鑑賞からしばらく経って、この感動をどう記述しようか依然として考えあぐねている。
この、観劇経験における妙に爽快な感動は何に由来するのか。感動を呼び起こすはずのない陰惨ですらある台本の内容を、この感動と共に受け止めることが果たして適切なことなのか。そんなふうに、筆者は印象と内容のギャップについて考え続けている。
確かに内容的には、『 妖精の問題 デラックス』は疑いようもなくメッセージ性の強い作品だ。
第一部「ブス」では、二人の「ブス」の女子高生漫才師「ハイジニーナ」の漫才中に、不自然撲滅党の議員・屁当弁憤子(べとうべん・ぷんこ)の演説カーが、客席の周りを通る。平均的な容姿であるところの美男美女を保護し、平均的な知性の人間のみが生きる社会を実現しようとする内容の演説ののち、ツッコミの方、高校卒業後に介護士となり、山奥の養老院で老人を見下すことで精神の平静を保ち生きていこうとしていた彼女は老人もろとも自分も殺されてしまうと死を恐れ、ボケの方、卒業後は銀座のホステスになるつもりの上昇志向の強い彼女は、全身美容整形により、平均的な容姿と天才的な知性を兼ね備えた突然変異になろうと、生への欲求をますます高める。途中挿入されるコントで登場する、人間への全身整形手術によってAV女優になろうとするバクも含め、上への、下への、そして平均への欲望がこの部では交差するが、いずれも他者の存在を自己実現の手段に切り詰めてしまっている点であまり大差ないだろう。
第二部「ゴキブリ」は、自らの胎内に「異常」を宿してしまった若い女性と、その夫である薄給の介護士の若い男性とが、その異常を宿すきっかけとなった日を、二人でミュージカルを演じることを通じて、その異常の子への語りも含めるかたちで回顧する。5つもの殺虫剤の煙は客席へと広がっていく。その煙こそ胎内の子の異常の原因に他ならないのだが、殺虫剤の煙に満ちた部屋を見て、女性は原子爆弾投下と逃げ惑う人々の姿を連想する。終幕の音楽は最もにぎやかで、それはその煙の最中生き抜いた「異常なゴキブリ」のための、アイロニカルな賛歌だと筆者は思った。ホウ酸団子を設置したり殺虫剤をまいたりしたのは彼ら若い夫婦に他ならないのに、異常なゴキブリの逞しさに、自分たちの生き延びる希望を重ね合わせているのだろうか。原子爆弾投下という戦争犯罪への言及を導入することの効果も相まって、上と下、加害者と被害者とが重なるようにして入れ替わりそうになるという、この部が鑑賞者の胸に刻み込んだのはそういったきわどいアイロニーだったのではないか。
第三部「マングルト」は、女性器に牛乳を入れてつくる食品「マングルト」についてのセミナーを観客が受講する体のもの。この食事法を推奨する礼子並びに創始者・小室淑子の主張する「自産自消」の理念は、巷の人々の殺菌行為を戒めるものであるし、体内の常在菌と、牛乳という異物との交流に価値を見出すものである点で、確かに第一部と第二部の内容や登場人物の主張――平均への欲求のもとに潜む潔癖症、殺虫剤をまく行為の根本にある異物を排除したい欲求――に対し、部分的には有効な反論である。だがこの理念もまた――淑子の著書のタイトルは『生成り色の妖精』だが――正しいわけではない。というよりむしろ、これが反論として有効であるにせよやはりまたどこか誤っていると鑑賞者が感じるとき、それから第一部から第三部を通じてどこにも正しい人間の姿はなかったのではと思うとき、鑑賞者自身の現実生活へのまなざしにこの作品は介入することに成功するのではないかと思う。
優生思想と衛生観念をめぐって、反発し絶望しあるいは新たなる欲望を生み出す登場人物たちは、それぞれ対立する主張をもちつつも同じ業を背負っている、と筆者はみた。なにより、優生思想と衛生観念との連関が具体化されているのがこの作品の優れた点だ。それはすなわち、相模原障害者施設殺傷事件が起こった時点でコロナ禍における差別感情の高まりを予見していたということだろうから。
観劇後、筆者に一番はじめに浮かんできた感想は、「こう受け取って欲しい」という作り手のもくろみや願望が、かなりの程度で排除されているか、見えないというものだった。相模原障害者施設殺傷事件に触発されて生まれ出た、という作品の出自の深刻さに比して、問題提起を積極的に仕掛けるような、あるいは論争喚起的に突き付けたりかき乱してくるような、そういう我の強さのようなものが思ったほどない。この、言ってみれば説教臭さの無さが印象的だった(作品の中に正しい人間が一人でもいたら、そうは感じられなかったのではないかと思う)。
それは、漫才とコントの導入(第一部)、ミュージカル化(第二部)により、登場人物が直面する優生思想の全面化や抜け出せない貧困という現実が、表現の仕方としてはポップに昇華されていったからかもしれない。あるいはまた、公共放送のそれかと見紛うほどにクリーンなプレゼンの中に、平然と下ネタが出てくるユーモア(第三部)。笑うこと、歌うことは、自分自身を解放すること、いや、自分自身を責任の所在から一時的に逃亡させることでもあるのだが、それはそこに居合わせる者全員がそうなるのであり、鑑賞者も例外ではない。しかし、解放感を伴うポップな表現でメッセージ性が弱まったり歪んだりしたとは筆者は思わない。むしろ、メッセージ性の開かれ――正しい生き方など存在しない状況下で、それでも正しい何かを感じ希求するよう鑑賞者へ呼びかけること――のための戦略として機能していたように思う。
筆者はそのメッセージ性の開かれを、確かにこれは鑑賞者への問題提起としては具体性に欠いたところがあるものの、この作品の瑕だとは現時点では思っていない。そもそも作者である市原が問題提起を行っていないのでも、もちろんない。モティーフからくみ取れる問題意識も先述したように明瞭だ。ただ、市原のアウトプットが、今回の劇作品のまさに「デラックス」な複数の素材の協同による客体化によるものであるがために、内容はいつの間にか心地よさを伴って爽快な印象になっていく。
「デラックス」な複数の素材の協同による客体化は、折衷主義に陥らなかった。題材・素材へと、脚本・美術・衣装・音楽が共に、もちろん俳優による演技もまた、収斂していた。互いのセンスを分有し、素材を他の素材に翻訳しているようなところがあった。スクリーンに映された富士山は、正統な表象のもつどことないいかがわしさを、四畳半のセットは生活感はあっても内容のない生の虚しさを、舞台全体上方に張り渡された祭りの提灯からは型通りの生の反復を。この作品全体において一番盛り上がる第二部「ゴキブリ」の「ゴキブリの異常」を歌う二重唱が、近頃流行っている音楽に特徴的な、同じコード進行の反復のものというその何とも言えない泡沫的なニュアンス。そして何より、誰にも、何にも、顔がない。個人的な経験を宿すものが舞台から徹底的に排除されている。屁当弁憤子が支持されるだけあって、そもそもこの世界では何もかも平均的なのだ。
そうして、「デラックス」な複数の素材は「個人的な経験の捨象」を具体化しているがために、「それくらいのものともいえるし 小さくて大きな存在というわけですね」というこの作品の最後に置かれた主張は疑わしく聞こえる。この主張もまた、随分と個人的な経験を捨象してしまっているのである。
つまり、個人的な経験の捨象を経た新たな全体主義の胎動を、「妖精」は指し示していたのではないか。絶えざる他者の手段化の隙に、ひっそりと人々に対して優位に立とうとする人間たちの、なんとも卑小な性質が、いつの間にか見えない存在を生み出し、これを抑圧し、虚偽の連帯が生まれていく(第三部「マングルト」の終盤で、Zoomを模したビデオ会議システム越しに登場する会員として、それまでの俳優が揃って登場するのはどこか象徴的ではないか)。しかしこの作品は、「このような生を回避すべきだ」とはっきり主張はできない。「~べきだ」と発することができるのは、作り手が答えを知っているからこそだから。この作品において(作り手も含め)一人でも妖精を捕獲できる人間がいてしまったら、途端に陳腐で説得力も生気もない教育劇に落ちぶれてしまったことだろう。
こうして、徹底して人間の誤った生を提示し、対置させ、やはりどこにも正しい生はないのだとこの作品が鑑賞者を説得するとき、それはとりもなおさず、妖精の所在を絶対に明かさない矜持でもあったのではないか。
つまるところ、筆者が冒頭にぼんやりと述べた「感動」とは、その妖精の所在を絶対に明示的にしない、という頑なさを感じたことによる感動なのだろうと思う。そしてそれは、妖精からの問いかけを観客に投げかけるというコンセプトにこの作品が基づいているのであれば、この作品がはらむ大いなる矛盾だ。
だけど筆者はそのことを失敗とは思わない。妖精の所在を単に明かさないことと、絶対に隠し通すこととは、なんと異なっていることか。