2024年は海外からダンスの来日公演が数多く京都を訪れたが、中でも本作はダンス・ムーブメントの魅力という点で際立った印象を放った。ポストドラマ演劇以降の今日ではダンスもまた表象の一つの形態とされ、政治や社会の文脈のもとに読解される対象となる。一方、舞台のライブ性に立ち返り、目の前で息づいている身体をただそのようにあるものと受け止める脱表象的な見方が本作『SCARBO』(スカルボ)では促される。走る、跳ぶ、駆け回るといった身体動作はほぼそのまま本作の語彙であり、フォルムに成形されないままに表出するムーブメントは、生まれたての瑞々しさと、何ものにも媒介されないアナーキーさを秘めている。上演は女性ダンサーによるソロパフォーマンスの体裁だが、コンセプト/振付にヤニス・マンダフニス、振付コラボレーションと出演にマノン・パランとあり、マンダフニスとパランの経年的な交流と濃密に重ねた共同作業から生まれたソロダンスであることがポストトークで明かされた。マンダフニスはかつてウィリアム・フォーサイスのカンパニーで踊った経験をもち、振付家として数々の即興の手法を培ってきた。ダンサーのパランは音楽家でもあり、作中いくつかの楽曲がダンスのモチーフとして用いられる。とくに前半、モーリス・ラヴェル作曲のピアノ組曲『夜のガスパール』が全曲使用され、本作の基調をなしている。「オンディーヌ」「絞首台」に続く3曲目の「スカルボ」は本公演のタイトルに採られている。
1.喜びのダンス、モチーフ、エレメント
リュックサックを背負って現れたマノン・パランはフロアの前面まで出てくると、好奇心いっぱいの目で客席に笑顔を向け、壁際へ行きリュックサックから取り出したデバイスで自ら音楽をかけ、動きはじめる。ピアノのトレモロに引き出されるように細かい足さばきでフロアを巡り、ほとんど走りに等しいステップで対角線上を移動する。素足にスニーカーをはいたパランは野を駆ける野生児を思わせ、走りの勢いで壁を駆け上がり、床を転げるといった奔放さで生き生きとした生命力を放っていく。全て即興で作られたという本作の動きは、リズムやカウントで分節されず、フォルムに収斂するより早く身体にあふれ出てくる。ここでは躍動そのものが言語であり、様式化や定形化のプロセスを経ることなく固有の文体を生んでいる。
即興を基盤とするパランの動きは、音楽、照明、空間など身体を取りまくあらゆるエレメントを全身で感受し応答する。観客の存在もそうした要素の一つである。客席前面まで出てきて一人ひとりと目を合わせ、おののき、恥じ入り、それでも喜びが勝るというように後ずさりして走るパラン。再びこちらに出てきて勢いのままに客席通路を駆け上がり、人々を近しく感じようとするのか、通路に腰を下ろして周囲をにこやかに見回す。あるいは太陽がまぶしい、風を身に受けるのが心地よいといった身振り、床に大の字に身を横たえ、ふたたび走りのステップに入り、といった草原で遊ぶ少女のような自然で衒いのない振舞いは、身体が世界にまるごと包み込まれて何ら疑う余地のない、こども時代の幸福な時間を彷彿とさせる。
パフォーマンスから観客が受け取るものは何よりこうした幸福や喜びの感情であり、感情は音楽と並んで本作の主要なモチーフとなる。躍動する喜びと痛みとが交互に表出する様子は、痛みすらも生きる喜びであるかのような生命力に満ちている。
だがラヴェルの組曲3曲目でパフォーマンスは一転し、悲しみ、不安、おそれ、疑念へと色調を変える。怒りに床を踏み、腕はわななき、握った拳が痙攣するといった強烈な身振りが現れるのだ。照明がアンバーに変わり、祝福に満ちていた世界の突然の変調をピアノの打音が拡幅する。見るべきはそれでも動きが推進力を失わないことで、強張る足元も、その強張りのまま次の一歩へつながっていく。ラヴェルの音楽がこの動きの文体に密接だ。SCARBO(スカルボ)とは悪戯な妖精をいうが、その妖しく躍動する足どりの中に悲しみや嘆き、恐怖や死の影がアクセントのように刻まれていく。

©吉見 崚

©吉見 崚
2.インターバル
上演半ばに置かれたインターバルは本作を特徴づけているシーンである。ひとしきり踊ったパランは休憩をとり、バケツの水で汗をぬぐい、鼻をかむ、水筒を取り出し水を飲む、と通常ならバックヤードでするプライベートな行為を上演の場でおこなう。リュックからチョコレートを出して齧るとき、観客にも「いかが?」とさりげない仕草を見せ、ほっと一息つく時の心地よい疲労が伝わってくる。無論これも演出であり、日常のピッチに身体を調整しているわけだが、上演との境目を曖昧にし、観客と同じ空間に身を置くパランが、自らを開いてはたらきかけてくるのは必ずしも演技ばかりとは言えない。大切な秘密を打ち明けてくれそうな率直で飾り気のない振舞いに、パランの人間性を感じたのは私だけではないだろう。
この親密で開かれた雰囲気の中でダンサーは自分自身の話を始める。11才の頃に起きた出来事、それが世界を一変させたこと、悲痛の体験と死の存在。記憶の底に消し難く刻み込まれている傷が明かされ、スニーカーの少女が誰であるかの由来、踊りに表出した悲しみの正体とその背景を観客は知ることになる。パランの身体を突き動かしていたもの、内的な原動力となったものである。ここにきて上演は「作品」のフレームを与えられ、出来事に構造が生まれて、悲劇の骨格のもとに「物語」として現れ直す。「パフォーマンス」からトラウマの構造をもった「物語」への転換である。

©吉見 崚
3.物語、構造、形式
本稿ではここまで『SCARBO』の語彙と文体に着目してきた。閃く感情をのせた本作のムーブメントはそれ自身でダンスであることの価値を十二分に開花させていたと言えるだろう。かたや語られた物語は観る者の胸に迫るものであり、痛みの記憶や死の影といった内容は「作品世界」を構築し、鑑賞体験の質を変える。ムーブメント(形式)と物語(内容)はフェーズの異なるファクターだが、この双方の面を両立させながら、本作はダンスパフォーマンス作品(ダンス/パフォーマンス/作品)として現れ直そうとするのである。
パランの語る物語は全てが実話ではなく、複数の人の経験から構成した「カクテル」である。即興を基に動きを作るマンダフニスとパランの創作過程で、感情に関わる要素の必要が生じたことが、この半分フィクショナルな物語の導入につながった。物語を求めたのはダンスの動きなのであり、振付言語の展開、形式や文体の追求がパフォーマンスに「内容」を要請したのだと言える。マンダフニスは本作の動きについて「抽象的でありながら物語性のあるもの」と述べている。これを「形式」か「内容」かの議論で言うなら、「形式」も「内容」もであり、むしろ両者は不可分に相互を求めている。本作のソロダンスのシンプルな形態がそれを示唆しているように思われる。
パランの語りはあるところで唄に変わる。無音の中で口ずさむその唄がギャビン・ブライヤーズの『イエスの血は決して私を見捨てたことはない』であると分かるのに時間は要しない。ここは本作でも非常にエモーショナルなくだりで、注意深い演出が施される箇所である。パランの唄はやがてこの曲のオリジナルの録音に引き継がれる。ホームレスの男性が歌うのを偶然録音していたといわれる讃美歌のフレーズのループが救済への祈りを滲ませるこの曲を、マンダフニスとパランは世界の喪失を体験した11才の傷ついた魂に寄り添わせる。

©吉見 崚
4.音楽と救済
さて、パランは再び立ち上がり、床のリノリウムを荒々しく剥がす行為に出て空間を一変させ、客席前列の椅子をアクティングエリアに向けて次々に投げつけるなどして、封印してきた思いの全てを抉り出そうとする。激情とともに噴出するそれらの荒ぶる行為には承認と救済への思いが込められているようにも見え、身体を通して悲痛の記憶を生き直そうとする一人の人間の希望へのプロセスが辿られていく。
この終盤において音楽はいっそう重要なモチーフであり要素だ。ギャビン・ブライヤーズのリフレインはやがてラヴェルのピアノ協奏曲の第二楽章にオーバーラップされ、さらにそこに新たにソプラノの歌曲が重なる。切り詰められた讃美歌のフレーズがラヴェルの甘美な旋律によって救済され、さらに音楽の重なりの奥から言葉を伴った歌唱が届いて、この場を普遍へと開いていく。ソプラノの歌曲はドビュッシーがヴェルレーヌの詩に作曲した『忘れられた小唄』(Ariettes Oubliees)。自然の風景と内面の悲しみをうたう叙情詩を含む歌曲である。名もなきホームレスの声からフランス近代の詩と音楽までを交差させながら、マンダフニスとパランはエモーショナルな局面も含めた人間存在の複雑なありようを照らし出そうとする。それはまたダンスパフォーマンスを物語と文体、表象と上演の分かちがたい関係のもとに置き、動き、語り、唄、楽曲、パフォーマンス、音楽、歌唱とそれぞれの形式で参入させながら、目の前に現れ出る固有の上演空間の成立を企図したものでもあるだろう。最終盤、パランはドビュッシーの歌曲に自らの声を重ね、ダンスと歌唱を越境することで、喪失から再生していく人間の魂が「形式」と「文体」を得て「表象」される瞬間を自ら生きてみせる。

©吉見 崚
追記;
ギャビン・ブライヤーズ『イエスの血は決して私を見捨てることはない』についてもう少しだけ触れておきたい。この曲はウィリアム・フォーサイス振付『クィンテット』の使用曲として知られる。5人のダンサーの流転する関係がフォルムの中に浮かんでは消えるこの甘美なダンスピースは、エフェメラルにしか存在しえないダンス表現の本質をとらえたフォーサイスの代表作の一つである。バレエを内側から革新したとされるフォーサイスは昨年の京都賞受賞時の記念講演で「予測不能な波のような」「持続不可能なもの」(注:筆者の聴講時のメモより)としてバレエの「存在のしえなさ」を語ったが、そこには形式の極北に立つフォーサイスの諦念が滲んでいるように感じられる。『SCARBO』のポストトークでマンダフニスとパランは、当初、本作全編をブライヤーズの一曲のみで作る考えもあったと述べ、『クィンテット』のダンサーであったマンダフニスの特別の思いを明かしている。『SCARBO』の文体にフォーサイスの影響が直接見て取れることはないが、即興を軸としたマンダフニスの振付の手法は、動きを生み出すシステムそのものの開拓に向かったフォーサイスに根底で通じているように思える。
筆者は『SCARBO』公演に伴い実施されたマンダフニスのメソッドを体験するワークショップ(*)を見学した。そこで見たものはダンサーたちの身体と身体の間から、あるいは床と、音楽と、空間と、見学者との間から動きが生成する瞬間であり、キャッチしたら手放してはいけない、二度とは再現できない、しかし確かにそこに存在したはずのダンスとしか呼びようのない運動性の現れだった。『イエスの血は決して私を見捨てることはない』は不可能さの中でダンスの言語と形式を追求してやまない者たちへの救済であり応答といえる。マンダフニスとパランが本作『SCARBO』において、物語性の構築と並んで、ダンスの形式としてのムーブメントを追求する過程で、この一曲を求めた事実に深く頷く次第だ。
*公演日程を挟んで5日間、ロームシアター京都 ノースホールで実施。講師はドレスデン・フランクフルト・ダンスカンパニーのダンサー、菅江一路氏が務めた。