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#公演評#演劇#レパートリーの創造#2021年度

レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」公演評

劇場への再実装

文:高嶋慈
2022.4.1 UP

撮影:中谷利明

「ブス」を自称する女子学生2人の自虐的な掛け合いにより、「美醜」「社会的有用性」「生産性」の価値基準から外れた存在の社会的排除を肯定する構造をあぶり出し、ルッキズムや優生思想を問う一部「ブス」。二部「ゴキブリ」では、介護職の夫と主婦が暮らす狭いアパートを舞台に、ゴキブリ駆除に明け暮れる日々と、妊娠中にバルサンの煙を吸ったことが原因で「異常」な子どもが産まれたことがミュージカル調で歌い上げられる。三部「マングルト」では一転して、「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開される。三部構成の通奏底音をなすのは、ルッキズム、そこに内在する「容姿を絶対的基準として女性を一方的に選別してよい」とする性差別、老人介護、障害者、害虫、菌、女性器、そして女性が自身の性を主体的に語ることといった現代日本社会における「見えないもの=妖精」とされる諸問題である。

一部に登場する女性政治家が「自力で食事や排泄ができない老人は生物として不自然だから死ぬべき」「突出した天才よりも平均を保護せよ」と訴えるように、「基準」から外れた人間に対する排除や差別、嫌悪は、害虫の撲滅思想に変奏され、殺菌信仰を経て、「体内の菌との共生」に反転され、「人間も地球という巨大な生態系の中ではその表面に巣くう菌に等しい」として最終的に人間中心主義が相対化されていく。また、3つのパートそれぞれにおいても、「汚い」「タブー」とされる事象が最終的に強固な肯定へと反転する構造が反復されることで、価値基準の相対化と生(性)の全肯定がより強化されていく。例えば一部では、「ブスは疾患だから子孫を残すべきでない」という反出生主義的発言が、「女性器は普通の子と同じだから産んでいいし、生きてていいんだ」という肯定に力強く転じていく。二部では、主婦は最終的に、駆除剤の耐性がついた「異常なゴキブリ」の生命力を褒め称え、「異常な子ども」に対し「お前こそ生き延びるのです」と語りかけ、「突然変異」「奇形」を生存戦略として肯定的に読み替える。三部では、社会的異物から体内の異物である菌へと視点を移行させ、セミナーの創始者の自伝的語りを通して、「性も菌も汚いもの」として内面化した思想が「菌との共生により健康を保つ」思考に転換され、「私の身体ってなんて頼もしい」という自己肯定に転じる。『妖精の問題』のアウトラインはひとまずこのようにまとめることができる。

撮影:中谷利明

竹中香子の一人芝居による初演版、コロナ下の2020年にZoom上で発表された「オンライン版」について、筆者は既に劇評を執筆しているので[1]、本稿では内容面の詳述は控え、「デラックス版」の要諦である上演空間の大幅な改変に込められた企図と、戯曲の加筆に焦点を絞って考察する。

落語、政見放送と街頭演説、ミュージカル調の歌謡ショー、健康法の啓発セミナー。これらの「演劇外部」の形式は、一人芝居の初演版において、「長大なモノローグ」という作劇手法の虚構性や不自然さを回避するために要請されていた。一方、「自宅でのZoom会話」「オンラインセミナー」に置き換え、複数の俳優が出演するオンライン版では、要所要所で観客に対し、「除菌グッズを使用したことがあるか?」「マングルトを汚いと思うか?」といった「質問」が投げかけられ、集計結果が表示される。ネットの双方向性を活かし、リアルタイムの参加の臨場感を高めるとともに、観客自身が内面化する規範や偏見をあぶり出す装置としても秀逸だった。コロナ下の逆境を逆手に取り、「殺菌=善とする清潔信仰や異物の排除」に対して問い直す批評性はまさに時宜を得たものだった。

そして、ロームシアター京都の事業「レパートリーの創造」としてリクリエーションされたデラックス版の掛け金は、オンライン版の成果である一人芝居の形式の解体と「視聴者参加型」の批評性をどのようにリアルの場へ実装できるか、という点にある。7人の俳優が演じることに加え、ピアノ伴奏から4人編成のバンドへ再構成され、楽曲・衣裳・舞台美術の大幅な変更は、単に「豪華版」として分かりやすく消費されるのではないかという懸念は杞憂に終わった。とりわけ秀逸かつ要諦となるのが、建築家ユニットのdot architectsが手がけた舞台美術である。

会場の様子(無観客時) 撮影:中谷利明

上演空間は、コの字型に細長い「舞台」に囲まれ、左側にバンドの演奏空間、正面に漫才ステージ、右側に夫婦の住むアパートの一室がリアルに再現されている。これらに囲まれた中央の空間に桟敷席が設えられ、座布団に座る観客の頭上では、吊るされた赤提灯が祝祭性を高める。さらに桟敷席の後方には、通常の階段状の椅子席も用意されている。

撮影:中谷利明

一部が始まって奇妙な違和感を覚えたのが、女子高校生の漫才コンビの背景に、富士山と松が描かれた不似合いなスクリーンが置かれていることだ。その戦略的意図は明らかだ。つまり、「能舞台」の変形的模倣である。富士山と松のスクリーンは「鏡板」であり、その手前の漫才ステージは「後座」、舞台から桟敷席へ降りるスロープは「橋掛り」、バンドの演奏ステージは(左右反転した)「地謡座」、そして中央の桟敷席こそシテの舞う「本舞台」に他ならない。

ここで、では「シテ」とは誰か?という問いが浮上する。能では、思いを果たせず非業の死を遂げた者や地獄に落ちた罪人の「幽霊」が一般的であることを鑑みれば、ラストシーンで「死者」として登場する、「マングルト」のセミナー創始者の「淑子先生」とまずは解せるだろう(自伝を語る映像が流れるスクリーンではなく、「生身」での登場が幽霊の出現になるという反転も興味深い)。だが、「そこにいるのに見えない(ことにされる)幽霊的存在」はもっと他にもいるのではないか。そう、桟敷席に座る私たち観客である。この示唆は、「桟敷席の観客をさらに外部から眺める椅子席の観客」という視線の入れ子構造によって補完される。能舞台の構造を召喚することで、デラックス版は、「シテ」「見えないはずの霊的存在」と「妖精」をつなげ、舞台を見ている私たち観客こそが俎上に乗せられる様々な問題の「主役」に他ならないことを形式面において突きつける。ここに、本作を劇場空間で(再び)上演する意義が浮かび上がる。それは、「古典の形式との実験的融合」といった生温いものではなく、「上演」という出来事の当事者として観客を引きずり込む、暴力的とも言える仕掛けである。

最後に、一部「ブス」における戯曲の加筆について述べたい。女子高校生漫才コンビの片方は、「ブスだけど整形してキレイになって銀座でホステスとして働きたい」という願望を繰り返し口にする。ここで劇中劇ならぬ劇中コントとして、「ブスと同じく絶滅危惧種であるバクが全身美容整形して爆乳のAV女優になり、金と精液を男たちから吸い上げる」というエピソードが追加された。岡崎京子の漫画『ヘルタースケルター』を連想させるこのエピソードは、「誰の価値観により、どのような身体に商品価値が置かれているのか」という「性と消費」の問題を強調する。また、南野詩恵による衣裳は、「セーラー服」という性的に消費される記号を文字通り逆転させるとともに、ちょうど股間の位置にある赤いリボンが、社会的に不可視化される女性器の存在を顕在化させていた。

ただし本作は、安易にシスターフッドを称揚・依拠せず、「フェミニズム演劇」の枠組みに単純には収まらない。優生思想に基づき「美醜や生産性の基準外」に置かれた者の排除を訴える政治家が女性であること、そして彼女が乗る選挙カーを男性が押していることは、排除を正当化するシステムに女性もまた加担していることと、それを男性が利用している構造を示唆する。

撮影:中谷利明

「妖精の(諸)問題」がなくならない限り、本作は上演され続けられねばならない。そして劇場は、作品が内包する可能性を見定め、バージョンアップという形で作品の強度をより高め、社会への通路を開く役割を果たすべきだ。そのような強い連帯の意志を本作に見た。

1: 市原佐都子/Q『妖精の問題』(artscapeレビュー 2018年12月01日号) https://artscape.jp/report/review/10150985_1735.html
Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』(artscapeレビュー 2020年06月15日号) https://artscape.jp/report/review/10162329_1735.html

  • 高嶋 慈 Megumi Takashima

    美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。「京都新聞」やwebマガジン「artscape」にてレビューを連載。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(富田大介編、大阪大学出版会、2017)。

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