「リアルで退屈な日常」の微視的な観察・再現と、身ぶりの反復で濾過された抽象化。対照的な2団体だが、疎外された生の表出という共通項以上に、両者を対比させることで見えてくるものがあった。
餓鬼の断食『或る解釈。再構築ver.』は、観客を置き去りにするほどの速度で展開する関西弁の会話劇。就職という期限が迫るも、いまだモラトリアムのぬるい日常を生きる大学生の男女5人が、雑然と散らかった居間でスナック菓子を食べながら会話し、交わらない恋愛感情が交錯する。弛緩した日常の空虚さを塗り潰そうとする、ハイテンションでハイテンポの会話。速度に加えて、若者言葉のスラングを多用した「会話のタイパ化」も拍車をかける。「えっぐ」「それな」「ガチ?」で相槌が事足りる、反射神経的なスピードの要求。すべてを「台詞」として聞き取れなくてもよい。だって特に意味も内容もない会話だから。「内輪で盛り上がる若者たち」の生態観察に、一見「外部」はない。
だが、たわいない会話の端々に、現代日本社会の歪みが顔を出す。インターン選択の経済的安定思考やブラックな搾取。安倍銃撃事件の影。ほのめかされる部落差別。(おそらく)不況が原因の家庭崩壊と元彼のDV。彼らがこの家で勝手気ままにたむろできるのは「おばあちゃん今施設やから」という台詞に透ける、超高齢化社会だ。さらにこの家の床は傾き、コンクリの基礎にヒビが入っていると建築家志望の女子は指摘する。それは、日本社会の基盤自体の脆弱性や危機のメタファーでもある。
そうした見えない歪みや亀裂は、ジョークや揶揄のつもりで放った言葉に潜む攻撃性となってふいに顔を出し、会話相手を突き刺す。自分の被害者性を語る相手に放つ「お前、ユダヤ人か」。海外に出て建築家のキャリアを築きたいと言う相手の「意識の高さ」を揶揄するような「(課題あるのに)ポテチポテチしてるんか」。遠い他者への差別感情と、近い他人へのディスりが区別なく同居する。
刺すような沈黙はすぐに氷解するが、緊張、抑圧、暴力の痕跡は水面下で蓄積し続ける。それが表面張力となってあふれ、決壊し、身体が暴走する瞬間がやって来る。言葉は吐き出し口を失い、過呼吸の波に飲み込まれ、制御不能になった身体は硬直し、痙攣し続ける。異常性をノイズが加速させる。
日常の微視的な追求が、むしろ制御を外れた逸脱を舞台に呼び込む。既視感にまみれたものを未視へと裂開させる手つきには惹き込まれたが、ラストシーンの「宣言」はジェンダーの点で違和感が残った。「時代は、俺らが作んねん!」という宣言が、ラストのみ「正面」を向いて「台詞」として発せられる。「いきがってる若者」という意図は分かるが、餓鬼の断食を主宰し自身も出演する川村智基が自分で言わず、「マッチョ」の象徴を背負った男子に言わせた点に疑問を感じた。一人だけ身体にぴったりと張り付いた衣装が強調する「鍛えた肉体」という見た目においても、「好きな女の子を経済的に支えたいから公認会計士をめざす」という役の思考回路においても、露骨な差別発言やどぎつい下ネタを披露する点でも、「有害な男性性(Toxic masculinity)」を体現する男子にあえてこの宣言を担わせているとしたら、露悪的な男性中心主義の露呈にすぎない。「時代は、俺ら(=男性)が作る」と明確に宣言する主体の座は相も変わらず男性に占められ、家庭環境とDVという二重の抑圧を受けた女性は、聴こえない叫びに身体を貫かれて痙攣し続ける。
「現代日本の病理」を盛り込み、「建築家志望の理系学生」を女子に設定した点でジェンダーバイアスにも配慮を示しつつ、結局は男性中心主義に回帰してしまったと感じた。群像劇を通して現代日本の歪みや軋みを表出させた本作だが、根底には、言語の主体を当然のものとして男性が占め、女性は疎外されているという、二項対立的かつ非対称なジェンダー構造が温存されたままではないか。
一方、SMILEのダンス作品『SUPER COMPLEX』は、ピナ・バウシュを想起させる執拗な反復によって、バウシュ作品における「男と女」という二項対立や異性愛の世界観をズラし、規範からの逸脱や抵抗としてのクィアネスを開示した。
客席と同じ椅子が規則正しく並べられた、客席を反転させたような舞台美術。ラフな普段着の男性パフォーマーが客席から登場し、首や脚をさする、ズボンをゆっくりずり下ろす動作を反復し続ける。整列した椅子すなわち「秩序の可視化」の空間の中で、淡々とした動作の反復は次第に居心地悪く感じられてくる。そこへ突如、鮮やかな原色の対比の衣装を着た男性が、椅子をなぎ倒しながら人間を肩に抱えて運び込み、椅子に座らせる。順番に運び込まれた3人のパフォーマーは、客席に背を向けたままダミー人形のように無言で座り続け、音楽がかかると痙攣的に身体を震わせ続ける。優雅な麻痺の反復。閑散とした待合室。割り当てられた指定席と、まだ誰も来ない/もう去ってしまった空席。椅子は乱雑に倒され、再び規則正しく並べ直され、あるいは障害物や重荷のように引きずられる。
整然と並べられた椅子と同様、集団的な秩序や規範性を示すのが、淡々と読み上げられる質問事項だ。他人の気持ちを推察できるか、集団生活に向いているか、プレッシャーに対して冷静でいられるか、社交的にふるまえるか…。(使用されたものは発達障害や性格診断のチェックシートだが)個人的には、これらの質問は就職活動で受けた「適性検査」を思い出させ、舞台空間は、規範にかなうか/逸脱するかの選別が下される「就職試験会場」に変貌する。
本作で中心軸を担うのが、えんじ色の上着に花柄のシャツというレトロな配色の衣装を着た男性パフォーマー(菅一馬)だ。口パクで聞こえないつぶやきを発していた菅は、天井から下りてきたマイクを手渡され、独白が観客の耳に届く。「I love boy」「I don’t like boy」「I am boy」「I am not boy」という矛盾するセンテンスの連続により、性的指向も性自認も宣言されると同時に打ち消し合って曖昧化される。あるいは、センテンスの組み合わせにより、複数のセクシュアリティが表明可能となる(例えば、「I am boy」+「I don’t like boy」はヘテロセクシュアル男性を、「I am boy」+「I love boy」はゲイ男性を、「I am not boy」+「I love boy」はヘテロセクシュアルのトランス女性を、というように)。また、菅が無人の椅子に対して、「とってもきれい」「いいシルエットだね」「ここに穴があるんだ」とささやくように話しかけ、ラインの美しさや肌ざわりを称賛するシーンは、女性の身体のフェティッシュな物象化と同時に、物に対して恋愛感情や性的魅力を感じる性的指向「オブジェクト・セクシュアリティ」を示唆する。
そして、「抱擁と別れ」が反復され、強い印象を残す終盤。残り4人のパフォーマーが順番に菅とハグし、力が抜けたようにくずおれ、床に倒れ、這って進むというシークエンスが反復される。女性も男性も、ジェンダー表現が非規範的で曖昧な人(ヒゲがあるが、作中で長髪にカラフルなヘヤピンを付ける)も、菅の身体を通過し、別れては、何度も抱擁を求めて戻ってくる。情熱的に抱き合う、大切なものをそっと抱きしめる、満たされる…。ハグの様々なバリエーションが見えてくると同時に、あらゆる存在を抱擁して受け止めても、なおもこぼれ落ちるものがあることを示唆するようでもある。永遠に反復されるような抱擁と、その腕の中を儚くすり抜けていく別離には、古橋悌二の遺した映像インスタレーション《LOVERS―永遠の恋人たち》(1994)の残響も聞き取れるだろう。「愛」についてのジャズの名曲など本作を彩る楽曲も魅力的だが、ハグの反復シーンで流れる「Smile」は、チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936)のテーマ曲であった背景を知ると、欲望が工場の生産ラインのように果てしなく生み出されていく現代社会への皮肉も見えてくる。だが、古橋の《LOVERS》においても、交差するパフォーマーたちの身体が実体感の希薄な映像であることとは対照的に、観客の身体と物質的に対峙するのは、展示室中央に司令塔のように屹立するプロジェクター・タワーの方ではなかったか。
SMILE主宰の小倉笑はバーレスクダンサーの顔も持つ。本作でもピンクのビキニ、網タイツ、高いヒールに着替え、柔軟性をいかした開脚などショー要素の強いダンスで魅せる。一方、「開脚」は振付として、女性パフォーマーとジェンダー表現がやや曖昧なパフォーマーによって機械的に反復され、ヘテロセクシュアル男性の欲望の中心性をズラしていく。ラストシーンでは、結婚式を思わせる「誓いますか」という言葉が「男女のペア」でなく「男女3人」に対して発せられ、ポリアモリーな関係を示唆するが、ひとり別方向を向いて佇む菅は、「規範からの逸脱という枠組み」のなおも外にいる存在として立ち続ける。バーレスクという「異物」をコンテンポラリーダンスに取り込みつつ、クィアな視座から規範を問う姿勢は高く評価したい。
餓鬼の断食もSMILEも、「次回作も見たい」と思わせる力を持っていた。餓鬼の断食は、一度発表した作品をブラッシュアップしての上演だったことも大きいだろう。昨年度より始まった「演劇スタジアム」の企画が、単に「注目の若手ショーケース」の枠組みを超えて、若手にとってステップアップと研鑽の機会になっていくことを願う。