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安住の地『ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』劇評

移動、侵食、運動、共鳴。

文:徳永京子(演劇ジャーナリスト)
2019.3.11 UP

 ずっと団体名が気になっていた。まず劇団の名前らしくない。情報はネットから収集するのが当然の時代なのに、検索で見つけづらい。何よりも、演劇をすることと安住という言葉のイメージがかけ離れている。経済的な安定の話は置いておいても、アナログな表現と非効率な方法で、不特定多数の人に何かを伝えようとする演劇は、予定通りに行かないことのほうが多いはずで、およそ安らぎとは程遠い──。それらを承知した上で、あえての皮肉、あるいはユーモアなのだろうか。まったく同じ『安住の地』というタイトルの、いわゆる青年漫画家の山本直樹の中編があり、これが(他の山本作品と同様に)、一見、タイトルとは真逆の内容なのに、よく考えるこれほどぴったり来るものはないと思わされるもので、そんなふうに反対の見方が成立することを目指しているのだろうか。それともストレートに、演劇=平穏と定義する世代が出てきたということか。何しろ設立は3年前、劇団員は全員20代の若い劇団だ。

 こう考える時点で、安住の地の術中にハマっているのかもしれないが、もちろん劇団サイトをチェックすれば、作・演出のひとり、岡本昌也の言葉によって劇団名の由来は説明されている。少し長くなるが引用する。

 

安住の地というのは「何の心配もなく落ち着いて住める場所」という意味です。安住の地は、多くの人がひとつは持っているものだと思います。そうでなければ、常に希求しているものだと思います。そして、共有することも、独占することも、誰かから奪うことも、誰かに与えることもできるものです。これはぼくが劇場に求めている形に似ています。劇場には作品があります。そして作品は、ぼくたちとみなさま、あるいはみなさま同時で共有することも、独占することもできます。ぼくたちは作品によってみなさまの何かを奪うことも、何かを与えることもできます。みなさまは鑑賞や感想、批評によってぼくたちから何かを奪ったり与えたりできます。これらはすべて劇場で起こることだし、作品はそういったものであるべきだと思っています。劇場が一時的にでも、ぼくたちとみなさまの安住の地となって、ぼくたちとみなさまが集い、それぞれが生きている世界を見たり、隣に住んでいる人たちと関係したりするような作品がある、そんな団体になればいいなと思っています。

 

 要約するなら、安住の地とは誰もが持つ、もしくは求める平和な場所のことではあるが、ひとりの充足で完結するものではなく、他者と共有でき、影響を与え合い、時には傷付けたり争ったり奪い合うこともある可変の領域、ということだろうか。そしてそれは岡本が劇場に求めるものと同じなのだという。さらに解釈させてもらうなら岡本たちは、理想を実現するためには他者との領域を超え続けなければならない、と考えている。そうして手に入れた平和の場所があったとしても、固定されているはずはなく、この若者たちが定義する安住の地は絶えず形を変え、動き、永遠に追いかけ続けていく対象になる。

 彼らの作品を初めて観た。これまた推測のしがいがある『ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』というタイトルだがそれはしない。なぜならこの作品全体が、かなわない理想を求めて移動する人間を描いた、つまり劇団名に込められた思いと一致するものだから。これまでの安住の地の作品を私はひとつも知らないが、この長々しいタイトルを「安住の地」のルビにしていいくらい、現時点の集大成ではないかと思う。

 

 会場となったロームシアター京都地下のノースホールは、劇場というよりスタジオで、何もない空間を自由に使える。今回は客席のほうが高くなるように足場が組まれ、アクティングエリアにはカラフルな無数のおもちゃが雑然と、けれどもいくつかのまとまりのような形で広げられていた。大小さまざまなぬいぐるみ、蛍光カラーのボール、Tシャツなどの衣類もあったと思う。その中でもコンピュータゲームの機器類に目が行ったのは、ノースホールに入る手前の1階ロビーに、この作品のオリジナルキャラクターで、いかにも今どきの人気アニメといったルックスの「亜純(あすみ)ゆる」のパネルが「撮影はご自由にどうぞ」と出迎えていたからかもしれない。

 亜純ゆるは劇中で大活躍する二次元キャラで、場内の大型スクリーンに度々登場する。Vtuberで「ゆるちゃんねる」という番組を持っており、その配信を通して観客に、変化したシーンの背景につながる情報をさりげなく教えてくれる。作品世界と観客の橋渡しが都合よく登場するのは、普通、劇作家の手抜きに思えて腹立たしいのに、二次元というさらに都合の良いこの存在にはそれを感じなかった。

さて、亜純ゆるはよく喋る。彼女のMCによってわかるのは、まずこの物語の時間軸が非常に長いこと、そしてその一方で、空間的にはかなり限定的であるということだ。

時間については出発点がジュラ紀まで遡る。それまで地球にあったのは巨大なひとつの陸地だったが、1億8000万年前頃に7つの大陸に分かれたという説があり、そこから始まるのだ。そして現在より少しだけ未来らしい時代へと移り、新しいノアの方舟がつくられ、出航するまでが描かれる。ノアの方舟が単語や形で明示されることはないが、劇の後半に登場し、「最近、バグが起きる」とされるゲームの名前は「ゴフェル」で、ドラゴンクエストにも出てくるそうだが、旧約聖書でノアの方舟の材料になった木の名前なのだ。また、ゆるの曲の歌詞にある「長さ300、幅50、高さ30」という数値は、ノアの方舟のサイズと同じだ。

一幕、大陸が「その頃はいた神様によって」時間をかけて分かれたとゆるが語ると、大きなガラクタのかたまりだったビニールシートが俳優たちに引っ張られて広がり、7つに分かれる。物理的な分裂によって人間の移動は始まり、「ヨーソロー!」「舵を切れ〜!」「面舵いっぱ〜い!」と景気よく始まるが、航海は早々に暗礁に乗り上げ、「東の端っこ」という限定された場所で暮らす人々の様子が描かれていく。

そこで起きているのは、ホームレスの増加、貧困層の拡大、バーチャル婚、レンタル家族、ネット依存、援助交際など、今の日本で憂慮されている事柄が深刻化、複合化した問題だ。それぞれの出来事と出来事のあいだには、時間、空間ともに断絶があるのだが、登場人物たちはあちこちを歩き回り、走り回るので、そのたびにおもちゃや雑貨が散らばって、シートとシートのあいだにあったスペースは次第に見えなくなり、断絶は曖昧になる。登場人物たちの移動の動機は、自主的なものもあれば、逃走も、強制的なものもある。けれど、せわしなく動く彼らの足元から立ち昇るものはひとつ、切なさだ。ホームレスでも同情されたくない、援助交際なのに打ち切る時は気を使う、冷たい対応しかしてくれない彼を励ますなど、少し曲がった状況下で自分ができる最善を遂行する人々。彼らの右往左往が、あの問題とこの問題を、あの人とその人をくっ付け、重ね、さらに私(たち)と結び付く。7つの陸地は、物理的には離れたままかもしれないが、その切なさを知っている、という共鳴で、私(たち)がいる8つめの場所と重なる。『ポスト・トゥルース〜』の人々の移動に、いつの間にか私(たち)は同行していたのだ。物語の最後、氷河期並みだった彼らの世界の気温は上昇して春から夏へと向かい、ひととき安らかな時間が訪れるが、それはハッピーエンドではなく、氷が溶けて大洪水へと向かうフラグだろう。彼らの中に、ノアの方舟に乗れる人はいるのだろうか。

 

それにしても驚くべきことに、悲しくも美しい余韻を残すこの作品は、前述の岡本と、やはり劇団員の私道かぴの初めての共同作・演出なのだという。いつもはそれぞれの作・演出作品をほぼ交互に上演しているそうだが、ふたりの作家が関わったツギハギ感を、私は感じ取ることができなかった。終演後、興味があったので「ふたりの作・演出家がいることで劇団の個性がぼやける心配はないのか」と聞いてみた。するとふたりは、そんなことは思いもよらなかったという表情で「ひとつの劇団に作・演出家がひとりと決まっているわけではないので」と言い、「作・演出家がひとりだと、どうしても負担が集中して疲弊しますから」と言った。それは、この先の移動の長さを知っている人の言葉だった。

撮影:中谷利明

  • 徳永京子 Kyoko Tokunaga

    演劇ジャーナリスト。雑誌、ウェブ、公演パンフレットを中心にインタビュー、作品解説、朝日新聞首都圏版に劇評を執筆。ローソンチケット演劇専門サイト『演劇最強論-ing』企画・監修・執筆。東京芸術劇場企画運営委員。パルテノン多摩企画アドバイザー。せんがわ劇場企画運営アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。著書に『我らに光を──さいたまゴールド・シアター 蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦』、『演劇最強論』(藤原ちからと共著)、『「演劇の街」をつくった男──本多一夫と下北沢』。

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