Dr. Holiday Laboratoriesの『想像の犠牲』を見た。かつて一度だけ上演されて公演中止になったらしいオリジナル戯曲を、当時の関係者たちが演出家不在の状態で復元・再演しようとする、その試行錯誤を描いた作品である。劇中劇にあたる戯曲の題材とされているのは、20世紀ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーが亡命後に撮影した『サクリファイス』(1986年)だ。
かつての上演の復元といっても、当時の戯曲を当時の演出のまま演じるのではない。作品を通じて行われるのは復元作業そのもののアーカイブ化であり、そこには復元の過程における葛藤や議論、さらにそれら議論についてのコメントも組み込まれる。おそらく、今回の新しい上演が映像などに記録されて、失われたオリジナルの代わりにアーカイブに入るのだろう。そして観客には、オリジナルのその劇がいったいどういうものだったのか、最後までよくわからないままだ。
架空の戯曲の架空の上演をめぐる架空の言説からなる演劇。あったかもしれない上演の痕跡をなぞりながら、演出家とはなにか、役を演じる俳優の身体と個人としての人格の関係はどうなっているのかなど、演劇というジャンルの本質を問う。そもそも、何度も言及される『サクリファイス』の主人公アレクサンデルには、俳優だった過去がある。それに、タルコフスキーの映画という外から借用したモチーフだけでなく、劇団の前作『脱獄計画(仮)』(2023年)への自己言及もある。『想像の犠牲』は幾重にも仕掛けが張り巡らされたメタ演劇であるだけでなく、美術批評家のボリス・グロイスが指摘しているようなパフォーマンスと記録の関係における問題が悉く意識されている。演劇と記憶と表象をめぐる思考の旅だ。
『サクリファイス』は、日常生活における核戦争への漠然たる不安を題材としている。『想像の犠牲』ではタルコフスキーに加えて、終戦からスターリンが死ぬ1953年までの8年間ソ連に抑留されていた詩人、石原吉郎の「Frau Komm!」からの引用が戦争と人間の生の文脈を補完する。読者・観客は、演劇の復元の話から、気づけば人間の頭のなかで表象される戦争の話へと導かれている。『サクリファイス』からセリフが数多く引用されるが、意外な文脈に置かれて対話が重ねられることで、引用の枠を超えて、読者と観客への新たな問題提起となっていく。わたしは事前に戯曲を読んだが、テクストとして面白かった。
身近になった戦争に対する漠然たる不安を象徴するのは過去の作品だけではない。演出家がネット上で見たという、住宅街でうしろから軍人に撃たれた男を窓から撮影した動画が、現在起こっている戦争と、戦争非当事者国の住民との意外と近い距離を指し示す。戦争のほかにも、戯曲には公演中止、病、それに演劇における俳優の権利に対する脅威と、異なるレベルの不安が詰め込まれている。コロナ禍や3.11など、われわれにとって比較的身近な災害やカタストロフィーが炙り出す人間社会に遍在する漠然たる不安と、演劇の形式自体への揺るがしを重ね合わせるやりかたは、たとえば岡田利規の作品などにも通じるだろう。
では、この戯曲はどう上演されたのか。
俳優は終始、ニュートラルに、感情を込めずに発話していた。どの役をどの俳優が演じるのかも変わるので、ときにだれがだれだかよくわからなくなりさえする。演技や配置は、物語に絡め取られてしまわないように、意図的に記号化されている。こうして、観客に対して巧みに作品への没入を拒み、批評的、客観的に見ることを強いるのだ。

撮影:滝梓、米川幸リオン
開始から30分近くが経過するまで、客電が落とされなかったことも気になった。客電はその後も繰り返し点灯され、観客の姿は舞台上の俳優にも他の観客にも丸見えだった。観客は上演の場に自分が存在していることを意識させられたし、ひとから見られていることを気にせずにはいられなかった。
上演中、舞台にも観客にも等しく照明が当たっているということは、客席のみなさんも公演に参加していますよ、という合図であり、舞台も客席も対等ですよ、というメッセージとも受け止められる。ただし、この公演で舞台上の人物たちが観客を意識するそぶりを見せる瞬間は少なかった。たしかに俳優が客席に座っていた時間はあったが、少なくともわたしの座っていた中央の席からは、舞台と客席とのインタラクションがあるようには感じなかった。俳優がそばを通ればまた違った印象を抱いたのかもしれないが。
とはいえ客席への直接的な語り掛けがなかったわけではない。芝居が始まる際に、舞台上の俳優から、公演中は好きに写真を撮ってSNSにアップしたり、記録として私的に利用して構わないというアナウンスがなされた。今回の作品のアーカイブに観客を巻き込む仕草だ。また、劇がしばらく進んでから、あとでフライヤーを見ておくようにという指示もあった。
しかし、フライヤーのテクストは極めて読みづらくデザインされていた。それにそもそもテクストを読んで欲しいならその場で時間を取ってもよさそうなものだ。全体として、呼びかけはするものの、あとは観客の自主性に任せます、という姿勢なのだが、どうもわたしにはここで観客の振り分けがなされているような違和感が残った。知的な営みについての指図だけがなされて、サポートがない、と言おうか。もちろん気のせいかもしれないし、そんなものは求めていない観客がほとんどなのかもしれない。だが、はじめてこの劇団の作品を見る者としては、やや突き放されているように感じた。
俳優が巧みに感情を廃し、記号を演じるなか、客電による参加呼び掛けにもどう応えてよいのか見えず、結果として、腰が痛い、お尻が痛い、うとうとしているひとがいるなど、自分や周りの観客の身体に意識を持っていかれる時間が、すくなくともわたしには(もちろんずっとではないが前半一時的に)生じたことは記録しておきたい。観客の素直な反応もアーカイブされるべき要素であるはずだから。そもそも、過去に一度上演された作品を「アーカイブ上演」するという建て付けにもかかわらず、当時の観客にかんする言及が、アンケートの回答に触れた一瞬しかないのは残念だった。なお、後半で抑制されたなかにも感情の起伏を繊細に示した石川朝日をはじめ、俳優たちはみな健闘しており好感を持った。

撮影:滝梓、米川幸リオン
さて、わたしが観劇した日のアフタートークには、ダンス界から倉田翠氏がゲストに招かれていた。彼女が、俳優の記号的な動きに困惑を示しつつ、この作品のなかで唯一自分との生きたつながりを感じられたものはケンタッキー・フライドチキンだった、と語ったのは記憶に残った。ケンタッキー・フライドチキンは、終盤の重要な場面で銃に見立てられ、大きな役割を果たす。倉田さんは、ケンタッキーなら、どこの店舗で買ったのかに想像を巡らせることもできる、銃に見立てられるようなかたちのチキンを、俳優がどうやって咄嗟に容器のなかから選んでいるのかも気になると言っていた。身近な感覚を媒介する優れた小道具についてのこの指摘は、身体言語を操るひとらしい鋭い発言で面白かった。
ところがわたしは銃に見立てられたものがチキンだったことに気づいていなかった。映像を見直したところ、たしかに銃がチキンの骨と交換されるシーンがある。わたしの視力では判別が厳しかったようだ。

撮影:滝梓、米川幸リオン
だが、ほんとうは、わたしは別のことに気を取られていたのだ。
上演の終盤、映画『サクリファイス』において、核戦争の問題が主人公アレクサンデル個人の問題に収斂することに対して俳優が疑義を呈し、一連の議論が交わされる。核戦争がついに始まったことをテレビで知ったアレクサンデルは、若い使用人のマリアと性的な関係を持てば世界が救われるという、隣人のとんでもない予言に取り憑かれ、実際に世界を救おうと試み、最終的には自分と家族の生活を物理的に破壊してしまう。
——あれはなんだったのか。タルコフスキーはなにを言いたかったのか。女性の立場から考えるとひどい妄想だ。それこそが「犠牲」なのか。なぜあの作品はあんなにも評価が高いのか。映画を見直さなければ——そんなことを考えているうちに芝居は終わっていた。つまり、わたしはこの劇にまんまと誘導されて、「想像の犠牲」についての思考にはまってしまっていたわけだ。タルコフスキー作品はだいたい見ていて、しかも2022年2月以降、「戦争」の文字が頭から離れるときがほとんどないわたしには、その想像はとてもリアルだった。
ひとは、いろんなきっかけで想像を膨らませ、思考を巡らせる。日常生活のなかでなにかを考えてしまうこと——それこそがこの作品のテーマだったのではないか。たくさんのコンテクストが張り巡らされたこの作品は、きっかけさえつかめれば、様々な角度から考える種を得られるものだった。そうしたフックが増えたら、観客はもっと広がるはずだ。今後の活動に期待したい。