『想像の犠牲』は、想像力が世界を変容させることに関して、真摯に向き合った上演だった。劇場に入ると、観客席と同規模の階段状の舞台。その下手最上段には長机と椅子があり、そこに客入れ中から出演者らがいる。そして舞台上手と客席の狭間には長机と椅子があり、舞台のミニチュアが置かれている。さらに舞台中央には水が張られた四角い小さな空間と小さめのベッドがあり、人が一人立っている。人の位置や場の構造への意識を呼び起こすような空間の中で、「犠牲が創造する想像」の話を発端に、「舞台を創造する」というモチーフを使いながら、「想像が創造する犠牲」の存在を明らかにしていく。
物語の登場人物は、舞台には登場しない「演出家」、「演出家」の作品に以前出ていた元俳優の土井(油井文寧)と西川(石川朝日)、「演出家」の介添人であった加藤(佐藤駿)と加藤の友人の高木(田崎小春)、そして「演出家」の講義を聞いたロベール(ロビン・マナバット)の6人。舞台には「演出家」以外の5人が居り、「演出家」が書いた『想像の犠牲』を上演しようとする。
この戯曲は、かつて「演出家」がSNSで人が人を殺す瞬間の動画を観た時に、自分が加害者側に重なる「奇妙な恐怖」を感じ、タルコフスキーの映画『サクリファイス』を下敷きにして書いたものである。ただし、一度上演された後に中断しており、今回のロームシアター京都の上演は、その戯曲にかつての出演者たちが注釈を付けたものを使って行われるという設定である。つまり、今回の上演は、人が殺されたという「犠牲」が「想像」を誘発して始まった創造物に対する自己批評的な作品であるといえる。
そのような複雑な設定だが、上演ではさらに「わかりにくさ」が追加された。例えば、註釈と元の戯曲の演じ分けが不明瞭で、舞台上の時制に曖昧さが生じた。また、いくつかの表現上の特徴―例えば抑揚の少ない話法、動作と発話を俳優間で分担する手法、引用に溢れた台詞など―により、演技を観ながら即時的に表象の意味を解釈していくことに、ひっかかりが生じた。それゆえ、観劇直後にはわかりにくさを除外して理解ができた部分から「俳優が役を演じることで生じた犠牲/演技の場のハラスメント構造」を書いた話だと思っていた。
その一方で、観劇後に戯曲を読み、引用されている書籍にあたって「ひっかかり」を解きほぐしていくと、徐々に異なる印象を持つようになった。その「印象を変化させる」ということは、上演内容とも関連する行為であるため、次第に観劇後の観客の能動的な解釈行為を含めて「観劇体験」とみなしていたかのようにも感じられてきた。それゆえ、本稿では劇場内での経験に観劇後に得た知識を追加しながら作品と向き合ってみたい。
上演は「記憶」への言及から始まる。冒頭、土井が上演中の撮影が可能であり、写真をSNSで共有することは自由だと観客に伝える。そして「私たち側の記録に頼るんじゃなしに、何を⾒たのか、⾃分なりの仕⽅でおぼえておく。そのかぎりで、すくなくとも〈恥知らず〉なことにはならないんじゃないか?と思います¹」と言う。ここで土井が使う「恥知らず」という言葉は、大江健三郎の講演からの引用である。大江は、自分がのちに再生したいところだけを記憶する行為が、歴史を一方的に変容させる点を指摘し、それを「恥知らず」だと批判した。そして、「あらゆる一面的一方的な力に抑制されてはならない。抑制される心をこばむことによって、自由に解放された精神において、過去の戦争を記憶しつづけなければならない、未来の戦争を想像しなければならないと思う²」と述べた。この引用元の存在は上演時にはわからないが、このような大江の視点を踏まえると、「一方的な力」からどう自由であるか、という問いから、この劇は始まったとも考えられる。

撮影:滝梓、米川幸リオン
続いて土井は西川に対して、彼が勝手にト書きに無い舞台装置をしつらえた理由を説明させようとする。そこで西川は、「演出家」の創作動機の「奇妙な恐怖」のことなどを土井から聞き、何かの「予兆」を感じたためだと説明する。これは西川が自分の想像に動かされて土井の同意を得ずに行った一方的な変更であり、土井の意思が犠牲になった一例といえる。さらにこの「一方性」と「犠牲」を巡る事案は、次に加藤が『想像の犠牲』を上演してみようと持ちかけることで、演者の身体を媒介にした問題へとつなげられていく。
『想像の犠牲』が下敷きにした『サクリファイス』は、聖書と演劇に由来する「犠牲」と「想像」と「創造」のモチーフが絡まり合った映画で、主役は元俳優で大学教員で批評家のアレクサンデル。彼が核戦争の始まりを知り、自分がすべてを捨てて犠牲者の役を引き受けるから愛する人を救ってほしいと神に祈ったことで、翌朝には核戦争が無かったことになっていた、という筋を持つ。『想像の犠牲』には、映画の筋の中でも特にアレクサンデルが犠牲者の役を引き受けた後の夜の出来事が引用されている。そこでは郵便配達人のオットーが、女中のマリアを魔女と呼び、アレクサンデルに魔女と寝る事を勧めた結果、2人が神秘的な雰囲気の中で同衾する様子が描かれる。そこを引用することで「役をあてがった」オットー、「役を引き受けた」アレクサンデル、「役をあてがわれた」マリアに焦点を当てていく。
劇中劇では、オットーの役をロベールが、アレクサンデルの役を⻄川が、マリアの役を⼟井が演じるのだが、重要な点は、「演出家」が書いた戯曲には「アレクサンデルとマリアが同衾する場面」は引用されていないが、ロベールにより追加される点である。ロベールは土井がマリアに似ているという「一方的」な「想像」で、「西川と寝る場面」を引き受けさせる。最初は拒絶していた土井がまるで人形のように静かになってロベールによってベッドに寝かされる姿は、創造の現場でおきてきた性暴力性を直接的に想起させる。
さらに終盤、アレクサンデル役の西川が、自分が役に似るように感じると言って逃げ惑う様子が描かれる。アレクサンデルは世界を救うために自己を犠牲にするヒロイズムを持つが、彼に似るということは、西川が現実世界でも世界平和には犠牲が付属するという思考を持つことになる。その自己犠牲の思考は、平和のためには他者を犠牲にしても良いという思考と表裏一体であり、非常に危うい。この西川の姿からは人が「役を引き受ける」ことで、その役の影響を受けることの意味を考えさせられる。
このように、ロベールの想像が土井の犠牲を生じ、演じることが西川に犠牲を前提とする思考をすり込む、というように、創造が現実に及ぼす影響が提示されていく。さらにそれは、石原吉郎の詩「Frau komm!」から「演出家」が影響を受けていたという挿話でも示されていく。
石原は、1939年に招集され、日本の敗戦後にソ連での8年に及ぶ抑留の後、1953年に帰国した詩人である。石原の帰国後のノートには「Frau komm!」の主題を「報復ということの、永遠の正しさ。³」としたことが書き残されている。詩は、凌辱されたロシアの少女の報復として、ウクライナ方面軍のフョードルが、ドイツの姉妹ケーテを殺し、エルナを凌辱する様子を描く。そしてそこでは殺害の瞬間にフョードルとケーテは「火のように了解しあい⁴」、凌辱されたエルナの足下の大地には「部厚い了解⁵」があったと記す。
「了解」は報復を肯定しているのではなく、報復の連鎖の中に存在する何かを示唆する言葉と受け取れるのだが、「演出家」の介添人の加藤によると、「演出家」はこの詩を読んでおり、「〈分厚い了解〉という言葉を使って、歴史を把握していたと思う⁶」という。ここでは、現実の戦争経験を経て創造された創作物から第三者が影響を受けることで、報復の概念を内包する歴史認識が生じる様子が示されている。この「演出家」はSNS動画の中の加害者側に自分を重ねた「奇妙な恐怖」を感じたことで『想像の犠牲』を書いたが、その恐怖感には、詩という創造物からの影響も関わっていたのであろう。
このように、戯曲では「現実の犠牲」を経験した人から創造された「犠牲が存在する創作物」が人の想像を触発し、「犠牲が存在する世界」の感覚を人にもたらし、そこから新たな創作や歴史認識が生み出されるという、現実世界と創造世界の「犠牲」を巡る影響関係が提示される。

撮影:滝梓、米川幸リオン
さて、謎解きのように戯曲の解説を行ったが、観劇時は冒頭に述べたように、俳優が役を演じることで生じた犠牲に関する部分が印象に残った。それに加えて、観客席に居ることを強く自覚させられた点も、重要な経験であった。
例えば、上演では劇中劇の場面では客席照明を消し、議論の場面では客席照明を付けるのだが、観客席に座っているとその光の影響で意識が変わった。個人差はあるだろうが、私の場合は客席照明が消えると舞台上の出来事を複合的に理解し解釈しようとし始め、客席照明が付くと舞台上の言葉を聞こうと努力し始めた。他にも、劇中で不意に鳴った音の偶発性につい笑ってしまった後、しばらくしてから劇中劇で死体の側で不意に笑ってしまったことの加害性に関する台詞が語られると、自分の笑う行為が論理の範疇にあるように感じられたりもした。このように、上演を通して自分の感覚の不確かさを再確認させられるような瞬間が幾度もあった。観客席に座ることは、感情を他者のコントロールに委ねる行為なのだということを意識させられた。
さらに、もう一点、上演中に観客に対して語りかける場面や観客席を使って演じる場面があったものの、それらはよくある客席いじりのパロディのように感じられ、演技自体からは観客の能動性を喚起し参与を促すようなエネルギーがあまり感じられなかった点も特徴的であった。上演を通して、あくまでも額縁舞台の向こう側を覗き見するという、近代演劇における観客の役割の上に据え置かれたように思う。それはまた、テレビやスマホの前で受動的に情報を受け取っている状況にも似ていると感じた。そしてそのような観客席には思考や想像でしか関与を許されない不自由さと、想像により新しい理解を創造し始める自由さがあった。

撮影:滝梓、米川幸リオン
さて、ここで、今回の上演『想像の犠牲』自体が、人が殺されたという「犠牲」が「演出家」の「想像」を誘発して始まった創造物だった点に立ち戻りたい。この作品ではそのような犠牲者ありきの世界観で創られた創作物を媒介に想像を広げることの危険性を指摘していたことを考えると、「想像」を喚起させられる観客という役を引き受けることは大変危険なことなのではないだろうか。
上演の最後、役を担ったことで自分のからだが犠牲になったことに言及しながら、土井は次のように述べる。
この上演が終われば、あなたは言葉を忘れ、見たものを忘れ、知っているものを忘れる。また次の上演で、ひとつのからだとして数えられて、加害と凌辱への報復として、加害と凌辱がくりかえされる。それでもその〈分厚い了解〉から、今のあなたは、席をはずすことができる。
だって、そうでしょ?
観劇時にはピンと来ない言葉であったが、今考えると、これは観客の役を引き受けている人々に向けて、その役を引き受けない選択肢があると言われていたように感じる。「分厚い了解」つまり、報復の予兆、復讐の連鎖を前提とした創作物の観客として、「犠牲を前提とした世界」を想像しないこと、そのことで「犠牲を前提としない世界」を創造しようとすること、その可能性を伝えられていたように感じる。
『想像の犠牲』は、創造の場における加害・凌辱の構造を描くと共に、その視点を現実へと広げていく深みを持つ作品であり、さらに観客席に座っていることの意味を考えさせた作品であるといえるだろう。ただ、ここまできて今更なのだが、いままでの私の解釈は、私の創造/想像ではないのか、「恥知らず」なことではないかと逡巡が生じている。少なくとも、本稿は上演で行われた演者の「からだ」の様子を積極的には論じておらず、その側面は抜け落ちている。観劇直後の印象を自分の解釈で変化させたことは、何を犠牲にした行為だっただろうか……。出来事を容易に理解したと思えない堂々巡りの状況に観客を連れ込むこと、そこに本公演の面白さがある。