(個人名)さんは、そんなの……だろ、っていうでしょ、でも(一人称)は、さすがに、ええっ、て思っちゃって、だって、ねえ、普通に考えて、……じゃないのそれ、って。
うんうん。えー。はああ。ゲラゲラ。
相槌を差し込むだけではまだダメで、航路を見失った話題に浮島を用意してやる。
……とも言いますもんね、さぞや……だっただろうね、……というところで思い出したけども。
ひとが集まって話す様子には、言葉とひととがつくる共依存の関係が赤裸々に露出している。伝聞の再現は口調と身振りによって誇張され、はみ出してしまった矛盾は相槌によって取り繕われ、明言できない感想は聞き手の言い換えによって代弁され、取り残された言葉は育ち始めた別の話題に投げかけられる。受動的で消極的でフリーライダーで。文にして整えてやらなければ「私」の姿はかようにだらしない。言葉を連ねるたびに押し付けられる、一貫性と責任の帰属先としての「私」。たまったもんじゃないよね、と弱音や恨み節の一つでも溢したくなるのが人情だけれども、なにせ相手は言葉そのものなのでややこしい。なのでひとまずは、言葉にひきずられるままの「私」を互いに見せ合える舞台が、何においても求められる。それが声だ。
噂話と演劇は似ている。声をリレーしながら、請け負いたくない「私」を引き取りあって、他者の言葉を隠れ蓑にして匿う。そこにいない誰かのエピソードが紹介されるなかに、あるいは詠みあげられたテクストのなかに、「私」を密やかに忍ばせる。のみならず、聞き手あるいは観客に幻視された「私」はそのままに預けておく。他者の言葉の内へ隠れる「私」と、他者の言葉によって外在化させた「私」。二つの偽装工作は、言葉が連なるにつれ一貫性と責任でがんじがらめになる自己のための、二つのバックドアだ。愚痴や陰口、又聞きや知ったかぶりまでも含め、集団が集団として声を重ねる話題は猥雑きわまりない。けれども、それが声によって「私」を「ごっこ遊び」に帰してやれる場であるのなら、ガイドラインを睨み閉口するよりずっといい。
噺とは、噂話のソロ公演を指す。噺家とは、その職能をもつ者のことだ。世相に触れ、話題のひとつとして演目を語り、作中の人物ひとりひとりを相槌までも含めて演じわけ、ときには演目への自身の感想を挟み込み、そればかりか客の感想をも代弁する。世評と演目がシームレスに語られつつ、身振りと声色によって多数の人物が表現され、ひとつの声にいくつもの人称の弁別性が与えられる。引用符をもたぬ声が無節操に遊んでいる。エピソードを語り、人物を演じ、なすがまま幾多の「私」にされる噺家の声。その様子が可笑しいのだ。演目を話題にのせるのも、演目を閉じるのにも、他者の言葉に「私」を忍ばせたり、他者の言葉の「私」を引き取ったりしなければならない。ひとは責任転嫁することなく責任を負うことはできない。言葉とひととがつくる他愛もない共依存。それを笑ってやれるのだ。
ふと考える。いま、噂話の場所はどこにあるのだろう。どのように表現できるのだろう。
ビデオ通話のツールはすっかり普及したけれども、公開型のイベントにも使用しているせいか、または複数人の声を被せることができないせいか、どうしても「交代制のスピーチ」のように話すモードから抜け出せない。発言者ばかりか、聴取者の名前まで一つ一つ表示されている。これでは「私」は逃げも隠れもできない。一貫性と責任に終始する言葉はガイドラインに照合され、近況報告は基調報告のように話されてしまう。他方で、匿名の書き込みによって練り上げられた芸能ゴシップや陰謀論も、応答の義務を一方的に特定の個人へ帰すばかりだ。顔の見える他者たちと息継ぎをしながら、「私」の体裁を整えて、日々に帰してやれる場はどこにあるのか。
噂話を可能にする条件とはなんだったのだろう。距離を離すだけで個々人になるのだとしても、その逆だというだけでは不十分だろう。ロームシアター京都に唯一残された屋外の喫煙所で、衝立のように置かれた植木に煙を吹く。色のついたため息。タバコさえあれば、ため息は「不満の声」として聞かれることはない。そういえば、古典落語にはキセルを主題としたものがやたらと多いのだった。