演劇空間における「見えないもの」、それは観客であろう。私たちは役柄のない、そこに存在しないものとして取り扱われる。本作品の舞台は中央の床に座る観客をコの字型に取り囲むように設けられており、そこで私たちは「見えないもの」として作品の一部に組み込まれていた。
2016年に起きた障害者施設での事件をきっかけに制作された本作品は、優生思想と排除、マイノリティなどの「見えないもの」にされるという問題について、あらゆる角度からクエスチョンを乱立させている。中央に配置された、舞台の周縁であるはずの「観客」を含めて、本作品の「見えないもの」のありように迫りたい。
第1部ではセーラー服を上下逆に着た女子高生コンビが、ブスとしての生存戦略を漫才形式で繰り広げる。普通の女の子と同じことがしたいボケに対し、ブスは淘汰されるべきと諫めるツッコミ。「将来はブスな自分より下の老人を世話して生きたい」などと語るところに、自分を排除する思想を内包しながらずぶとく考える様子が伺える。自虐をまくしたてるツッコミだが、「ブスは死ぬべき」と排他的主張を訴える政治家の街頭演説に遭遇し、恐怖で物が言えなくなってしまう。またボケから「天才」だと面と向かって肯定される場面でもしばし反応ができなくなる。否定/肯定にかかわらず実際の他者と対峙することの恐ろしさや緊張を表すことで、一見自己否定的に見える自虐という振る舞いの自己防衛的な側面が引き立つ。劇作家の屈折的だがリアリティのある視座が見て取れる。
このシーンにおいて私たちは漫才を見る観客として配置される。しかしそこで行われているのはむろん演劇であり、観客としてのルールが漫才と異なるため、基本的には笑わない。声色、姿勢、表情のすべてにおいてブスしぐさ満載、フルスロットルでおどけている人を沈黙の中で見るというのはなかなか異様である。演劇という下部に敷かれた形式によって漫才という上部の形式を半分見ないことにしているため、鑑賞行為がひずみを起こし違和感を帯びてしまう。
第2部「ゴキブリ」に登場するのは貧困夫婦だ。近所の豚骨ラーメン屋のせいで部屋にゴキブリが出るようになり頭を抱える主婦。黙って外出していく旦那を背に鬱屈したムードが部屋を覆う。
主婦が舞台上からうつろに観客側を眺め、視線をさまよわせている。観客はなぜこちらを見続けているのか、自分たちの背後にある下手から誰か登場するのかと視線の行方を捜すが、しばらくして壁をはりつくゴキブリを目で追っているのだと気づく。そのうち視線はほとんどうっとりとしてきて、温かい躍動感ある音楽とともに、女性は部屋を飛び出して変身し歌い始める。激情的に歌われる内容はただゴキブリの生態についてである。ゴキブリの強い生殖力に呼応するように主婦はゴキブリを叩き、メロディの力によって肯定と駆逐が一瞬ないまぜになる。その後、夫の焚いたバルサンを誤って吸いこみ、お腹の子に異常が取り付いたことに打ちひしがれながらも、バルサンを焚いても死なないゴキブリの生命力から、異常を種の生存戦略の光と仮定する。ミュージカルとして歌い上げられたすべては登場人物の間で交わされることのない傍白であり、互いには見えないナラティブが過ぎ去った後、部屋に戻った夫婦は静かに目を合わせるところでシーンがおわる。シーン中、舞台下の客席に向かって白い煙がたかれ、私たちは床下の見えないゴキブリとしてその場に潜んでいたことを知る。視線の行方はこちらで正しかったのだ。煙を吸い込むことで私たちも異常のものとなり、いよいよ演劇と無関係ではいられなくなる。
第3部では自分自身の膣内の常在菌を利用して作る食べ物「マングルト」についてのセミナーが行われる。この舞台はこれまで、社会とブス、夫婦とゴキブリといった対立構造の中で進行してきたが、セミナーの司会である女性がもつ排除の暴力性は聴衆役である私たちの方を向いている。司会はシリアスな空気とくだけた空気を進行通りに勝手に切り替え、とても質問ができるような流れではないタイミングで観客側に質問を募る。会話中選択肢を2つ出すが、その選択肢を差し出すジェスチャーをする手のひらは、天秤のように傾けられ答えが決まっている。彼らは理想的な受け手のありようを自分たちで振る舞い、人々に包摂の場を与えているようで、そこには常に排除が準備されている。私たちは脅迫的な感覚の中で置き去りにされる。
ここまで「見えないもの」のありようについて見てきた。観客は物語が進むごとに傍観者ではいられなくなり、鑑賞する身体感覚をもって問題と向き合わざるを得ない状況に巻き込まれる。劇作家いわく「あらゆる生を肯定する試み」であるという本作品における生の肯定はどこにあるだろう。人間と害虫や菌を同一に扱う相対的な視点、弱者たちの図太い生存戦略のブラックユーモア、刺激を転回させるポップな音楽。問題に対して持ち込まれたこれらの明るさは、排除の問題の答えとして、政治的な承認の道を提示しているわけではない。強烈な問題提起は恐ろしいほどに現状維持的であり問題の深さを際立たせてすらいる。
見えないことの問題を、「排除と承認」ではなく、「存在そのものへの視座」から捉えることで、作品における存在の肯定を立ち上げることができるのではないだろうか。第1部、漫才中ボケの女子高生は、全身整形をすることで無敵になって銀座で働いて稼ぎまくる、セックスして子供を作るなどと人生計画を異様なテンションで語りまくる。こわれたテープのように妄想の断片を叫び暴れ回ってその場に倒れ、荒い呼吸の隙間から語りだす。お風呂からあがって、石鹸でさらさらしている体、畳に横になって、わきが湿ってくる。石鹸と混ざって、私からこんなにおいがするんだ、なんかめーっちゃいいような気がしてきた、と。ひたすら暴れた後で息が上がり体を意識せざるを得ない状況で、存在を縁取るそのモノローグに観客も感覚が同期していく。が、静けさもつかの間「セックスしたい、セックスしたい」と腰を床に打ち付け、ハイテンションな妄想語りに戻る。静寂の中に現れた肯定の仄めきはグロテスクな喧噪へ戻っていく。
観客の鑑賞体験からも存在そのものに対する反応が伺える。舞台は中央の観客をコの字型に取り囲んでおり、出演者が出入りする出ハケ口は死角にあった 。ふいに現れる俳優やバンドに、私たちは注意を払わざるを得ない。最後のシーンでは薄暗く誰もいなくなった中、映像でしか現れなかった「マングルト」の創始者がのっそりと現れる 。照明も当たらず、なにも言葉を発することなく、いつの間にか中央の方まで歩いてきており観客はそれぞれギョッとしてしまう。 鑑賞者は「ただある存在に注意を向ける」という身体の反応を体験する。人は相手を見るものとする、見ないものとするという意味的なやりとりよりも前に、その存在に注意を向けざるを得ない。本作品の問題提起の仕方と通じる、屈折的でユーモアのある存在肯定の企図を見ることができる。