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芸能の在る処 〜伝統芸能入門講座〜 落語編 レポート

上方落語の現在を、寄席の「場」と「空間」から考える

文:山口紀子
編集:儀三武桐子、成瀬はつみ(ロームシアター京都)
2024.11.20 UP

演目の定期的な上演から若手継承者の育成に至るまで、日本の伝統芸能にとって専門劇場が果たす役割は大きい。ロームシアター京都が主催し、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一氏が案内人を務める「伝統芸能入門講座〜芸能の在る処〜」は、こうした芸能を育む場としての専門劇場に光を当てた講座シリーズである。3年目となる2023年度の2回目は「落語」をテーマに、11月17日(金)にロームシアター京都ノースホールで開催された。落語作家の小佐田定雄氏、上方演芸・上方喜劇の研究者 古川綾子氏(大阪樟蔭女子大学国文学科准教授)をゲストに、専門劇場である「寄席」の変遷や、現在の上方落語を決定づけるターニングポイントとなった戦後の復興やその功績などが紹介された。講座は3部形式で行われ、第1部は古川氏のレクチャー、第2部は小佐田氏と木ノ下氏の対談、第3部は三者によるクロストークが行われた。

 

第1部:古川綾子氏レクチャー
寄席の変遷から見る上方落語史—興隆と低迷、再生まで

古川綾子氏

 第一部は古川綾子氏のレクチャーで、上演空間である「寄席」の視点から、上方落語のはじまりから現在までを総覧した。古川氏によれば、上方には「落語がある空間としての“寄席”」と「実際に落語が行われる場=常設劇場としての“寄席”」の2つが存在しているが、上方では戦後長く、このどちらも存在しない状況が続いてきたという。講義ではこの寄席の復活こそが悲願とされてきた背景、復活への歩みも紹介された。

 はじめに落語の歴史を簡単に振り返った古川氏。戦国時代の「御伽衆(将軍や武将の側近として、話し相手となった人)」に起源があり、滑稽話や人情話を収めた『醒睡笑』を著した説教僧の安楽庵策伝(1554-1642)が落語の祖とされること、さらに、寛永〜元禄年間(1624-1704)に京都・大阪・江戸でほぼ同時発生的に、プロ落語家の祖とされる3人が登場したことが紹介された。大阪で活躍した米沢彦八は生玉神社を拠点に活躍し、近松門左衛門の浄瑠璃作品に登場するほど人気を誇っていたという。上方で定席としての寄席がはじまったのは、さらに時代が下った寛政6年(1794)頃。初代 桂文治が本町の坐摩神社(いかすりじんじゃ)を拠点とし、鳴り物や大道具を用いた芝居咄を披露し、人気を博したという。

 「上方落語の黄金期」とされるのは、明治20年代後半〜明治45年頃。二代目 桂文枝が率いる「桂派」と、桂派に反目し旗揚げされた「浪花三友派」が競合するなかで、演者の技量や落語のネタが磨き上げられたのがその理由だという。当時は両派それぞれが定席を持ち、「各派に属する芸人のみ」が出演を許されていた。つまりこの時期に、上方特有の興行形態(興業会社ごとに劇場を所有し、所属芸人がその劇場を使う)が確立したと古川氏。当時の寄席の写真もいくつか紹介された。

 なお、明治末から大正期になると、落語の人気は色物や漫才に席巻され、徐々に低迷が始まっていく。最初に人気を博したのは「色物」(音曲や曲芸、奇術、踊りなど)。地方から労働者が多く集まった当時の大阪では、分かりやすくかつ安価な色物が受けやすかったためである。漫才は明治末から寄席に進出し、大正期に寄席の演芸として定着。昭和10年代以降は、ついに漫才の小屋が寄席の多数を占めるまでに発展した。この背景には、大正時代以降、吉本興業が上方の寄席興行を掌握したことも影響していたようだ。

 やがて戦災で大阪の寄席が消失すると、上方落語は激動の時代へ。一時は消滅の危機に瀕したものの、戦後に先人の逝去で世代交代が進むと、一気にスターダムを駆け上がった若き「上方落語の四天王」が救世主となり、奇跡の復活へ向けて歩み出した。その4人とは、昭和22年(1947)に入門した、六代目 笑福亭松鶴(当時29歳、松之助)、 三代目 桂米朝(23歳)、三代目 桂春団治(17歳、小春)、五代目 桂文枝(17歳、あやめ)。さらに1950年代以降は、落語とテレビ・ラジオ局との結びつきが強固になり、落語家が番組パーソナリティとして活躍。さらに、放送局が落語を上演する機会【空間としての寄席】を創造していったと古川氏。1960年代以降は、四天王門下に次々と弟子が誕生し、三代目 笑福亭仁鶴、六代目 桂文枝(当時、三枝)らが「落語家タレント」としてアイドル的人気を獲得。1970年代にはついに、上方落語ブームが到来することとなった。

 古川氏によれば、戦後長らく落語専門の定席がなかった上方で、寄席復活の気運が高まったのがこの頃。1972年、心斎橋の島之内教会で月例の落語会「島之内寄席」が始動した。島之内寄席は専門劇場でこそなかったが、まずは【空間】として“落語専門の寄席を復活させる”という、上方落語界の積年の悲願が叶った瞬間であったと古川氏。その後30年以上の時を経て、2006年に誕生した定席の寄席「繁昌亭」(=【場所】としての寄席)も紹介された。

 講義の最後に古川氏は、上方落語の復興に絶大な貢献をした桂米朝の功績をあらためて紹介した。品格豊かで柔らかな語り口、古典芸能にも精通していた大名人の魅力は広く知られているが、米朝が1968年からホール落語の全国巡業をはじめたことが、上方落語の全国的な知名度を上げることに寄与したと言及。また、古川氏は現在の上方落語の状況として、3軒の寄席(繁昌亭/大阪、喜楽亭/神戸、動楽亭/大阪・桂一門の専門寄席)が稼働していること、1957年にわずか22名だった落語家が、2023年時点で281名まで増えてきたことを紹介。数字だけでみれば現状は活況といえるが、客席の稼働率もふまえた上で現実的にとらえていくことが、上方落語の継承にとって不可欠であろうと語った。

 

第2部:対談 小佐田定雄氏 × 木ノ下裕一氏
上方落語に魅せられた作家、小佐田定雄の魅力を解剖!

小佐田定雄氏

 第2部では、小佐田定雄氏と木ノ下裕一氏の対談が行われ、落語作家として数々の新作の創作や、滅んでいた古典落語の復活を手がけてきた小佐田氏のこれまでの歩み、創作への想いが明かされた。小佐田氏の朗らかな大阪弁とユーモアたっぷりの語り口に会場の誰もが引き込まれ、笑いがあふれる一幕も。名だたる落語家のブレーンとしても活躍してきた小佐田氏ならではの名人とのエピソードも飛び出す楽しい時間となった。

 まずは古川氏の講義について、「落語の寄席を“空間”と“場所”の2つの視点から分類した試みが画期的。落語の起源から明治の黄金期、昭和初期の大大阪だいおおさか時代の影響も受けた時代、戦後の再生期、現代までを分かりやすく総覧したダイナミックな講義だった」と振り返った木ノ下氏。続いて、1977年に落語作家としてデビュー以来、270本以上の新作を執筆し続けてきた小佐田氏本人から、自身と落語との出会い、作家になるきっかけとなった三代目 桂米朝、二代目 桂枝雀との出会いにまつわるウラ話が紹介された。

 小佐田氏が落語に魅了されたきっかけは、青年時代に聴いた深夜のラジオ放送。気鋭の噺家たちの軽妙なトークに魅了され、番組で告知された寄席に行くことで、深みにはまっていったそうだ。進学した関西学院大学では、古典芸能研究部に所属。米朝師と縁のある部で、当時ほろびかけていた寄席囃子に興味を持った小佐田氏が、教えを請う手紙を書いたことから交流がスタート。豊富な知識と深い落語愛にあふれた米朝師から、折にふれて薫陶を受けたという(「ラジオに葉書を書いてきてた子は、あんたかいな」が、初対面でかけられた言葉だったそう)

 そんな小佐田氏の落語作家としての処女作は、桂枝雀師に書き下ろした『幽霊の辻』(1977)。当時は一ファンとして、枝雀師の新作落語の会に通っていた小佐田氏が、台本を郵送したところ採用されたという(枝雀師曰く、「えらい作家の先生の書いた台本は難しすぎるし、漫才作家さんの書いた台本は落語になってない。あんさんのは立派すぎもせず、あかんすぎもせず、ちょうどええ加減でよろし」)。これがきっかけとなり、落語作家の道が開けたそうだ。

 一方、木ノ下氏は、自身も大ファンだと語る小佐田氏の長年の功績を3つの角度から紹介。ひとつ目はもちろん、「落語作家」として数々の新作を生み出し、新作落語の地位向上に貢献してきたこと。2つ目は「落語家たちの同伴者」としての側面だ。観客からは見えづらい仕事だが、小佐田氏は長年、落語家たちのブレーンとしてネタや演出の相談に乗ったり、さらに人手が足りない時には鳴り物を担当するなど、裏方で上方落語を支え続けてきた立役者でもある。特に米朝一門との関係は深く、一門にとっての“頼れるもう一人の兄さん”のような存在に。小佐田氏本人も、長く活動を続けるうち「一門の“喋らない落語家”として受け入れてもらえるようになりまして」と笑顔で振り返っていた。

 3つ目は、小佐田氏の「上方落語界の記録者」としての貢献だ。木ノ下氏は、初期の著作『上方落語 米朝一門 おさだまり噺』(弘文出版)、及びちくま新書の舞台裏シリーズ4部作(『枝雀らくごの舞台裏』『米朝らくごの舞台裏』『上方らくごの舞台裏』『新作らくごの舞台裏』)を例に挙げながら、小佐田氏が米朝一門や上方落語にどのような芸があり、どのような可能性があるのかを丁寧に俯瞰し、細やかに記録してきたことを紹介。しっかりと客観性を保ちつつも、長年、噺家の傍で彼らの日常を目撃してきた小佐田氏だからこそ綴ることができた唯一無二のアーカイブであり、上方落語における貴重な財産であると絶賛した。

 これを受けて、小佐田氏はこうした記録の元のひとつとして、京都で定期的に行われる「桂米朝落語研究会(落語会)」*1を紹介。反省会では、米朝師が一人ひとりの弟子に懇切丁寧に指導していくのだが、「てにおは」にはじまり、上方文化も包含するその内容の深さに魅せられ、「これは記録に残すべき」という思いが芽生えていったそうだ。

 今では狂言や文楽、歌舞伎にも新作を書き下ろしている小佐田氏だが、その理由はあくまで「落語界のため」と小佐田氏。お客さんに落語の世界を知ってもらいたい、再び落語ファンを増やしたいという思いが自身の原動力であるという。また、「新作落語を書く以上、古典落語に出会う入口にならないと意味がない。高尚で上等なもんではなく、 “落語はこんなもんでっせ”というところを見せるのが自分の仕事」「自分の作品にアドリブを加えて演じられるのもうれしい。多くの人に自由に育ててもらって、長く愛される作品になれば」とも語り、言葉の端々に落語への深い愛をにじませた。「作家としての自我や成功よりも、落語の楽しさを広めることを一番の喜びとされているのが小佐田先生らしい」と木ノ下氏。小佐田氏が多くのファンに愛される所以が、随所に垣間見える対談となった。

*1 桂米朝落語研究会は、京都で定期的に開催中。

 

第3部:クロストーク
小佐田定雄氏 × 古川綾子氏 × 木ノ下裕一氏

左から木ノ下裕一氏、小佐田定雄氏、古川綾子氏

第3部では、第1部の古川氏のレクチャー、小佐田氏×木ノ下氏の対談を元に三人によるクロストークが行われた。それぞれに思い入れの深い桂米朝氏とのさらなるエピソードが明かされたほか、上方落語の未来について真摯な思いも語られた。ここではトークの一部を抜粋・編集し、紹介する。

「上方四天王」の奇跡のバランス

——上方落語は“戦後に一度滅びかけた”と一般に語られるが、実際は一度滅んでいたものを四天王が復活させた、と見る方が現実に近いのではないでしょうか?(木ノ下氏)

古川:個人的には、「滅んで復活した」というよりも、四天王の登場により、落語が新たに生まれ直した(リボーン)ととらえています。現在は、戦後に人気を博した四天王の落語を「純粋な古典」だと思って聴いている方が多いが、実は違う。主には米朝師匠が、上方ことばに絶妙な注釈をつけて「わかりやすさ」を広めたものが、今日まで受け継がれているんですよね。

小佐田:確かに、現在の落語は米朝以前とは違う。それほどに、四天王が非常にいいバランスを保ち、進化をもたらしたからでしょう。四天王(笑福亭松鶴、桂米朝、桂春団治、桂文枝)のうち、三人はネイティブの大阪人(松鶴、春団治、文枝)。一方、米朝師匠は姫路出身で、東京の大学で学んだ背景もあり、上方落語をある種客観的に見ていたところがあった。そして、松鶴師匠が大阪を拠点として「王道の上方落語」にこだわるなか、自身はわかりやすい落語を携えて全国巡業に進出していったわけです。「この落語面白いでしょう? 次は、大阪にきてみなはれ」というのが米朝師匠の本心。互いに言わず語らず。でも二人は自分のすべきことがわかっていたんですね。

古川:四人の関係性としては、少し年上の松鶴と米朝の両氏が、年若い二人を引っ張る構図でしたね。皆さん人格者として知られていますが、上方の衰退は切実なもので、きっと仲が悪くなる余裕すらなかったのでしょう。以前、米朝師匠が遺した資料整理に携わった際、東京時代の寄席通いの記録をたくさん拝見しました。師匠は寄席文化研究家の正岡容の弟子でもありましたが、資料を見ていると、もし戦争が起こらず、上方の衰退がなければ、大学卒業後も東京で正岡の下に留まったのではないかと痛感させられた。もしかしたら、上方の衰退を目にするなか、使命感から落語家になったのかもしれないとすら感じました。

木ノ下:古川先生の講義で「空間」と「場所」としての寄席のお話がありましたが、ここでも同じことがいえますね。松鶴師匠は島之内寄席などを拠点【場所】として上方の伝統を守り、米朝師匠は全国巡業やメディアで活躍し、【空間】しての寄席を開拓した。この2つがなければ、劇的な復活はなかったかもしれません。

——米朝師匠に誤算があったとすれば、松鶴師匠が早くに亡くなられたことはないでしょうか。きっと、背負うものも変わられたことでしょう(木ノ下)。

小佐田:米朝師匠は、一門にこだわらずいろんな師匠の噺を教えてもろてましたからね。一門の壁を越えて、「とにかくネタを残そう」という想いからでしょう。松鶴師匠の十八番に『らくだ』がありますが、実は米朝師匠が高座にかけたのは50代に入ってから。思うところがあったのだと思います。

木ノ下:このとき、米朝師匠はあえて松鶴師匠とは違う系統の『らくだ』を選ばれていますよね。「あの『らくだ』は、笑福亭のもの」と敬意を払った上で、違う形でネタを残そうと尽力されたのだと思いました。米朝師匠といえば、自分の持ちネタを惜しげなく、後進に譲られていますよね。有名なのは、春団治師匠とのお話でしょうか。

小佐田:春団治師匠が歳で襲名するにあたって、ネタが少なかった春団治師匠が米朝師匠に教えを乞う「親子茶屋」「代書」「皿屋敷」などの自分が得意にしていたネタを春団治師匠に伝えたんです。それ以来、伝えたネタは自分では高座にかけるのをピタリとやめはりました。後に、春団治師匠の得意ネタになっているのを見たときには、「こっちがええな。渡してよかった」と心から喜んでいました。米朝師匠ほど、落語を人に教え、伝えるのが好きな方はいないでしょうね。

木ノ下:今日のお話を聞いて、伝統芸能を次世代に伝えていくためには、自身の芸を磨くことはもちろん、少し広い視野で芸能全体を見渡し、「自身が今できることは何か?」を考えて動くことも大事だと感じました。それが芸能のためにも、自身の成長にもつながっていくのだと思いました。

これからの上方落語は安泰か?

——お二人は、上方落語の未来はどうなると思いますか。安泰といえるでしょうか?(木ノ下)

小佐田:上方落語には黄金時代があったとはいえ、元々天下とるほどの芸じゃない。名人のDVDも残っているし、これからも低空飛行で墜落しないくらい程度には続いていくでしょう。ただし、平和な時代が続く限りという条件付きで。平和が失われると、笑いの芸は簡単に壊れてしまいますから。

古川:今後も上方落語は残っていくと思いますが、既に大衆芸能ではなく、古典芸能になりつつある。大衆芸能ではないものとして、どう残っていくかに関心があります。若い世代の落語ファンを本気で育てないと、人気は弱まっていく一方でしょう。かつて、深夜のラジオ放送で噺家が若者の心をつかんだように、何かアイデアがあるとよいのですが。

小佐田:落語には、聴く人自身の想像力が要される。まずは音楽ライブと同じ感覚で寄席にいって、生のライブ感や噺家の息づかいを感じてほしいですね。「今から主人公はどうするのだろう?」と、オンラインゲームやバーチャルリアリティにも似た没入感が高まって、ストーリーをより楽しんでもらえると思うのですが。もしかしたら「来い来い」と宣伝するより、「こんなおもろい贅沢、若い人に教えんとこ。我々だけの秘密にしょ!」という風に、逆に引いてしまった方がいいのかもしれません。

木ノ下:「観てはダメ」と言われるほど、気になるものですからね。僕は小学生のとき、地域寄席で大人に混じって落語を聴いたのですが、この時に感じた優越感や興奮が今も記憶に残っています。ちなみに当時の演目が、露の五郎兵衛師匠の『目薬』。「これ、絶対自分が聴いたらあかんやつ」だと……(笑)。

古川:ファンを増やす上で、最初に出会う演目も大事だなと思います。私の大学の授業では、あえてわかりやすいものではなく、小難しいものも学生に見せるようにしているんです。小佐田先生作の『貧乏神』もよく見せるのですが、「洗濯のモノローグのシーンにびっくりした」「あそこで違うものが見えた」など、上がってくる学生の感想が面白いんですよ。それから、学校寄席の授業で、安易に小学生にわかりやすい落語を見せることも個人的には反対です。落語って強要する文化でもなくて、中高生くらいでなんとなく知ってしまって「なんやなんや?」とワクワクするくらいでいいと思うのですよね……。

小佐田:確かに、国民の8割が落語好きというのも、ろくな国じゃあない(笑)。

木ノ下:あえて初心者に、『けんげしゃ茶屋』くらい(ブラックユーモアが効いた)演目を見せるくらいの気概があってもいいのかも。

小佐田:以前、桂吉弥さんがを対象にした落語会で『蛸芝居』という歌舞伎の真似をする落語を演じて、すごくウケていましたよ。歌舞伎であることはわからなくても、なにかの真似をしていることは子どもにも伝わって面白かったのでしょう。

——現在、関西には3軒の寄席があります。技を磨く「道場」が常にあるわけで、若手にとっては恵まれた状況です(木ノ下)。

小佐田氏:寄席があるのはありがたいことですが、ここに安住してほしくはないですね。あくまでここは、お客さんが上方落語やいろんな噺家と出会う「ショーケース」的な場にすぎない。ここで満足してしまうと、噺家同士が馴れ合いになったり、足を引っ張りあって、タコツボ化してしまいますから。むしろ、ここから飛び出していく力を養って、独演会や落語会のような自分の看板で勝負していってほしいですね。

古川:私はお笑い芸人のライブにも行きますが、こちらの方が互いに鎬を削るような、ヒリヒリした空気が流れている気がします。寄席も以前はもっと刺激的で、アナーキーな雰囲気すらあったのですが。観る側の年齢層の問題かもしれませんが。

木ノ下:ネタについてはいかがでしょうか。米朝師匠による「ネタの再構築」があまりに素晴らしく、絶妙な補足やオチの変更が行われているため、ネタが大きく更新されにくい状況もあると思うのですが。

小佐田氏:おっしゃる通りです。ともすると、マクラから丸ごとコピーしてしまう噺家も出てきかねない。誰もが「ミニ米朝化」してしまうと、落語に発展はありません。米朝師匠のネタがウケるのはわかるけれど、そこから離れる勇気も必要でしょう。

木ノ下:皆さんのお話を伺うと、やはりここでも、古川先生が講義で語られた寄席の「場所」と「空間」の両輪を持ち続けることが大切になってきますね。「場所(定席)」を大切に守る一方で、新しい「空間」としての寄席を自ら切り拓き、攻めの姿勢を持ち続けることが、上方落語の未来につながるのだと思いました。本日はありがとうございました。

*当原稿に掲載されている画像はロームシアター京都が著作権者より許諾を得て使用しているものです。このため、当館および著作権者の許可無く、著作権法および関連法律、条約により定められた個人利用の範囲を超えて、複製、転載、転用等の二次利用はお控えください。

  • 上方落語の現在を、寄席の「場」と「空間」から考える
    小佐田 定雄 Sadao Osada

    落語作家。1952年、大阪市生まれ。 77年に桂枝雀に新作落語『幽霊の辻』を書いたのを手始めに、作った落語の数は260席を超えた。近年は狂言、文楽、歌舞伎、講談、浪曲の台本も執筆。著書は『新作らくごの舞台裏』(ちくま新書)など多数。2021年第42回『松尾芸能賞優秀賞』受賞。

  • 上方落語の現在を、寄席の「場」と「空間」から考える
    古川 綾子 Ayako Furukawa

    1973年兵庫県生まれ。大阪大学大学院単位取得退学。大阪府立上方演芸資料館学芸員、国際日本文化研究センター助教を経て、現在、大阪樟蔭女子大学国文学科准教授。研究テーマは上方演芸・上方喜劇の近現代史とアーカイブ。著書に『上方芸人自分史秘録』(日本経済新聞出版社)。芸術選奨文部科学大臣賞選考審査委員、上方漫才大賞審査委員、讀賣テレビ番組審議会委員、日本民間放送連盟賞審査員ほか。

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    木ノ下 裕一 Yuichi Kinoshita

    木ノ下歌舞伎主宰。1985年和歌山市生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)卒業。博士号取得。在学中の2006年に古典演目上演の補綴・監修を自らが行う木ノ下歌舞伎を旗揚げ。代表作に『娘道成寺』『黒塚』『東海道四谷怪談ー通し上演ー』『義経千本桜ー渡海屋・大物浦ー』『糸井版 摂州合邦辻』など。2016年に上演した『勧進帳』の成果に対して、平成28年度文化庁芸術祭新人賞を受賞。第38回(令和元年度)京都府文化賞奨励賞受賞。 渋谷・コクーン歌舞伎『切られの与三』(2018)の補綴や神田伯山の講談の台本執筆を務めるなど、外部での古典芸能に関する執筆、講座など多岐にわたって活動。 NHKラジオ第2『おしゃべりな古典教室』にレギュラー出演中。現在、まつもと市民芸術館(長野県松本市)の参与、令和6年には芸術監督団団長に就任。

  • 山口紀子 Noriko Yamaguchi

    ライター・編集者。京都を拠点に伝統文化や歴史、工芸、旅などについて執筆・編集を行う。舞台芸術に関する主な仕事に『KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 マガジン』編集、『木ノ下歌舞伎 糸井版 摂州合邦辻 上演記念ブック』(ロームシアター京都/2019)共編、『ハロー!文楽 —もっと人形浄瑠璃文楽と仲良くなるための情報誌』(大阪市・公益財団法人文楽協会/2019, 2021)執筆などがある。

  • 儀三武桐子(ロームシアター京都) Kiriko Gisabu

    市立公民館で社会教育主事有資格者として事業の企画運営に従事(2011~2018年)。広告代理店のプランナーとしてイベントや各種広報物の企画制作を担当しながら、並行してコミュニティスペースの運営、イベント企画、記事の執筆・編集を手掛ける。2023年よりロームシアター京都に勤務。

  • 成瀬はつみ(ロームシアター京都) Hatsumi Naruse

    岩手県出身。京都市立芸術大学音楽学部音楽学専攻を首席で卒業後、同大学院音楽研究科日本音楽研究専攻を首席で修了。幼少期から関わっているクラシック音楽と在学時に研究していた能・狂言の知見を活かし、藤田隆則編『能〈羽衣〉を解剖する-音曲面を中心に-』における能の総譜作成や、「お話と演奏 耳で感じるジャポニスム」の運営・演奏を担当。2023年4月よりロームシアター京都に勤務。

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