながら生きていくほかない。

撮影:堺 俊輔

 5人のキャラクターの「顔」とたたずまいに、そのような世界を展開するだけの説得力がある。パパイオアヌーや舞踏に関心があるという作・演出・出演の川村は、この作においてはかなりダンス的な表現手法を「壊れそうな身体」の表象に用いているが、これもある程度成功している。最後にひとつだけ付言しておきたいのは、観客席の雰囲気のよさである。若い観客が比較的多いこの日の客席は、5人の登場人物の会話に自然に笑い、引き込まれ、劇場全体がひとつの呼吸につつまれていた。おそらく、この劇団は、「現代人の身体」と正面から向き合いつつ、よい観客層もまた開拓しつつあるのだろう。

  • 森山直人 Naoto Moriyama

    演劇批評家。1968年生まれ。多摩美術大学美術学部・演劇舞踊デザイン学科教授。京都造形芸術大学教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員を経て現職。2012年から2019年まで、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長を務めた。著書に『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文、劇評に、「日本語で「歌うこと」、「話すこと」:演劇的な「声」をめぐる考察」(『舞台芸術』24号)、「メロドラマ」が「メロドラマ」から解放されるとき――上田久美子『バイオーム』評」(関西えんげきサイト)、他多数。

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