
撮影:松本成弘
舞台を見て真っ先に目に入ってくるのは、半月状に反り立つ壁である。壁の頂点には椅子が一脚、脚が壁にくっついて真っ逆さまに吊るされたように設置されている。壁が反り返りはじめる場所にも一脚。それから舞台下手側にも椅子が一脚あり、これは後ろに倒してある。
反り立つ壁はそのまま延びて床の一部となり、その終点にはダイニングソファが置いてある。それから舞台中央にはテーブルと椅子のセットがあり、床にはそれらの舞台道具の合間を埋めるよう、缶、新聞紙、ペットボトルなどのゴミが散乱している。
『Waltz for Daddy』は「失踪」をテーマにした音楽劇である。
主人公の名波サトシは、実家の不動産会社で働いていたのを辞め、残置物を撤去する仕事をしている。日本語教師として働くエリというパートナーがいるが、六ヶ月前に失踪してしまった。
それは名波が不動産会社で働いていた頃のこと。名波の勤め先で賃貸契約を結んでいた、子連れのベトナム人女性、クインが夜逃げした。偶然にも彼女はエリが日本語を教えていた人でもあった。破棄された貸借関係の後始末に追われることを悟った名波は、エリにクインの連絡先を教えてくれるよう頼むが、その直後エリは失踪してしまう。
そんな名波の元に一件の依頼が入る。それは高月という、予知能力があると自称する老人からの依頼だ。彼が言うには、五日後に自分は死ぬので遺品整理をしてほしい、とのことだ。
高月もまた家族が失踪した人間だ。娘のミカは二十年前、ハンガリーのヘヴェシュに滞在中消息を絶ってしまった。現地の警察から行方不明になったと連絡が入ってから三日後、ミカは「足跡」になって高月の元へ帰ってきた。「足跡」の存在を知った名波は、高月と心を通わせるようになる。
ミカが消えた街を訪れることができなかったことだけが、心残りだという高月。彼の余命があと三日になったところ、名波は高月に「予知」を使って二人でヘヴェシュを仮想的に訪れることを提案する。予知能力を駆使してヘヴェシュを旅している途中、二人は汐留ミツキという、ミカと最後に会った人物に出会い、ミカが消える直前の様子について知ることとなる。
高月はその後自身が予知した通り亡くなるのだったが、亡くなる直前に、名波にミカの面倒を頼む。残された名波はミカを「失踪者の国」へと連れていくことにした。「失踪者の国」とは、エリが空想して名波に語っていた、失踪者が幸福に暮らしている場所だ。ここにたどり着いた名波は、エリと再会し、最後に二人が言葉を交わして劇は終わる。

撮影:松本成弘
俳優の台詞の発話は真っすぐで滞りない。身体表現もまた、発話する主体からマイムにより人間以外のものを表現する主体へスムーズに移行する。
そして生演奏が、表現を間断なく繰り出す俳優を支える。音楽は抒情性をどのシーンでも保っていた。キーボードピアノのミニマルなモティーフの反復は、スチールドラムによる環境音、サウンドホース、ビートボックスなど、異物感のある音を違和感なく織り込んでいく。アコースティックのアンサンブルとエレクトロニカとが、場面に応じて心理描写を補足する役割をきっちり遂行した。身体表現と音楽もまた間断なくつながっていたのである。
間断なき表現は今回のテーマに相応しい。この「失踪劇」では、予知が現実へと間断なく移行して、過去と未来が、ヘヴェシュと日本とが、つながっていったのである。
「予知の正体は優しさ」だと高月が説明していたが、「失踪」とはまさに「予知」の問題かもしれない。高月の、相手の未来を言い当てることができるほどの過剰な気遣いゆえに、高月親子は互いのことがよく見えなくなっていたのだろう。あるいは、今現在の相手のことがそもそも見えていないがために、未来のことばかり見えるようになってしまう、と考えることも可能だと個人的には思う。名波夫妻にも「予知」の問題が関わっていたのかもしれない。劇中後半で、名波もまた「予知」が使えるシーンがあったのだった。
ヘヴェシュは「予知」の届かない土地であった。もし「予知」が可能なら、高月はミカを無理矢理引き留めたはずである。ミカは高月から離れれば離れるほど、彼のことがよく見えるようになる。ミカはこのことを「愛の老眼」と表現する。
だが、今までで最も遠い土地において、身体が消失して「足跡」になってしまった、という筋書きは示唆的であり、観劇する側の考察への欲求を呼び覚ます部分だろう。過剰な気遣いを父がやめることはない以上、娘は一緒に暮らせない。「失踪者の国」という新たな「国家」が必要なのである。
ただし、こうして各人の情緒的な問題という側面でのみ、「失踪」という出来事を描き出す方向性に、戸惑うところがまったくなかったと言えば嘘になる。
北朝鮮の拉致問題について連日報道されているのを見ていた世代としては、「失踪」という、時に重大な国際問題上のテーマを、個人の情緒的な葛藤の次元に留めて良いのかというとまどいはある。国家の存在を出来事の外側に置いているからこそ、新しい「国家」への想像力が可能となっているのだろうと思う。

撮影:松本成弘
最も印象に残ったのは、名波が、上から落ちてきたエリの靴を、手で受け止めた瞬間であった。それは、真反対の重力が名波の身体に作用した瞬間、つまりは、相手を自分からの気遣いを通じてではなく、相手の重さそのものとして身体で受け止めた瞬間である。
別々の方向に倒して設置された椅子は、舞台上の世界に、異なる複数の重力がそれぞれ別のベクトルへ作用していることを想像させる。私は、この『Waltz for Daddy』を、同じ重力の場にいない、相手の重さを同じ重さとして受け止められない人々の話として受け止めた。「予知」とはその徴候である、とも。外国人との共生という社会問題が織り込まれているこの劇において、重力とは、有り体に言って価値観のことと言って差し支えない。
そういうわけで、「足跡」というアイデアは、単に空想的なものに見えても、実はきわめて現実的なものの暗喩として、劇中では「予知」に対する一種の解決方法として提示されていたのではないかと思う。私は、「予知」し続ける高月とともに暮らすために、ミカが「足跡」になることを自分で選んだのではないか、という空想的な考察を捨てきれない。
「足跡」は、重力からある程度自由で、あらゆる意味でどっちつかずだ。第一に生死が不明であり、生死が不明である以上除霊の対象にはない。手でこすって消そうと思えばいつでも消してしまえるという物質性もあり、自力で動いている。加えて、複数の人間に認識可能であるから妄想とも言えない。
けれども、想像力の問題として「足跡」たちは確かに生きている。現に、反り立つ壁という異なる重力相互の間にあるこの場を、歩くことができるのは「足跡」だけであった。このことこそが、私たちの現実世界に彼らが投じた一石なのだと私は思う。