この作品のタイトルを知ったとき、『不思議の国のアリス』で『鏡の国のアリス』なのに『光の国のアリス』ではなく『光の中のアリス』なのは、松原俊太郎とスペースノットブランクが「国」の一字を嫌ったからだろうと私は思った。
観たら、やっぱり、そうだった。だが、この話は別に続かない。
スペースノットブランク(演出)と松原俊太郎(劇作)の共同作業は、私がまだ観れてない、戯曲だけ読んだ『ささやかなさ』に続く二作目である。そもそもスペノは極めてユニークなクリエイションの方法論を採っていて、出演者からその都度のテーマや設定に即して長時間の聞き取り(インタビュー?)を行ない、それらをサンプリングしたりエディットしたりさまざまなエフェクトを加えたりしながら台詞を造り上げてゆく。このやり方によってスペノは従来の「作者の権能」や「演出家の権力」から解き放たれ、いわゆる「ドキュメンタリー演劇」の常套からも「ポストドラマ演劇」のクリシェからも抜け出た独自のスタイルを確立した。だから既存の/他者の戯曲を上演すること自体ほぼなく、松原を除くと、池田亮(ゆうめい)が「原作」を担当した『ウエア』があるくらいだと思う(それに松原と池田の関与のあり方と制作プロセスはかなり異なっている)。
それだけ松原俊太郎とのコラボレーションはスペノにとって特別な意味を持っているわけだが、松原が多く戯曲を提供している地点が、演出の三浦基によって戯曲を自在に編集改変して上演しているのに対し、少なくとも『光の中のアリス』では、スペノは戯曲をほぼ変えずに、そのまま舞台に上げていた。このこともスペノの普段のやり方からすると明らかに例外的であって、それはつまり「松原戯曲の作法にスペノの従来の作品創造と相通じるところがある」か「松原戯曲がスペノに新たなクリエイティヴィティを齎し得ている」のどちらか、というか、おそらく両方なのだろう。実際に初演に立ち会った私の印象もそうで、そこにはまぎれもないスペノらしさと、いうなれば「新章突入!」的な興奮が共存していた。そして松原としても『光の中のアリス』は会心の出来なのではないかと思う。一言でいえば、それは傑作だったのだ。
『光の国のアリス』ならぬ『光の中のアリス』と題した時点で、ヒカリス=ヒカリの中のアリスというヒロインが立ち上がる。そもそもルイス・キャロルの「アリス」からして、ファンタジックな表皮の裏にグロテスクな残酷さとドス黒い性欲を隠しているわけだが、この芝居ではアリスをヒカリが覆うことによって、その多重性、多層性はいや増している。それでも芝居が進行するにつれて、ヒカリ=アリスと騎士の関係の意味、バニーとミニーの役割の意味、王女と王の存在の意味、などなどが少しずつ垣間見えてくるのだが、もちろんそれでも最終的に何らかの答え合わせがなされるわけではない。だが、そこはかとなく感じ取れるのは、やはり「アリス」とは、いわば口実、舞台装置に過ぎず、そこで真に語られようとしつつも語り切れぬままになる物語、というか出来事は、おそらくもっとずっと生々しくも現実的な、アレ、とは名指せぬまでも、アレとアレとアレと……くらいは言えそうな、人によってはリアルに思い当たったりすることがあるやもしれぬ事どもであるらしいということだ。とはいえ松原戯曲においては、即物的で直截的に見える言葉や表現ほど実は暗喩や象徴であったりするので油断は出来ないし、生半可な解釈や推理は結局のところ汗塗れで空転することにもなりかねない。
しかしこの劇に、打ち出しとしては「全編クライマックス」を標榜しつつも(そしてそれは間違っていないが)、松原作品としては、そしてスペノ作品としては尚のこと珍しく、というかほとんどはじめて、いわゆる「(筋の)展開」がかなりきちんと仕込まれているのは確かであって、それどころか「展開」の先には「全編クライマックス中の本物のクライマックス」さえ待っており、ラストシーンも実にラストシーンらしい感じでやってくる。スペノのミューズである荒木知佳演じるヒカリが或る台詞を言った瞬間、観客の誰もが「ああ、これで終わ(れ)る」と思ったはずだ。幕切れの切れ味と余韻はスペノ作品の中でも格別で、正直言ってあれほど見事な終わりを見せられるとは思ってもみなかった。
冒頭、そして途中何度か、バニーが客席のあちこちを指差しながら「アリス、アリス、アリス……」と言う。戯曲にはただ、 バニー「アリス!」 とだけあるこの場面を観て私は、ひょっとしてこれはエルフリーデ・イェリネク作、三浦基演出、地点『光のない。』への目配せなのかと思った。あの舞台でも地点の窪田史恵が客席を次々指差しながら適当な名前を呼んでいた。それに何しろ「ヒカリのない」ではないか。まあそれだけなのだが、イェリネクも松原も戯曲にそんなト書きは書いていないので、いささか気になるところではある。イェリネク=地点の『光のない。』では「わたしたち」と「あなたたち」が何度となく口にされる。つまり「一人称複数」と「二人称複数」なのだが、『光の中のアリス』では最初に「アリス」と「観客」を結びつけることによって、アリスを呑み込んだヒカリの運命を、われわれ自身のそれと紐付け、アリス=ヒカリの一人称を複数形へと押し開く。ヒカリ=アリス=ヒカリスの悲劇は、あくまでも虚構の登場人物としての彼女固有のものでありつつ、同時にわれわれ全員のものになる。
字幕の導入、映像の使用、音と音楽、照明と光線、そして鏡、スペノは今回、これまで以上にさまざまな手練主管を駆使して、ヒカリスの「中」の物語を、ヒカリスの「中」に穿たれた「外」の物語をものがたろうとし、そしてあわよくばどうにかして正真正銘の「外」の物語をものがたってみせようとする。彼女以外の登場人物は「はじめから死んで」おり、彼女自身も「死んでいる」。みんな、最初から最後まで死んでいる。「生きはじめるためには動かなくてはならない」し「はじめるには声を発しなければならない」ので、動きはじめ、声を発するものの、そうすることによって、死んでいない、生きているかのように見せかけているのは、どこまでいっても結局のところは俳優たちであり、登場人物ではない。登場人物ははじめからしまいまで死んでいる。
松原は演劇の魔術、そこに存在してなどいない者をそこにたまたま存在している者があたかも存在しているかのように振る舞う、という、誰もがタネをわかっているのに皆していっとき信じることにする不可思議なマジックを一切信じぬまま、戯曲を書き、なのにもかかわらず、その戯曲の「中」、自分が言葉のみででっち上げる劇の「中」で、死んでいる者たちを死なせまいと試みる。そしてスペノは、俳優たちは、そんな「もしもを引き受ける」。だが、なのか、だから、なのかわからないが、この芝居は、芝居がいよいよはじまるところで、はじまる前に終わる。劇が開始される以前に、終わってしまう。
だが、かろうじて、はじめから死んでいるということは、もう死なないですむということなのだ。そこには救いはかけらもないが、ほんのわずか、微かに光る希望のような何かは、ある。だからこの芝居は、たとえようもなく陰惨で、深いかなしみに満ちているのに、それでもどこか明るい。いったいどこに光があるというのか、皆目わからないのに、それでもそこは、なぜだか確かに明るいのだ。