テキストを黙読したり、声が追いつかないほどの速さで速読することに慣れていると、文字にならない声の力を知らぬ間に読み落としてしまうことがある。
たとえば百人一首で有名な柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」という歌を考えてみよう。通常、この歌は、最初の五七五で格助詞の「の」を繰り返しながら延々と唱えられる長い序詞が「長々し」にかかって、いかにも長いことを強調しているのだ、というふうに解釈される。なるほど、文字で見ると、いくつもの「の」が繰り返されて長々しい。
しかし、この歌にはそれ以外にも、文字上には現れない音の規則性が含まれている。上の句の「しだり尾の」と下の句の「長々し夜を」の母音を比べてみよう。「IAIOO」「AAAAIOO」、つまり、後半の4つの母音が揃っており、「だりおの」と「がしよを」とが韻で照らし合わされている。語尾の母音を揃えて韻を踏む技術は、最近の日本語ラップの流行によって注目を浴びているけれど、じつは万葉の昔から同じことは行われていた。
さらにおもしろいのはこの歌全体の母音の用い方である。最初から母音だけ拾っていくと、「AIIIO AAOIOOO IAIOO AAAAIOO IOIAOEU」。じつは、最後の七音を除いて、注意深く「E」と「U」が避けられ「A」「I」「O」だけで構成されており、しかも必ず末尾はOで終わっている。だからこそ、最後の「寝む」が、AIOの長い長い夜の果てにたどり着いた特別な母音を含むことばとして浮き上がってくる。
そもそも、それぞれの言語には、その言語に特有の型のようなものがあって、繰り返しを誘うような性質が埋まっている。たとえば日本語はオノマトペの豊富な言語だけれど、その中には「さっぱり」「こんがり」「たっぷり」「はんなり」という風に「っ」や「ん」と「り」の組み合わさったものがいくつもある。一方で、オノマトペではないことばにも「あんまり」「ばっかり」「いったりきたり」のように「っ」や「ん」と「り」の組み合わさったものが見つかる。だから、わたしたちは何の気なしに、「やっぱりお風呂はさっぱりしていいよね」などと言ってから、ふと、自分はいまやけに調子のいいことばを言った気がしたりするのだが、よくよく思い出してみるとそれは、「やっぱり」と「さっぱり」のせいだったと気づく。そして、「やっぱり」と「さっぱり」によってまわりのことば、「お風呂」と「いいよね」までが照らし合わされて、じつは、やっぱりとさっぱりのおかげで「お風呂」は「いいよね」という気分が表されたことにも気づく。こんな風に、わたしたちは言語の型に沿って声を出しているうちに、詩のようなことばを知らぬ間に口にしている。
声は、文字に隠れたことばの繰り返しをも顕わにする。「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ」。これは土方巽の『病める舞姫』の冒頭だけれど、急いで目で追うと、漢字に目くらまされて読み飛ばしてしまいそうになる。しかし、声にしたとたん、短いことばの中では「いき」という音が繰り返されているのに気づく。そして音の繰り返しはただ、ことばの調子を整えるだけではない。繰り返すことで、まわりのことばまで照らし合わす。「いき」がなくても「いき」ている。「いき」ということばの繰り返しで、息がないことと生きていることとが照らし合わされ、「ない」ことと「いる」こととが照らし合わされる。思いがけない照らし合わせの真ん中に、蝶番のように、小さな虫がいる。
声は、繰り返すことで、すぐ前の過去、遠い過去を呼び覚まし、いまと照らし合わす。同じ単語、同じ韻だけではない。抑揚、強弱、声色、さまざまな音の繰り返しによって、テクストの上では離れているはずの2つのことばを照らし合わせる。声はいわばことばのタイムマシンであり、いまことばをきいている者を、ふいに過去のことばの前に佇ませる。声に誘われて、わたしたちは、ことばに埋め込まれた見えない通路を開く。シアターで行き交っているのは、そのような声なのである。
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声は照らし合わせる
2021.4.27 UP
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細馬宏通 Hiromichi Hosoma
1960年兵庫県生まれ。早稲田大学教授。声と身体動作の研究を行うかたわら、流行歌、マンガ、アニメーションなど19世紀以降の視聴覚文化にも関心を寄せている。近著に『うたのしくみ 増補完全版』(ぴあ2021)、『絵はがきの時代 増補新版』(青土社 2020)『いだてん噺』(河出書房新社 2020)、『二つの「この世界の片隅に」』(青土社 2017)がある。