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スペースノットブランク『光の中のアリス』劇評

真実とフェイクの永遠のリフレクション

文:竹田真理(ダンス批評)
2021.2.10 UP

撮影:manami tanaka

スペースノットブランクの舞台を見るのは初めてだったが、演劇とダンスの境界を越えるとされ、自ら「舞台作家」と名のる若い世代への関心から、主に上演における身体のありかたに注目して臨もうと考えた。だがふたを開けてみると、想像以上に松原俊太郎の戯曲の比重が大きく、評者にとって戸惑いの多い観劇となった。劇団地点の舞台を通して知る松原の過剰にして鋭い言葉の展開は、本作ではさらに躍動と遊戯性を増し、その場でドラマを線的に追うことはほとんど不可能だ。加えてこれを演じる俳優たちの発語や身体の動きはキャラクターの再現に注力せず、言葉に対して身体が独自の距離をもって進んでいく。そのため、舞台で何が起こっているのかを把握するのに相当の知覚のチューニングが求められることになる。

 

スペースノットブランクの身体にフォーカスした過去作品の映像からは、意味性のなさ、日常的な範囲の可動域などが、コンテンポラリーダンスの語彙の特徴に重なるように見える。ただしダンスにおいてそれらの語彙は、すでにあったダンスを解体したもの、或いはいずれダンスへと発展していくものの断片として現れるのに対し、スペースノットブランクでは、未踏の地にあるひとつの動きとして意図して造形されている。演劇におけるノイズとしての身体とも性格を異にし、不随物ではない完結した動作が瞬間ごとに提示されていく。速度や流れは感じられないが、質量や密度をもった身体と動きが、舞踊史(や演劇史)の外部で造形もしくは選択されている。こうした造形性への志向は台詞の発語にも見て取れる。意図して明瞭、明快な発語や発声は、リアリズムからも現代口語演劇からも遠く離れている。本作冒頭のヒカリの台詞「生クリーーーームのパンケーーーーキ」、「ヤミーーーーってほどでもなくて」などでは発語にデフォルメを施し、他の台詞についても、意味内容の伝達より、それ自体が鑑賞に堪えうる音と言葉の造形物として、耳に確実に届くようにと発語される。舞台で身体が言葉を発する行為について、ゼロベースで捉えようとの発想があるように見受けられるが、どうだろう。

 

松原による本作戯曲は、言葉が文脈を外れて飛躍し、枝葉から別の枝葉がポップアップする奔放な展開が圧巻だ。ルイス・キャロル張りのナンセンスな言葉遊びに、「会話の流れをぶったぎってあさっての方向にねじ曲げるとき」といった撥音便の瞬発力、それらが話者の間にやりとりされる躍動感は松原一流のものだろう。小説でも詩でもない戯曲という形式の面白さに目が見開かれる。この奔放な脈絡を辿るのは骨の折れる作業だが、印象を放つキーワードを拾うことで漠然と世界観が浮かび上がってくる。おもひで(思い出)、眠り、夢の国、ワンダーランド、おとぎ話。重力、おもにで、虚無、忘却の向こう側。ヒカリの恋人であった騎士は「半分死んでいる」が、記憶の中の存在としてヒカリの現実に侵入する。ヒカリは深い眠りの中で騎士と出会うが、騎士を彼であると思い出せば騎士の存在は消えてしまう。二人の前に現れるミニーとバニーは言わずもがな夢の国テーマパークの住人と不思議の国への誘い人だが、父と母の投影でもあり、夢と記憶と現実がパラドキシカルに貫入しあう世界の導き手になる。しかし二人の語る世界像は真実なのかフェイクなのか、言葉遊びとともに攪乱され、世界の底がどこにあるか見極められない。未来を照らす光とその反射が終わりなく続く底なしの世界を、ヒカリはアリス・イン・ワンダーランドよろしく彷徨い続ける。不思議の国ニッポンへの皮肉やディズニーランド資本への言及のくだりは、本作の主題というより、ポップアップして開かれた窓の一つとして語られる。だがこの国の暗澹とした現実を鋭く見つめる批評眼は『山山』、『正面に気をつけろ』、『君の庭』など他の松原作品にも通底するものである。

 

スペースノットブランクによる速度や流れのない、質量や密度のある演技は、この戯曲のもつ運動性をある意味で殺いでいる。しかし劇の進行につれ、台詞のやりとりはあるところでトップギアに入り、そのままアクセルを踏み込むことなく高いテンションのもとに進行する。感情やキャラクターの再現ではない言葉の元来の形に即した発語が、脈絡を外したナンセンスな台詞の応酬と噛み合いを見せ、一種のノリを生むのである。ヒカリ、騎士、ミニー、バニーの4人に音響や照明の効果も加わり、フェリーニ的な狂騒にも似たテンションもしくはノリ、もしくはグルーヴを生む中盤の場面は、本作上演中の最も秀逸なシーンの一つと言えるだろう。

 

空間構成を見てみると、舞台奥に俳優たちが椅子に待機しており、その中央にはパソコン操作の卓、上方には4台のモニターが設置されている。それらの位置関係により劇世界を俯瞰する3つの異なる階層が示される。舞台フロアは実際のアクティングエリアであり作品世界のベース=基底の在り処となる。ここを高い位置からのぞき込むのはモニターに映し出されるミニーとバニーの顔である。最上位に位置するのは卓の操作で進行を司るスペースノットブランクの中澤陽と、背を向けたまま舞台の最奥中央に立つ小野彩加、二人は「首をちょん切れ!」と狂った権威を振るうKとQなる裁判官にも配役されている。冒頭、騎士が待機場所から大きくジャンプして手前の床に落下するのは、このアクティングエリア=作品世界における基底の場への他空間からの侵入だと、観客が理解するのはもっと後のことである。「未来へ!」と人物たちが見つめる方向は舞台下手、壁一面が鏡になっており、指さす未来は世界のこちら側を映すばかりである。ヒカリは「ここ」から脱出すべく鏡に向かって床上を泳ぐ動作を続けるが、そのように動けば動くほど身体は後退ってしまう。本作のセノグラフィーは、異なる階層の設定、および劇空間の基底を劇場の三次元空間に定位することにより、飛躍を重ね現実の在り処も定かではない戯曲の世界を構造化する。夢も「おもひで」も妄想も「ありもしなかったこと」も、この空間――ヒカリのベッドルームで想起されたりされなかったりしたことであるのだとの解釈である。テキストを空間に立体化する舞台芸術の必然ではあるが、この空間構成によって可視化された作品世界では、結果、主人公は外部を希求しつつ、鏡の作用と同様の永遠の自己反復から出てゆくことができない、その苦悩や苛立ちを前面に押し出すことになる。

 

本上演のもう一つ秀逸な点は、タイトルにちなんだ光の扱いだろう。背後の壁に並んだライトの照射が床のリノリウムに照り返る光景は、舞台効果としての照明以上に、光そのものを劇素材として扱い、夢や幸福、未来、もしくは外部を象徴させる。まばゆい光の中をヒカリ、ミニー、バニーが別の空間へと飛翔する場面は、先述した台詞の応酬から生まれる独特のグルーヴと重なり、劇の一つの頂点をなす。続く暗転で観客は虚無を思わせる闇の底深さを体感し、再び開始した劇情景が冒頭の場面の絶望的な反復であることに気付く。現実の基底なき世界の狂騒的な展開も、再帰的・自己投影的に反射を繰り返す空間も、どこに真実があるかと問われる時代の虚無と共鳴する。アメリカ大統領選の経緯や、見えないウィルスとの攻防が悲/喜劇の様相を呈する今日、「あたしはそれを引き受けるよ」と発するヒカリの最後の台詞が胸に響く。

  • 竹田真理 Mari Takeda

    ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした取材・執筆を行う。毎日新聞大阪本社版ほか一般紙、舞踊専門誌、ウェブ等に寄稿。

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