演劇の上演で久しぶりに大笑いした。それだけでも貴重だったが、コロナ禍においてはより一層のことであり、心から嬉しかった。
登場人物はこうだ。自身をワーウルフ(狼8:人間2という設定の狼男)と名乗る男。女性の獣医に片想いをしている。彼女の気を引くために狼として診てもらおうとするほどに想いが強い。綱吉という男は、飼い犬のココロを自分の命と等しく大切にしていて、手術によって原型が残っていないココロにも熱狂的な愛情を注ぎ続け、最終的には自身が犬になる。綱吉の同棲相手である心という名の女性も物語の中で犬になってしまうのだが、綱吉が一緒にいてくれるなら問題はないと言い切る。獣医は、綱吉への恋愛感情が募り、それが犬のココロへの嫉妬となり、もうココロそのものになってしまおうと自身に手術を施したら、なぜか象になってしまう。上演を観ていない読者にはさっぱり意味がわからないとは思うが、このような人物たちだった。彼らには犬のココロを起点とした共依存関係の連鎖が起こり、そして奇妙な連帯が生まれる。一般的な常識人としてその様子を眺めることになる観客は、これを「常軌を逸している」「病的だ」と考えるかもしれない。しかし、わたしたちは彼らのような関係を完全に否定しても良いのだろうか。そもそも、それを否定する資格など誰が持ち得ようか。
物語の最初から最後まで人間だったのは、冒頭では最も常識とはかけ離れた人物として登場したワーウルフのみだ。他はみんな、想いの強さのあまり犬や象に変態し、人間としての現実的な社会生活を送れる状態ではなくなってしまう。
今ある現実に自分を合わせなければならないときに、過去の想像的な状況に自分を置き続けているような、生まれつき柔軟性に欠ける感覚と知性の持ち主を想像してみるのである。このとき、おかしさは人物そのもののうちに宿ることになるだろう。
(H.ベルクソン 『笑い』 より)
ベルクソンは、このような人物のことを「放心家」と呼ぶ。『ぞう騒々』に描かれている登場人物には、徹底した放心があった。観客はそれがおかしくてたまらなくて笑ったのである。
ところで、わたしたちは放心家の行動によって大切なことに気づかされたりしないだろうか。徳川綱吉の生類憐れみの令は天下の悪法と呼ばれてきたが、近年ではその評価の再検討が行われている。確かに欠点もあるが、法令の内容が進歩的過ぎたのだという指摘がある。現在の動物愛護の観点から優れているだけでなく、犬の前では武士も一般庶民も同じという人間中心主義の否定と身分平等の精神がそこにはある。『ぞう騒々』で描かれている放心と変態には、後戻りができなくなった登場人物のペーソスだけでなく、人間の社会や文化が創り出した常識や制度への婉曲な批判がある。
狂信的な恋愛感情が描かれているこの作品において、輸血で血を混ぜて他の動物になってしまったりすることはあっても、登場人物間の性行為はないのも見逃せない。ラカンによると、他の動物とは異なり、人間は本能的な性関係はないとのこと。つまりこの作品の上演は、恋愛と性行為(あるいはそれを連想させる言動)が必然としてセットになっているほとんどのロマンティック・ラブ・ストーリーを、社会にとって都合の良い人間を育成するための欺瞞としてキッパリと否定する意思表明になっているのだ。
また、登場人物の放心だけでなく、舞台上にいる俳優の放心もあった。狼や犬、象としての鳴き声(雄叫び)のしつこさだ。何度も鳴くし、鳴くと長い。そして俳優はそれを演じることに全身全霊で没頭する。上演の流れや観客の表情を完全に無視しているかのようだった。重要なのは、それによって演劇鑑賞の典型的な小気味良さが損なわれるにも関わらず、おかしくて思わず笑ってしまう点だ。
演劇における消費しやすいリズムやテンポの“正解”が多くの観客にすでに共有されており、俳優はそれに対して従順で生真面目な優等生であることを求められている昨今において、今作の俳優の放心による“不正解”はあまりにも豪快で痛快だった。現在まで演劇を更新するためにさまざまな試みが積み重ねられてきた。ロックコンサートやクラブのような大音量で音楽を流したり、観客にようやく聞こえるほどの小さな声で発話したり、演技にダンスのような動きを施してみたり、似た場面をループさせることで高揚感を出したり、等々。かなり乱暴な説明で心当たりのある方にはたいへん申し訳ないが、それぞれに優れた成果があり、数々の名演を生んだことを私は否定しない。それどころか、斯く言うわたしもそれらに大いに刺激を受けながら創作活動をしてきた。ただし、どのような形式の試みにおいても、消費しやすいリズムとテンポの“正解”は保たれていると言って差し支えはないだろう。あえて“不正解”を導き出そうとする試みもいろいろあるが、それでも変拍子としてのグルーヴを残しているか、あるいはリズムやテンポを排したドローン・ミュージックのような真逆の形式になるのが関の山である。
一方で、シラカンが提示した俳優の放心による雄叫びの“不正解”には、形式の目新しさはない。典型的でベタな小劇場演劇の演技だからこそ、演劇の内側から食い破るようにして実現ができた、経済的リズム・テンポの破壊なのだ。それを観る観客は呆れて困惑し、ものが言えなくなり、「また始まったよ」とただ笑うしかないのである。犬が飼い主に連れられて散歩をしているとき、不意に姿勢を低めて踏ん張り、止まって動こうとしなくなった時間と似ている。飼い主の人間は困るのだが、その状況に開き直れたら、安堵を得て清々しくなれる。人間が思い描く生活のリズムが壊されたその時間は、不経済だからだ。俳優の雄叫びは、資本主義社会に飼い慣らされた人間の消費欲求に向けた警鐘として機能した。彼らの放心による破壊的な停滞と、それによって引き起こされた笑いには、演劇の本質と人間のいじらしさを改めて気づかせる働きがあった。コロナ禍にも関わらず、何よりも経済の優先が大きな声で謳われる社会に生きるわたしたちにとっては、救済でもあった。
最後に、これが京都での滞在制作作品であることにも触れておきたい。活動拠点を離れて創作に集中できるのが滞在制作の最大のメリットなのだが、妙な気を利かせて、頼まれてもいないのに、アーティストが滞在先の地域にちなんだテーマや表現を選ぼうとすることがある。しかし、少なくともわたしには、『ぞう騒々』と京都との繋がりはわからなかった。徳川綱吉の母、桂昌院が京都の出身であることは調べて知ったが、それを知ったからといってどうとも言えないし、何かあるのかもしれないが、わかったところで評価が落ちるとも考えられない。この忖度を感じさせない姿勢からも、シラカンの将来への期待は膨らむばかりである。