
撮影:中谷利明
松本清張の短編小説「声」には、電話交換手の女性が登場する。昭和三十年頃の電話とは、まず発信者から交換手につながり、交換手がボードのジャックを差し替えるなど手作業を行うことで相手先につながる仕組みだった。小説の交換手が三百人の声を聞き分けられるほど耳がよいのは、受話器を通した声から、相手の性分やその場の状況を看取できる人だったからだろう。
今はなき職業である。この電話交換手という往時の言葉に着想を得たという『世界交換手』は、アーティスト細井美裕による舞台作品である。いや、舞台上で実行されるメディアアートか。何か違う。歯切れが悪くなるのは理由がある。
舞台の三人は全員客席に背を向け、一列に椅子に座っている。つまり顔の表情は見えず、演技もしない。左右の二人がパソコンなど機器類を操作し、大量の配線コードが机からだらりと垂れ下がる即物的な光景がある。中央の細井が世界各地の友人たちに順次電話をかけるのだが、誰かのモノローグとともに現地の映像あるいは心象風景が低い解像度で大きく映し出されてから、通話は始まる。ストーリーはない。
モノローグと通話の言葉は時に重なりながら、舞台上部の二つのモニターにそれぞれ映し出されて可視化されるが、自動文字起こしのような字幕が止まった状態もあり、文字情報として必ずしも明確に伝える意思はなさそうである。逆説的に、文字という視覚情報に依存している現状に気づかされる。ふと、文字が生まれる前、人は無形の言葉を発し、歌い、聴いていたことに思いを馳せる。
通話を聴いて伝わったのは、それぞれに親密な雰囲気である。
最初の通話相手は、日本のどこかにいる日本人男性。散歩中だという。黄昏の川べりのような映像が会場に映し出され、顔の映るビデオ通話ではない。「自転車がほしくなる」と細井が映像光景に沿うことを言う。歩く、自転車に乗るといった軽い運動感覚を想起させながら、細井は仕事上の相談をする。ワークショップをする際、初めての人たちをつなぐファシリテーターのあり方を聞くと、通話相手は、散歩を続けながら応じる。具体的に何を語ったのか詳らかに思い出せなくとも、おおらかな口調が耳に残る。語りより、語り口が。

撮影:中谷利明
韓国にいる女性との通話中は、背の高い建物が林立する映像が映され、韓国人と日本人による四人の展示会について思いを述べあった。
世界各地の友人たちとの通話は時に英会話を交えて進むのだが、始まりは「ヤッホー」「元気?」といったピチカートのような弾みがあり、続いてキャッチボールされる会話には、OK、コネクト、コラボ、相談、ありがとう、などポジティブな単語が盛り込まれる。単語は言霊の力を宿し、たしかな拠り所を作るのかもしれない。ごく普通の睦まじい、しかし非公開のプライベートな会話を、観客はうっかり聞いてしまった電話交換手のようだ。
現地のざわめき、通りを走る車の音、ノルウェーの教会の鐘。相手の声と重層をなすそれらの音は、想像力を刺激する。日頃はあっさりと忘却し、最初からなかったかのように思いがちなノイズという音の存在は、電話の向こう側では頼もしい手応えを持つ。日常では会話の内容に重きを置くため夾雑物になりがちなそれらが、状況を察するためには有用な手がかりとなるからだ。ノイズキャンセリングは無用。すべてを聞く。
小説「声」の電話交換手は、後に犯人と知る人物との通話中に、第三者の闖入に気づいた。音の世界から三次元の気配を感知したのだが、そこまでの耳はなくとも、聞こうとすれば音からイメージを広げることはできそうだ。
会話内容に、時間軸が入っていたことにも注視しておきたい。
「四年前」、「六年前」といった言葉は、かつて共に仕事をした時空間を想像させる。「共通言語ないまま」「アーティストつぶさなくてよかった」など、難事をクリアした経験者ならではの濃さがある。どんな作品だったのだろう。
通話相手の一人、ギヨームの言った「朝十時」という言葉は、フランスと日本は七時間の時差があることを思えば、たしかに鑑賞中の夕方五時台と合う。フランスは朝。会話に出たローストバゲットという単語から、私の味覚と触覚が刺激されたのだが、これも日本で鑑賞している私は夕食前という現実の時間帯ゆえだろう。舞台上で進行している会話、通話先からの音、鑑賞している私。鑑賞しながら、こちらとそちらを行きつ戻りつする体験が、現実と虚構のはざまをつなぐファクターとして機能したようだ。
そう、虚構なのだ。もっとも、出来上がった虚構ではない。劇場からの電話はドライブ感があるが、アクシデントの起きるリスクもあり不確かさを孕む。もし、通話が録音された音声やシナリオどおりの言葉だとすれば、別物だろう。通話という通路を持つことは、現実世界で地震などの異変が生じたら同期するということだ。リアルタイムで生成している虚構ゆえの刺激があり、作り物やフェイクとは様相を異にする。
込み入った世界だ。そもそも、なぜ三人は観客に背を向けているのか。なぜ声を発しない技術者の二人も並んで舞台上にいるのか。
思うに、前を向いたら表情という表現が生まれ、演技を生むからではないか。さらに、細井一人の出演ならば、国際電話をする一人舞台のような仕掛けを感じないだろうか。舞台空間における身体が演出めいてくる。演技と演出を排するために、素の声で会話が求められ、情景を映像で見せることが必要だったのだろう。
黒い服装の彼らは黒子のように自身の姿を消しつつも、身体から発する声と、機器類を手で動かすテクノロジーで存在を示し、かつ三人という数が絶妙な安定感をもたらした。鼎談のように言葉を交わすことのない横並びだが、三人協同のタスクは、ジャックを差替える電話交換のように実装され、鑑賞者と一緒に今という時間を共有したのかもしれない。

撮影:中谷利明
あるいはこうも言えるだろう。作品を未完成で筋書きのない展開に接続し、この不確かな現実にコミットさせた。生成AIが急速に浸透する時代にあって、何が真実といえるのか曖昧さが増幅され、価値観は揺らぎ、生の不安は避けられない。ゆえに不安を反転させ、データ化されていない声で世界と関わるスリリングな現実、という世界を劇場に創ったのではないだろうか。
劇場の外に出ると、ロームシアター京都の中庭で幼い子供が発していた声や、二条通りを走る車の音がやけに明瞭に聞こえる。夕暮れ時、ピンクとオレンジがミックスされた雲があり、それは劇場で見た空の画像と違い、色鮮やかな空だ。雲は刻々と形が変わっていく。こんな色の空を描いた画家は誰だったかしら。ああ、モネが浮かぶ。ほかには? 会話が生じ、舞台上の通話を受け継いでいる気さえする。交換手たちがまだ動いているのか、あるいは、交換手はここそこにいるのか。
細井が最後に言った「二年後」という言葉は残響を伴う。それは通話相手との何かの約束なのだが、鑑賞者にも等しくやってくる二年後という近未来、私たちは何を見ているだろうか。声を聴いているだろうか。
世界交換手が溶け込んだ時空間は、オープンエンドのようだ。