わたしは今回、『ムーンライト』のドラマトゥルクという立場で、仕込み、ゲネプロ(通し稽古)、一回限りの上演を、観客席から見た。作品の内容にはほとんど関わっておらず、現場に立ち会わせてもらったに過ぎない。その場所から言えることを残しておきたい。
『ムーンライト』という作品は、出演者である中島昭夫が亡くなったために、いわば主人公が不在になり、しかし上演の流れは生前のままだった。演出の村川拓也が舞台上の中島にインタビューを行ない、中島が答え、人生の節目に聴いたクラシック音楽の話題になると、様々な年代の女性のピアニスト(中島とは無縁の、おもに上演地域の方たち)が舞台に現われ、その曲を演奏する。最後に、中島の人生で重要だったベートーヴェンの「月光」を中島自身が弾くが、病でほとんど見えない目ではなかなか弾き切れず、かつてスタインウェイのショールームで演奏した映像(中島の親類が撮影したもの)が流れて、作品は終わる。
中島はもういないので、村川は不在の椅子に問いかけ、返事は返ってこない。中島がいた頃と質問は変えず、ただ観客に出演時のことが伝わるように、言葉を補足していたと思う。最後に中島に演奏してもらうことはもうできないので、生前の公演の録音が流れた。
作品の詳細については、これまでや今回の上演に関する佐々木敦や高嶋慈の優れた公演評[編集注1]を参照していただければよくわかる。わたしは少し異なる側面を残したい。
『ムーンライト』の現在のヴァージョンは図らずも不在を巡る作品となった。観客は舞台上に不在を感じ、不在について思いや考えを巡らせたことと思う。その不在は死ではなく、技術と演出によって知覚可能となっていた。これがわたしの伝えたい最初のことである。
村川と『ムーンライト』の技術チームは、一つひとつの場面を厳密につくっていた。照明によって舞台上のある部分を「浮かせる/浮かせない」、「シマ」をつくる、「孤独」といった言葉でやりとりを重ねながら、誰もいない、無人の舞台のために、絶え間ない判断と決断の重なる、膨大な時間をかけていた。そこにどのようなタイミングで写真や映像が入り、どれくらいの音量でマイクの声やピアノの音や録音された音声が流れるべきか。どれくらいの光を当てれば不在が見え、感じられるようになり、どれくらいだとやりすぎになるか。それを判断するための基準、根拠地は、村川と技術スタッフの、時間の堆積した身体だった。
観客が不在を感じ、考えたのは、ただ出演者が亡くなったからではなく、中島を知っていた者たちがその不在に対してそれぞれの技術と記憶を傾け、不在をかたどったからである。そのように技術を用いて、演出することで、観客が何かを思い、感じるようにするということ、つまりそれは操作だが、には、一体どのような意味と価値があるのだろうか。
第二に、この作品は幾重もの意味で残酷だったと思う。まず、もはや了解を取り、合意を得ることのできない相手である死者を、生前と同じ形式で演劇作品に使っている。中島の遺族が肯定的であるとしても、それはやはり鎮魂などではなく、残酷なことでもあると思う。死んでしまったから残酷になれる/なってはいけないというはざまで作品は生まれていた。そして観客席から死者の不在を眺め、消費する残酷さ。同時に、人が死ぬことを観客席にいながら思い知らされる残酷さ。さらに無人の舞台を延々と準備するチームの労働の残酷さ。
残酷さ、あるいは「申し訳なさ」のようなもの、それがこの世界からきれいに消え去ることはあるのだろうか。残酷だけれど、申し訳ないけれど、こういうことをせざるをえない、あるいは、こういう芸術作品をつくりたい、見たい、という気持ちが、この世界からなくなることは、おそらくないだろう。しかしもちろん許されることと許されないことがある。『ムーンライト』は、あるいは村川の作品は全て、絶対によきこと、正しいこととして許されているものの側でつくられているのではなく、どうしても消せない残酷さ、申し訳のできない関心、それでもあるいは許されるかもしれない、とても細い線のようなもの、その経験である。たとえば、故人に捧げるような、鎮魂的で感傷的な作品をつくるとしたら、それは許され、また正しいこととされるかもしれないが、そちらの方が著しく非倫理的であり、ぎりぎりの残酷さの方がむしろより倫理的であるということが、あるのではないだろうか。
上演に使われる中島の持っていた古い写真の中の人びと、再生されるカセットテープの声の主が、今も生きているのか、わたしたちにはわからない。図式的に言えば、この作品は舞台上の人の声・身体・演奏される音楽と、写真・録音・映像の対照、つまりパフォーマンス(遂行)とドキュメント(記録)の対比をふくみ、両者の接続を生んでいた。一瞬、スクリーンに映る中島の娘と、舞台上でピアノを演奏する女の子がつながるような瞬間がある。無縁で異質なもの同士に、言葉にならないつながりが生まれること、これが第三点である。
村川が舞台上の不在の中島に問いを投げかける。だが答えは返らない。舞台は沈黙する。わたしたち観客は沈黙しながら、この舞台上の沈黙を聴く。あいだに音楽が挟まることで、わたしたちは音楽を聴くように沈黙を聴き、舞台と客席は、沈黙をつうじてつながる。それは観客席の、みずからと周囲の沈黙を聴くことでもあり、沈黙している観客同士にもつながりや、まだらな編目のような感覚が生まれてはいなかっただろうか。わたしは、『ムーンライト』というこの作品を通して、なぜ音楽が存在するのか、また演劇の観客はなぜつねに沈黙しているのかが、少しだけ理解できたような気がする。演劇は、音楽の助けを借りて沈黙へと向かい、舞台上の声を聴くだけでなく、舞台上に聴こえないものを、沈黙を聴き取り、無縁で異質な観客同士が沈黙においてかすかにつながりうる実践なのではないか、と。
しかしこの不在、残酷、沈黙を、わたしたちは一体なんのために経験したのだろう? 舞台上で起きていることを、あたかも自分が存在しないかのように、透明であるかのように、観客席から一方的に見て、黙ったまま、どう感じ、考えているかも知られないようにしながら、ひそかに楽しむという演劇/劇場の構造は、社会の悪しき原型であり、基盤であるとも言える。しかし舞台と観客席には、無縁で異質なものたちが、無縁で異質なままにつながる可能性がまだ眠っているのではないか。言葉ではつながることのできない無縁で異質なものたち同士が、沈黙においてつながること、それが舞台と客席の、劇場の可能性ではないか。
今回の舞台にはもう中島はいなかった。しかし、それでも不在の椅子に問いかけ、かつての中島の答えを取り入れながら言葉を続けた村川は、もはや少しだけ、すでに中島に「なっている」ように思われた。あるいは舞台上の村川は中島とつながっているかのようだった。最後に流れる映像の中で「月光」を弾くかつての中島、目を瞑ったまま演奏するその姿は、ベートーヴェンとじかにつながっているように感じられた。そうしたこと全てをわたしは2018年に中島が出演した初演では思わなかった。不在になり、沈黙した今、普段は決してつながらないものがつながる、その根本的な可能性を経験できる時間が生まれた。目の前の不在を、自分が過去に経験し、内側に秘めている不在とつなげた観客もいただろう。
そしてそれは、この作品が「ドキュメンタリー」だったから、ではない。たとえこの作品の全てが嘘だとしても、つまり中島の人生や物語が全て虚構だったとしても(もちろん虚構ではないが)、ここで経験=意識化されたものは確かだ。それは感覚の絶対化ではなく、「信じる」ということを括弧に括り、「信じる」という形式の消費を放棄したあとに、何を確かなものとして、一つずつ積み上げていくことができるのかを、演劇が問いかけているということである。極端に言えば、中島が亡くなったということが本当かどうか、観客は知らない。わたしも知らない。もしかすると嘘かもしれない。全てが嘘かもしれないし、村川の演出で、演技かもしれない。それでも、技術と演出は不在を見せたし、音楽は美しく、残酷さはそこにあり(本当かどうかわからないという残酷さがつけ加わりさえするかもしれない)、舞台と客席には沈黙があった。その中で、たとえばわたしは、沈黙と沈黙がつながる経験をした。
人の死でさえ、それが確かに存在したと第三者に伝えることは難しい。だから全てを信じられず、フェイクと主張する者も出る。事実は事実として「知る」ことができなければならないが、しかし「知る」ことができないことについては、信じる/信じさせるのではなく、自分の仕方で、自分の経験としてつながり、それを積み上げていくしかないのではないか。わたしが『ムーンライト』という作品から事後的に考えたのは、そんな当然のことだった。村川拓也ほど「ドキュメンタリー演劇」から遠い作家はいない。村川は観客に作品の外にある前提を信じさせ、それを基準に鑑賞させようとしない。むしろ残酷なまでに舞台を観客席の一人ひとりの経験に委ねている。わたしは、村川の作品が形式として最も強く発信している主張は、そんなに簡単に信じないでほしい、目の前で起きていることを確かめてほしい、というものだと、今回あらためて思った。不在の椅子に語りかけ、声にならない沈黙の返事を舞台と観客席が共有する、しんとした時間は、わたしには雪の夜のようで、美しかった。