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レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」公演評

毒とワクチン

文:山﨑健太
2022.3.15 UP

撮影:中谷利明

見えないもの、見えていないもの、見えないことにしているものを見ることは難しい。そもそも認識の外にあるそれを見るためには、自分には見えていないものが存在しているのだと自覚することからはじめなければならない。そうして見えないものが見えるようになったとして、それはしばしば自分にとって都合の悪いものだったりもする。むしろ多くの場合、それが自分にとって都合が悪いものだからこそ無意識のうちに見ないようにしてきたのであり、そのような真実はなおさら都合が悪い。無意識は(真実に薄々気がついている時点ですでに無意識ではないのだが)ますますそれを見ようとしないだろう。自らの差別性や加害性に気づき、それを認めることは、だから難しい。自分のことですらそうなのだ。誰かの目を、その人には見えていないものに向けさせるためにはそれなりの戦略がいる。

2017年に『妖精の問題』初演版を観た私がまず感じたのは強烈な拒否感だった。舞台上で語られる内容もさることながら、顔も体も奇妙に歪めながら複数の人物を演じる俳優・竹中香子の存在そのものが私には禍々しいものに感じられたのだ。下半身にオムツを履いて舞台に立つ竹中の姿は「見てはいけないもの」を、いや、私にとって「見たくないもの」を体現していた。自らの意志で『妖精の問題』を観るために劇場に足を運んだ私はしかし、延々と見たくないものと対峙させられる羽目になったのである。強烈な存在感を放つ竹中とともにこまばアゴラ劇場の決して広いとは言えない空間に放り込まれた私にはもはや、その存在を見えないことにし続けることはできなかった。翌18年の京都芸術センターでの公演では空間が広くなったこともあり、見たくないものと対峙させられる圧迫感は和らいで感じられたが、作品の本質は変わっていなかった。(ほぼ)一人芝居として構成された初演版の舞台上には竹中のほかに観るべきものはなく、劇場は観客がそれと対峙する場としてあった。

観客が客席に固定されている劇場は、相手が見たくないものを見せるための場としては条件が整っているようにも思える。だが、そこには二つの問題がある。一つは、「見たくないもの」に対する観客の拒否感があまりに強い場合、見たくないものは見ないという選択を観客がする可能性があるという問題。もう一つは、舞台上にある「見たくないもの」は観客にとって本当に見たくないものなのかという問題だ。客席に座る観客は、そもそもその作品を観ようという意志を持ってそこにいるはずである。さらに、怖いもの見たさという言葉があるように、嫌悪感を催すものは、しばしばその性質ゆえに消費の対象となることがある。誰かの目を、その人には見えていないものに向けさせることに成功したとして、そのときその見えていなかった「見たくないもの」が安全な娯楽へと転じているのだとしたら、事態はむしろ悪化している。

初演版は、ひとまずこれらの問題をおいて、まずは力技で観客の目を舞台上の竹中へと、竹中が体現する「問題」へと向けさせるものだった。一方、デラックス版での観客の視線は複数の方向へと分散させられている。出演者が7人に増えていることに加え、舞台が客席を三方から囲む形になっているため(舞台美術:dot architects)、上演を観る観客の視線は自然と様々な方向を向かざるを得ない。さらに客席も、三方を舞台に囲まれた中央エリアの床に置かれたクッション席と、残りの一方に設置された階段状の椅子席とに分かれている。椅子席の観客は常にクッション席の観客越しに舞台を観ることになり、その構造が、観客もまた見られる存在なのだということを意識させる。提灯を模して連なる照明(照明:魚森理恵)の中心は客席の真上にあり、観客は匿名の暗がりに逃れることもできない。私は他の観客の姿を通して観客としての私自身の姿を見せつけられる。舞台上の見たくないものと対峙することで炙り出されるのはもちろん、観客自身のうちにある見たくないものなのだ。

「妖精の問題デラックス」舞台セット。写真下部中央の床部分が客席(クッション席)となる
撮影:中谷利明

上演全体の枠組みとしての劇場同様、三部構成の各部のフォーマットも初演版から変更が加えられている。初演版では落語として、20年に上演されたオンライン版ではオンライン通話を模して上演されていた第一部「ブス」は、デラックス版では朝倉千恵子と筒井茄奈子による漫才(一部コント)へと書き換えられていた。「ブスとブスの高校生コンビ」ハイジニーナとして登場する二人のやりとりは「なんでうちらみたいなブスが子孫繁栄してんねん」「うんここねてる老人に早く死ねばいいのにって思いながら世話すんねん」等々、自虐も交えつつ差別的な発言に満ちたものだが、それが漫才であるという立て付けは観客の構えを低くし、反射的な拒絶反応を和らげる役割を果たす。言わば毒入りキャンディーのようなものだ。もちろんそこには、いまだに差別的なネタも多く、女性芸人の容姿を笑いにする悪習も残るお笑い界への批判的な視線も込められているだろう。その視線はすぐさま観客へと折り返される。セーフとアウトの線引きは観客との共犯関係でなされるものだからだ。

アパートに出没するゴキブリに悩まされる夫婦を描いた第二部「ゴキブリ」もまた、初演版とデラックス版とでは相当に印象が異なっている。さながら歌謡ショーの様相を呈していた初演版では、額田大志の音楽に載せて強烈な歌詞を歌い上げる竹中のエネルギーにただただ圧倒された。劇中の言葉を借りれば、竹中は私から遠い「異常」な存在としてそこにあった。一方、大石英史とキキ花香が夫婦を演じたデラックス版は、アパートの一室がセットとして用意されていたこともあり、まずはどこにでもいる夫婦の物語として受け取られるだろう。結果として、老人の介護をして生計を立てる若者が登場する「ブス」と、夫の介護の仕事が薄給のため引っ越したくても引っ越せない夫婦が登場する「ゴキブリ」との間に、(世代間)格差という問題が通底していることもよりはっきりと見えるようになった。

どこにでもいる、現実に疲れた夫婦がミュージカル調の音楽に導かれるようにして爆発させるエネルギーは凄まじい。様々にアレンジを展開し次々と姿を変えていく音楽はそれ自体が変化し続ける生命のようであり、夫婦とゴキブリとは競い合い互いを高め合うかのようでさえある。殺虫剤に耐える強さを得た「異常」のゴキブリと殺虫剤を吸い込んだために胎児に宿った「異常」。排除される生命と生まれくる生命。両者が混線することで「異常」の価値は反転する。

だが、「耐える強さ」を得る「異常」は本当に「よいもの」だろうか。人間は容易に順応する生き物だ。異常のゴキブリが「鈍感」ゆえにバルサンに反応しなかったように、人間も「毒入りキャンディー」の毒を簡単に無効にしてしまう。それもまた「異常」の一つのかたちだ。そういえば、アパートで夫が眺めるテレビに映っていたのは「ハイジニーナ」の漫才だった。ゴキブリを駆除するための薬剤のなかには、それを摂取したゴキブリだけでなく周囲のゴキブリまで殺してしまう効果を持つものがある。「ハイジニーナ」の漫才が娯楽として漫然と消費されるとき、その毒が殺すのは視聴者ではなく、その周囲の誰かだ。

第三部「マングルト」は初演からの変化が最も小さいパートながら、観客の側の受け取り方が最も大きく変わったパートかもしれない。司会の礼子さん(廣川真菜美)、アシスタントの山田さん(富名腰拓哉)、そしてマングルトの祖である小室淑子(緑ファンタ)の3名によるセミナーの参加者となった観客は、膣に常在するデーデルライン桿菌を使って膣内でつくられるヨーグルト、すなわちマングルトを勧められることになる。舞台上で女性器の俗称が連呼されることにびっくりさせられ(おそらく特に男性は)きまりの悪い思いをさせられる点は初演と同じだが、「本当に 殺菌=良いこと でしょうか」という問いかけは2022年の観客にとってはより強い意味を持つようになってしまった。

撮影:中谷利明

2020年以降、世界は新型コロナウイルスという小さな存在によってそのあり方を大きく変えることを余儀なくされ、2022年の現在は未だその変化の渦中にある。私はもと通りの生活が戻ってくることを願いながら、しかしすでに今の生活に慣れてしまった自分がいることにも気づいている。だが、「異常」が「普通」になるということは、何かが「見えないもの」になるということでもある。ワクチンによって抗体を得ることはもちろん重要だとして、毒を毒として受け取り続けるナイーブさもまた、同じくらい重要なのだ。

  • 山﨑健太 Kenta Yamazaki

    1983年生まれ。批評家、ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeでショートレビューを連載。他に「現代日本演劇のSF的諸相」(『S-Fマガジン』(早川書房)、2014年2月~2017年2月)など。2019年からは演出家・俳優の橋本清とともにy/nとして舞台作品を発表。主な作品に『カミングアウトレッスン』(2020)、『セックス/ワーク/アート』(2021)。

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