口にしてはいけない言葉、描かれるべきではないイメージというものがあるだろうか?『妖精の問題 デラックス』は、醜いもの、臭いもの、隠されてきたものに「名前」を与え、その存在を可視化する。観客は試され、挑発され、居心地の悪さを覚えながら、こうした問いに向き合うことになる。
日常にあって見えなくなっているこうした状況を剥き出しにする装置のひとつが演劇であり、この装置は劇場に足を踏み入れた瞬間から動き出す。地下へ降りていくと、日常と非日常が混濁し、可視と不可視の閾となる夕暮れ時のような、それでいて祝祭的な空間が広がっている。赤い提灯のぶら下がった会場は、ハレの雰囲気を醸し出しつつ、黄昏時のぼんやりした暖かさと寂しさとに包まれている。この空間のもつ情動的な効果に身を置くことから本公演は始まる。三面からなるインスタレーションのように設えられた舞台は、正面への過度の注視を妨げながら、意識を散逸させる。こうした空間設計によって、わたしたち観客は視線を移動させるために、文字通りからだを「動かす」ことを余儀なくされる。緩い傾斜のスロープが舞台と観客席をなだらかに繋いでおり、その境界は曖昧に移動する。ある環境への身体的反応から生じる強度の経験が情動であるならば、この空間の構成によって、わたしたちの感覚、感情は呼び覚まされ、情動的に作品世界へと融合していく。
本公演が剥き出しにする「見えにくい」状況のひとつが、「ブス」をめぐる問題である。それは、醜いものに与えられた名前なのだろうか?その存在は不可視化されているのだろうか?お笑いコンビ「ハイジニーナ」のライブが展開する第一部では、二人の女子高生が互いに向かって「ブス」を連呼する。醜貌を指すこの言葉は、現代ではとりわけ女性に向けられる侮蔑語である。女性に向けられない場合でも、「ブス」の根底には、ジェンダー化された容姿の問題が横たわっている。だが、ブスという言葉は実際の美醜に関わっているよりも、むしろ、相手を罵り、傷つけるためのものではないだろうか。だから、ブスは、気に入らない女を貶めようとする際の凡庸な常套句としてその真価を発揮するのだ。もちろん、言葉やイメージはそれ自体で絶対的な価値を持つことなどなく、すべては文脈に依存する関係的なものである。二人の女子高生が互いに向かって連呼する「ブス」は、反響し合い、自分に向けられた言葉となる。自虐的に用いられる「ブス」に悲壮感はない。だが、それはブス礼讃でも「醜パワー」の称揚でもない。
女子高生の一人が語る「交尾」へのあくなき憧憬は、ブスと性欲過剰を結び付けてきた文学的伝統を想起させ、ブスを治して銀座で働いて、おじさんの愛人になってもいいという女子高生の言葉は、女を価値付けし、階層化する構造の方を浮き彫りにする。笙野頼子の小説『説教師カニバットと百人の危ない美女』を「果敢にも「自覚的なブス」を語り手に迎え、女の容貌問題への正面突破を試みた、おそらく本邦初の長編小説」と評した文芸評論家の斎藤美奈子は、かつて指摘していた。「女性差別のかなりの部分は、醜形差別と同義」なのだと[*1]。『妖精の問題 デラックス』は、醜形差別を反転させるぎりぎりのところで、女を価値付けし、階層化する力を前景化する。美や快の対極にある概念でも、醜貌でさえもなく、欲望されていないのだということを見せつけ、傷つけようとする言葉としてのブスの力を。
照明、舞台美術が創りだす空間のダイナミズムと並んで衣装の独創性も特筆すべきであろう。二人の女子高生が身につけている上下のパーツを入れ替えたセーラー服は、逸脱した女性性としての「ブス」の意味付け直しと、ジェンダー規範への揺さぶりを効果的に視覚化する。
第三部の「マングルト」は、「ブス」と直接的に呼応している。女性が体内で菌を増殖させることによって作られる食べ物であるマングルトだが、そこにはもちろん、女性性器を何と呼ぶかという古くて新しい問題が折り込まれている。身体の一部であるにもかかわらず、その名を呼ぶことが憚られ、下品だとされてしまうのはなぜなのか?「ブス」にも共通する問題が横たわっている。女を価値付け、階層化するために、他の身体部位にはない特別な役割を担わされるのが顔と性器なのだ。そして、「ブス」や「まんこ」という呼称によって、顔や性器はもはや個別の身体の一部であることをやめ、イメージとなる。それは「女」の価値が収斂する場なのである。
女性たち、とりわけフェミニストたちはこの「名づけえぬ身体部位」の問題について侃侃諤諤の議論を重ねてきた。名を与え、可視化することによって、女性性器を脱神話化する試みのひとつが1996年にNYのオフブロードウェイで上演され、今でも世界各地で上演が続けられているイヴ・エンスラー作『ヴァギナ・モノローグス』であろう。一方、日本でも、社会学者の上野千鶴子がその悪名高きエッセイ「おまんこがいっぱい」において、「おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづける」と勇ましく宣言したが、同じくフェミニストの斎藤美奈子は、その「抜群のセンスの悪さ」に呆れ返っている[*2]。
重要なのは、ある言葉がどの文脈で、何との関係で発せられているかである。女性性器を「おまんこ」と呼ぶのが悪いのではなく、それをどのように、なぜそう呼ぶのかが問題なのだ。この語が下品だとされ、眉をひそめられてしまうのは、女が性的対象物として眼差され、女の価値をそこに集約するに至る象徴的な意味作用が勝手にこの語に付与されてきた歴史性ゆえんである。だからセクシズムの横溢する文脈からこの語を引き剥がし、意味付けし直し、可視化するのは実に骨の折れる作業となる。「マングルト」は少なくともそうした作業に取り組んだ作品なのではないだろうか。
「マングルトの会」のセミナー参加者となるわたしたち観客は、その語が発せられる度に戸惑い、居心地の悪さを感じる。司会者に質問を促されても、みな押し黙ったままである。体内に異物を入れて、自分の菌と融合させて発酵食品を作り、自ら食べるという営みを汚いと思うのなら、「どこが汚いのか教えていただきたいと思います」と観客を挑発するセミナー司会者の問いは、まさに、言葉の文脈を問うものだ。また執拗に繰り返される「ブス」や「まんこ」という発話は、傷つけ、辱めると同時に、主体性を形作る言語実践でもある。わたしたちは、反復的に援用されるこの語に応答しながら女性性や女性の主体性を構築してきたのだから。
「異常の姿」の子どもが生まれてくる夫婦が登場する第二部の「ゴキブリ」は可視性(と隠蔽)の問題とともに、生きるに値する生が焦点化される。妊娠中にバルサンの煙を吸い込んだせいで「お前」には異常がとり憑いた、と母親が子どもに語りかける。だが、「生きているだけがある」姿をしたこの異形の子どもは「見えない」。そんなものは見えないように、誰かが隠していてくれるのだと彼女は言う。部屋の壁だけでなく、生暖かい体温とともに背中にへばりつくゴキブリを夫婦は憎悪し、殲滅させたいと願っているのだが、次第に、この二人とゴキブリの等価性が露呈されていく。大量のバルサンを摂取したせいで人間とは思えない姿の子どもを産む母親は、青いゴミネットやパスタの袋、お菓子の空箱からなる衣装で現れるのだが、ゴミの山をゴソゴソする妻もまたゴキブリなのだ、と衣装が語る。ドアを開けてアパートと他の空間を自由に行き来する二人は、ある空間から別の空間へと自在に移動し、姿を現したかと思うとあっという間に見えなくなるあの黒い物体そのものなのだ、と空間も語る。そして、二人の交尾はゴキブリと同様に「決められたプログラムをこなす運動」に他ならないのだと。ゴキブリの交尾から生まれたのが、人間のかたちを持たない異常の姿をした子どもである。だが、醜貌はきちんと隠され、見えないようにされているのだ。存在を疎まれながらも、しぶとく生き続けるゴキブリのような人間の死を願う人間が、ゴキブリであるというこの寓話をわたしたちはどのように受け止めるべきなのだろうか。
それは「ブス」に登場した不自然撲滅党の「不自然きわまりない」屁当弁憤子によってすでに具現化されていた寓話である。優生思想とルッキズムとセクシズムが結びついた地点にできあがる形象、それが屁弁当憤子なのだ。ブス、老人、自力で食事のできない人、不健康な人、頭の悪い人はみな生きるに値しない「不自然なもの」なのだと彼女は言う。なぜ生きるに値しないのか?マスクをかぶった屁弁当は答える。「ですからです」と。