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シラカン『ぞう騒々』劇評

欲望の対象と一体化することは幸せか?

文:高嶋慈(美術・舞台芸術批評)
2021.2.4 UP
撮影:小嶋謙介

カラフルでポップな多幸感と人工的な毒々しさが入り混じる、キッチュなインスタレーションのような舞台美術だが、そこに載せられるのは「ベタ」で「熱い」芝居というギャップ。声を張り上げ、オーバー気味の演技で俳優たちが繰り出すのは「異種恋愛譚と、叶わぬ三角(四角)関係」だが、そこに「あるモノを別のモノに見立てて会話する」という「演劇」の原理に対する自己言及が混ざり合う。この奇妙なブレンド感覚がシラカンによる本作の持ち味であり、その熱量は後半でさらに加速し、観客を予測不可能な不条理の渦に巻き込んでいく。
舞台は、女性獣医のハナノが勤務する動物病院。そこに、ハナノに想いを寄せる男「ワーウルフ」が診察を口実に口説きに現われる。彼は、「狼男」ではなく「ワーウルフ」と呼ばれることに強くこだわり、「ワーウルフ」として受け入れてほしいと懇願を繰り返す。「2つの種族(あるいは何らかのカテゴリー)のボーダーライン上の存在」であることに加え、「他称と自称の一致」を強く訴える姿勢は、マイノリティ的存在のメタファーであると言える。
そこへ、もう一人の男が乱入してくる。「ココロを助けてください」と取り乱す彼が胸に抱いているのは、布や毛並みがツギハギされ、尻尾や手足のようなものはあるが顔のない、出来損ないのぬいぐるみのような物体である。ハナノにとって「それ」は「犬(?)」にしか見えないが、彼にとっては「命より大事な『家族』」であるという。「もう手遅れ」と断るハナノ、「輸血するなら犬に近い自分の血を使ってくれ」と申し出るワーウルフ、「ココロにワーウルフの血を入れるなんて」と差別感情を露わにする男。男の必死の懇願に負けたハナノは、「ココロ」に彼の血を「輸血」する。ダメ元での手術だったが、「ココロ」は奇跡的に生き返り、男は「ココロ」の容体が回復するまで、ハナノの病院に「輸血」のために通い、自らの一部を与え続ける。献身的に我が身を捧げる男(その名も「綱吉」)の姿に惹かれ始めるハナノだが、「僕とココロの血を超えたつながり」の関係の中に自分も入れてほしいと彼女が口にすると、冷たく拒絶される。「愛情の対象と一体化する幸福」は、「その一体関係に入り込もうとする他者の排除」と表裏一体でもあるのだ。
「ココロ」のことしか眼中にない綱吉だが、実はもう一人、彼に想いを寄せる「人間の彼女」がいる。だが、「自分の方を振り向いてほしい」と切実に願う「彼女」は、「これは綱吉くんの愛の試練」と言い聞かせ、「ココロ」に自分の血の「輸血」を試みるも、手術の反動で(?)緑色の犬のような物体に変貌を遂げてしまう。「ココロ」を相変わらず胸に大事に抱き、緑色の犬(?)になってしまった「元・彼女」の首にリードを付けて引っ張り、「デート」する綱吉。だが、文字通り犬のような扱いを受けても、緑色の物体からは「姿は変わっても、彼に好かれているなら幸せ」という声が聞こえてくる。「あなたは人間のままでも好かれないけど」と言い放つ緑色の犬(?)に対抗意識を燃やしたハナノは、自らに「ココロへの輸血」を施し、なんと「ゾウ」になってしまう(ハナノはワーウルフをあしらうため、犬派ではなく「ゾウ派」と公言していた)。暴れる「ゾウ=元ハナノ」の煽りを受け、傷を負った「ココロ」。それを救うべく、手術室に飛び込んで「輸血」した綱吉も、最終的にヒト以外の物体に変貌を遂げてしまう。
ここに戯画的に描き出されているのは、「愛したい=相手を(モノやペットのように)所有したい」「愛されたい=相手の望む姿になって受け入れてほしい」という、人間が人間であるゆえに抱く欲望(独占欲や支配欲、依存関係)の歪さこそが、「人間ではないもの」へと変貌させていくという皮肉な回路である。それぞれが他者に抱く欲望の交差点であり、しかし実体の不確かな「犬(?)」の名前が、「ココロ」であることはすぐれて象徴的だ。また、「人間」である3人(綱吉、その彼女、ハナノ)のみが非人間的存在へと変貌を遂げる一方で、「人間ではない」ワーウルフは変わらない点も示唆的である。自分を「ワーウルフ」として見てほしいと訴え続ける彼は、「他者の望む姿」「欲望の対象と同一化した姿」ではなく、自分自身であることを徹底して希求していたからだ。
また、「欲望の対象と同一化する手段」が、「輸血」である点も示唆的である。それは命を救う手段であると同時に、他者と細胞レベルで混ざり合う行為によって、文字通り交接と融合をもたらし、不可解な「生き物」を誕生させるのだ。階段を昇り、2階バルコニーの通路の奥に扉の開いた「輸血手術室」に誰かが入るたびに、獣の遠吠えのような甲高い声が響く。喘ぎ声のようにも聞こえるそれは、擬似的なセックスを暗示する。
演技のスタンスや演出設計としてはベタなまでの「芝居臭さ」にあえて徹する本作だが、そこには、「認知のズレ」と絡めた「演劇」に対する自己言及性をはらんでいる。「アレが犬に見えるの?」という問い、謎の物体と人間どうしのようにやり取りする「自然な」会話。それは、「自分の目に映る世界は、他人のそれとは違う」という認知のズレの誇張であるとともに、「本来そうではないものを、別のものとして見立てる」という演劇の原理に対するメタ的な言及でもある。だが、他人には「犬にも見えない」ものを寵愛しつつ、(自分に好意を寄せていても)関心のない人間に対しては、意のままに扱える人形あるいは無価値な存在として「物体視」する綱吉の人物造形には、「意思疎通が困難な相手との愛や、種族すら超えた愛は可能か」という崇高な問いの一方で、うすら寒さが漂う。
舞台美術も作品の世界観を補強していた。色とりどりのシートの破片が敷かれた床、舞台中央の診察台、ゲージ、観葉植物、手術室へと続く階段など、舞台上のすべてのものは、ラップのように透明なビニールの膜で包まれている。特に象徴的なのが、テディベアの置かれたソファだ。愛玩物の象徴としてのぬいぐるみ、それを大事に保護するようなビニールの膜、そして自/他の境界を示唆する(細胞)膜。実際は「生き返った」のか、それとも腐敗したゾンビであるのかも定かではない「ココロ」のように、愛した対象を永遠に保存したいという欲望は、ラップで冷凍保存するかのようにくるまれ、毒々しい光を放ち続けるのだ。

  • 高嶋慈 Megumi Takashima

    美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。
    ウェブマガジンartscapeにて展覧会評や公演評を連載中。
    共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017年)。

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