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安住の地『ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』劇評

世界を更新するのではなく、世界と行進する

文:梅山いつき(演劇研究者)
2019.3.11 UP

 あとで電話するねって、今だったらどんな仕草をするだろう?古い話で恐縮だが、かつては親指と小指を伸ばして「電話」のポーズをする人もいたが、最近では、そもそも電話すること自体が減ってきている。だから「電話」を身体的に捉えにくいのかもしれない。それに最近よく見かける、ハンズフリー通話にいたっては電話という行為は口のみに凝縮されてしまっていて、口とそれ以外の身体とは切り離されているようにも見える。さながらベケットの『Not I』に出てくる、暗闇にぽっかり浮かんだ口のようだ。電車や街頭で一人ぶつぶつ呟いている人がいれば、だいたい誰かと通話している。目はしっかり前を向き、目的に向かって足早に歩を進めているのに、愉快な話題なのか口元は緩んでいる。口と口以外のテンポのズレが薄気味悪い。この不気味さは口の背後にあるコンテクストを共有できないために引き起こされているのだろう。口とそれ以外の身体部位は、当たり前だが、物理的にはくっついたままだが、通話中の両者は異層にあって分裂しており、口=話者の文脈がわからない。だから不気味に感じるし、口以外の身体と一緒にこちらも切り捨てられた気がして少し寂しい。

 安住の地の新作で、観客はこのような異なる次元に引き裂かれた身体を目の当たりにすることになる。舞台に敷き詰められたブルーシートには、長い年月をかけて溜め込まれた廃棄物のようにガラクタが積み重なっている。よく見るとそれは玩具の山で、ボードゲームもあればファミコンのようなテレビゲームもある。テクノロジーの発達とともに変化していった遊びが地層のように示されているのだ。舞台の左右にはモニターが設えられ、上演中、「亜純ゆる」という二次元キャラによる「ゆるチャンネル」やYoutuberによる番組「パオパオチャンネル」が配信される。他にも本作には、ゆると結婚しようとする男や、終始VRゴーグルをかけっ放しの仮想現実中毒者も登場し、観客は目の前に広がる空間=ここ・ではない世界と接続した人々を観察することになるのだ。

物語の主軸を引っ張っているのは、ユーナ、ミサト、アイという女子高生グループだ。他の登場人物たちは彼女たちから派生するように位置付けられている。ユーナにはVR中毒の姉ミホと、付きっ切りでミホの世話をする母がいる。ミサトはパパ活でトキトウという中年男性と知り合うが、後に彼は二次元キャラ・ゆるとの結婚を決意すると、ミサトのもとを去る。このように二人はバーチャル世界にどっぷり浸かった者たちに翻弄されるが、アイにはセトという「リアル」な恋人がいる。劇中詳しく説明されないが、どうもセトは震災によって家を失い、アイたちの街へ引っ越してきた転校生らしい。そのせいかはわからないが、彼は心を閉ざしており、アイが一方的に想いを寄せている。たとえ現実世界で恋人同士であっても、つながりが不安定という点ではアイも他の二人とあまり変わらない。

 本作に散りばめられた様々なモチーフは、どれも日頃話題に上るものばかりだが、作・演出の岡本昌也と私道かぴは無防備に、目新しい事象を行き当たりばったりにコラージュしているわけではない。三人の女子高生がストーリーラインを形づくっていくと述べたが、物語は単線的に進むわけではない。見方を変えてみれば、ミホ、トキトウ、セトといった彼女らを取り巻く人物から派生する物語を主として考えることもできる。三人の女子高生はそうした別々に存在する世界にライトを当て、その断片を観客に示すことで、こちら側の世界との接点を作り出すコネクターともみなせるのだ。

 今回は岡本と私道が共同で脚本を書き、演出したとのことだが、この創作方法が劇構造に厚みをもたせた一因だろう。また、劇中、「はやいとこ体なんて捨てた方がええで」という、作品の核心をつくかのようなストレートな台詞が出てくるが、それを一見なんてことのない脇役にあっさりと言わせることで、台詞の重みをさらりと減らしてみせる。戦略的な台詞の配置だ。加えて、この役を演じたタナカ・G・ツヨシの力の抜き方も絶妙だ。この台詞によって、肉体を捨て仮想空間に生きることが理想的に語られるわけだが、それとは反対に躍動する肉体を感じさせる演出が施されていることも見逃せない。それは冒頭から示されている。出演者全員が大声をあげながら、まるで幕開けを宣言するかのように、ブルーシートをひっぱる光景は、取り残された肉体の叫びにのようでもあったし、中盤出てくる競馬中継のシーンで、何かの強迫観念に取り憑かれたかのように役者が舞台上を疾走する演出も、息づかいや汗を印象づけた。さらに、終盤、中村彩乃演じるアイがセトに放った台詞「どんだけ嫌がられてもうざがられても!私は関わり続けるからねーー!もういいって言うまで、一緒に居続けるからねーーー!」は、先のからだなんて捨てた方がいいという台詞に拮抗するものとして鋭く響いた。中村のまっすぐな眼差しも印象深い。

 本作では現実と仮想現実がどちらかが本物で、どちらかが偽物として扱われているわけではなく、一方が優れていて、一方が劣っていると主張されているわけでもない。どちらもが等価であり、両者を切り離されたものとして扱うのではなく、やわらかくつなぎ合わせるすべが探られている。例えば、ユーナとVR中毒のミホの関係を通じてそれは示される。目は口ほどに物を言うという諺の通り、コミュニケーションにおいて目の物語る力は大きいが、VRゴーグルをかけっぱなしのミホが何を考えているのか推測するのは困難だ。彼女は終始動き回っているが、その動作は彼女にだけ見えている仮想空間では意味をなすが、ユーナや母にとっては不可解なものだ。また、逆に、ユーナや母の呼びかけは、異なる次元にいるつもりのミホにとっては無意味なノイズにすぎない。

ミホという異なる次元に引き裂かれた存在に周囲が振り回されるのを描くだけだったら、本作はいささか平凡な現代の悲劇に終わっただろう。だが、本作はその先を描こうとする。ユーナとミホが立場を逆転させるのだ。ミホを前にうろたえるばかりの母に耐えかねたユーナは、ミホからゴーゴルを奪い、取って付ける。自分の世界を奪われたミホは目を覆い悲鳴をあげ、ユーナもその場に倒れこんでしまう。だが、二人は壊れてしまったわけではなかった。ラストシーンである花火大会の場面に二人は姿を現す。VR ゴーグルを付けたユーナの手を引いているのはミホだ。彼女はユーナを現実に引き戻そうとするのでもなく、かといって母のように、腫れ物に触るような態度をとるわけでもなく、ただ静かに手をとって、寄り添っている。まるでその姿は異なる次元同士の仲立ち役のようだ。

当日パンフレットで岡本は、本作について「わたしたちのジェネレーションが最新ではなくなってしまう時、アップデートを“後で通知”しないための演劇」だと述べている。テクノロジーの発達が進めば、本作に登場する二次元キャラもVR ゴーグルも舞台に積み重ねられた古い玩具の山の一部にいずれなるだろう。そうした古いもの、取り残されたものを消去するのではなく、含みこみながら前に進みたい。本作はメンバーたちのそんな強い意志を感じさせる舞台だった。

撮影:中谷利明

 

  • 梅山いつき Itsuki Umeyama

    演劇研究者。東奔西走して劇場をめぐる放浪評論家。1981年新潟県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学演劇博物館で小劇場演劇の作家や水族館劇場等、野外劇に関する企画展を手がけ、現在、近畿大学准教授。アングラ演劇をめぐる研究や、野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。著書に『佐藤信と「運動」の演劇』(作品社、第26回AICT演劇評論賞受賞)、『アングラ演劇論』(作品社、第18回AICT演劇評論賞受賞)、『60年代演劇再考』(岡室美奈子との共編著、水声社)など。

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