街で誰かが携帯電話で通話しているのを見て、「この人はいまどこにいるのだろう?」と思うことがある。身体はこの場にありながら、意識はどこか別の領域へと移動しているかのようだ。細井美裕『世界交換手』の鑑賞中、その感覚を思い起こしていた。
まず、公演の設えについて確認しておきたい。本公演では、いわゆるステージは設けられていない。客席の前方に据えられた長机に、細井と、エンジニアの伊藤隆之、イトウユウヤの三人が並び、観客と同じ方向を向いて、つまり観客には背中を見せて座っている。機材の並べられた机に向かう彼らのたたずまいは、パフォーマーというよりオペレーターを思わせる。サブウーファーを含む全部で26台のスピーカーが劇場の前後方および上方から客席を囲み、うち正面の8台は長机と前方の壁のあいだに円弧状に配置されている。さらに上方にはディスプレイが左右に1台ずつ設置されている。

『世界交換手』会場風景(観客席からの視点)。(撮影:中谷利明)
公演が始まると、前方の壁面に映像が映し出される。そこには、ある人物が撮影した風景の記録と、撮影者自身のモノローグが重ねられている。その語りは音声認識アプリにより即時に文字起こしされ、右側のディスプレイに表示される。日本語以外の言語では和訳が添えられる。しばらく映像が流れた後、細井が撮影者と通話を始める。通話内容は冒頭の映像と同様にテキスト化され、左側のディスプレイに表示される。記録映像とライヴでの通話、過去と現在、視覚と聴覚——それらが交錯しながらひとつのサイクルをかたち作る。筆者が鑑賞した初回公演では、7組8名との通話が行われた。

『世界交換手』会場風景(撮影者と通話する細井)。(撮影:中谷利明)
観客は、細井と通信相手が交わす、日常的で非演技的な会話の「同席者」となる。状況だけを見れば、隣席の他人の会話が耳に入ってくる感覚や、ラジオ番組の電話コーナーを聴く感覚にも似ている。しかし、決定的に異なる。
冒頭に述べた携帯電話の例を再び参照するなら、この公演が扱うのは、通話に参加していない観客もまた、通信が作り出す場所に巻き込まれていくという現象である。対話の一方の当事者と同じ空間にいながら、もう一方は不在である——この非対称的な構造は、単に他者の会話に「いあわせる」経験とは異質だ。遠隔通信技術が成立させる特異な共有空間が、観客の知覚のレイヤーに侵入してくる。それを強化しているのが、細井たちによる映像と音響の操作である。
プロジェクターで投影されているのは、細井のラップトップのデスクトップ画面である。そして、ウインドウがデスクトップの水平および垂直方向においてどの領域に表示されているかによって、音声が出力されるスピーカーが決定される。つまり、細井が映像ウインドウを左に動かせば、対応する音声が右から左にパンし、ウインドウを全画面にすれば、すべてのスピーカーから音が響く。劇場空間は、細井の意思と操作に従って変化を起こしつづける。その結果として観客は、他者のコミュニケーションの現場に立ち会うだけでなく、通信が進行しているあいだだけ生成される一時的な空間へと、傍観者として引き込まれていく。

『世界交換手』会場風景(演者と壁のあいだに配置されたスピーカー)。(撮影:中谷利明)
だが公演後に配布された細井のステートメントは、作品の主題を「交換不可能性」に置いている。そもそも通信技術が媒介するか否かを問わず、人間の情報交換には必ず欠落が伴い、完全な理解は不可能である。にもかかわらず、その「交換不可能性」をあえて舞台の主題として提示しようとする。この構造は、作品全体に批評的な緊張を生じさせている。
作中には、交換不可能性を触知させる仕掛けが周到に配置されている。自動文字起こしは絶えず遡及的に修正され、テキストは安定しない。映像は凹凸の多い暗色の壁面に投影されるため、鮮明さを志向しておらず、前景のスピーカーが視界を分断する。通信相手の正体は明かされず、映像内容が通話の話題に上ることもない。さらに、映像の再生中に通話が開始され、観客の注意は複数の層へと引き裂かれる。作品は、観客の知覚を「揺らぎ」へと積極的に晒す。
これらのノイズ、歪み、焦点の曖昧さこそが『世界交換手』の本質である。それは「交換できないこと」を身体化し、感覚的に提示するための装置であり、言い換えれば、うまくいかなさそのものを構造として内包するデザインである。細井のこれまでの活動を、既存のメディア・フォーマット[*1]や特殊な展示環境[*2]、あるいはコマーシャル・ギャラリーにおける個展[*3]といった所与の条件への応答の歴史として捉えるなら、本作は劇場というメディア、形式への批評的応答として提示された“メディア”そのものであるといえるだろう。

細井美裕《余白史(2024)》Photo: So Mitsuya

細井美裕「ステイン」(Gallery 38、東京、2024)Photo: So Mitsuya
その観点から率直に述べれば、この“メディア”は、初回公演の時点では、まだ扱いに熟練の余地を残していたように感じられた。おそらく翌日の公演で改善はなされただろうし、もしこの公演が再演を重ねることがあるならば、洗練はさらに進むことだろう。では、その洗練は作品の核である揺らぎ——交換不可能性——をむしろ弱めてしまうのではないか。この問いは、作品の構造そのものが抱えるパラドックスである。
交換不可能性を主題に掲げながら、それを舞台として「伝えようとする」こと。完全には届かないという事実を表現として届けるという、ある意味で無謀な試み。それでもなお他者へ向けて声を発する——この矛盾に満ちた行為こそが、作品の倫理的中心を形づくっている。細井たちはその矛盾を、舞台装置全体を使って、より繊細に、より豊かに遂行しようとする。その試み自体が、人と人とが関係を取り結ぶ象徴として提示されている。
このように、「舞台としての成功」と「交換不可能性の提示」は対立するのではなく、緊張関係を保ちながら併存する。うまく見せようとする意志は主題を曖昧にする可能性を孕むが、同時に“うまく見せようとする身振りそのもの”が、他者への完全なる伝達、交換を志向する人間の営みに重なる。その矛盾のただなかに身を置き、観客を揺さぶりながら上演は成立している。
細井がウインドウを動かすたび、音は空間を移動し、通信という非物質的な行為がかりそめの場を立ち上げる。声は届く。しかし完全には届かない。文字は表示される。しかし誤変換と上書きが続く。映像は流れる。しかし焦点は安定しない。観客が受け取るのは、その不確かさのなかに浮上する“他者へつながろうとする”行為の痕跡である。
通信が遅れ、誤訳が生じ、映像が揺れても、それでも声が発されつづける。その瞬間にこそ、最も根源的な衝動が露わになる。交換不可能な世界で、なお交換を試みる。その矛盾を抱えて、私たちは今日も声を上げる。

(撮影:中谷利明)